仮面の鼓動(後編)

***

玉狛支部、屋上。ふと顔をあげれば、既に夜は明けていた。薄白む東の空は明るい。そろそろ中に戻ろうかと考えたが、空閑の足は動かなかった。
「おれ、なんかやらかしたかな」
宙に疑問を投げかけるが、当然返事はない。ふぅ、とついたため息が、静かな朝の街に反響した。
きっかけは何かと問われると、はっきりこれと言える自信はない。が、恐らくはじめから、彼女を意識していたんだと思う。トリオン体に痛覚はないはずなのに、彼女の取り繕ったような笑顔を見る度、ズキリと胸が痛む。他の誰かと話している時も、目の下にクマをつくっているときも、―唇を噛むあの仕草も。胸に走るその痛みに、嫌でも彼女をどう思っているかを知らされてしまう。
どうやったってそれは冷めない。かといって抑えられないほど熱くなることもない。下がることを知らない微熱を、空閑はいつまでも抱え込んでいた。


支部内に入ると、既に朝食の用意が整っていた。キッチンには三雲が立っていた。
「おはよう、オサム」
「ああ空閑、おはよう」
目玉焼きにポテトサラダ、それにこんがり焼いた食パン。オサムが作ったのか、とチラリと彼を伺うと、言わんとすることを察したように、三雲は言った。
「宇佐美先輩が作ってくれたんだ。今は涼宮の様子を見に行ってるよ」
ピクリと肩が反応する。どうやら三雲は、その空閑の反応に気が付かなかったようだ。
「先に食べてていいって言ってたから食べよう。冷めたら申し訳ない」
「おう」
そういえば、最近スズと一緒に食事をとってないな。ふと空閑はそう思った。
このごろ涼宮は、研究室に行ったり夜中に帰ってきたり、部屋で食事をとったりと、食卓に来ることがあまり無かった。先週も、その前も。
―ずっと前から、避けられていたのか。
それに気づくと同時に、空閑の疑問はさらに強くなる。
おれ、なんかやらかしたかな。

***

「それで振り払っちゃったの?遊真くんの手を?」
「うん…」
涼宮は俯いた。基本的に弱音は吐かない彼女だが、比較的玉狛の隊員、中でも宇佐美や迅には心を許しているように見える。今回の場合、体調不良による精神の歪みも、弱音を後押ししたのだろう。
「なんか…最近、変なんだ」
「変?」
言葉を紡ごうと開いた口は、空気を飲んで閉じてしまう。言葉を選んでいるのだと解釈した宇佐美は、何も言わずに続きを待った。
「前より、触れたいし触れて欲しいって思うようになった。そのくせ近くにいると心臓がバクバクいって、手が徐々にじっとり汗ばんで…好きなはずなのに、同時にそれが、すごく気持ち悪い…」
涼宮はまた俯いて、ぎゅっと唇を噛んだ。宇佐美は少し考えると、ゆっくりと、幼子を諭すように言った。
「スズちゃんが遊真くんに向けるその『好き』は、どんな『好き』?」
「どんな…?」
「チカちゃんや修くんに向けるのと同じもの?それとも、違うもの?」
好きに、同じも違うもあるものなのか。
涼宮は暫し宙を眺める。
「同じ、かな」
「うーん…そっかぁ」
何が言いたいのかと涼宮は首を傾げた。宇佐美はまた少し考え、言葉を選びながら話す。
「つまりスズちゃんは、遊真くんといるとドキドキして、手が汗ばんで、自分が変になったって感じる、と。」
「…うん」
宇佐美はくい、と眼鏡を押し上げる。彼女はいつもの笑顔だった。
「それは、至って普通のことだよ」
「…え?」
「好きな子といるとドキドキする!手に汗握っちゃう、触れたい、触れられたいと思う。恋するオトメは誰でも通る道だよ」
宇佐美はニコリと笑った。涼宮はというと、まだよく話の意味を噛み砕けていないようだ。
「恋?」
「うん」
「ボクが?」
「そうだよ」
「だれに!?」
「おいおい、スズちゃんは誰といるとそうなるんだっけ?」
答えはひとつしかない。脳裏に白いふわふわした頭の彼が浮かぶ。同時に顔が熱くなるのを感じた。咄嗟に俯くが、宇佐美にはバレバレだったようだ。
「じゃ、あたし朝ごはん食べてくるね」
また引き留めてしまっていたんだ。
涼宮が謝罪を口に出す前に、宇佐美は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「遊真くん呼んでくるから待っててね!」
「………え…!?」


控えめなノック。続いて開いた扉。立っていたのはやはり空閑だ。上半身だけ起こした涼宮は笑顔をつくった。だがそれはやや引きつった笑みになってしまっていた。
「スズ、体調はどうだ?」
「だいぶ良くなったよ」
涼宮は目を合わせない。二人の間に沈黙が流れた。涼宮は話を切り出すタイミングを伺っているのか。
「えと……昨日は、ごめんね」
「ああ、気にするな。おれも気にしてない」
ほんとう、だろうか。涼宮はチラリと空閑を見やるが、その瞳からは何も伺えなかった。
「ほんとに、なんか最近変で…いや、おかしいわけじゃなかったってのはわかったんだけど……」
ああだめだ、全然言葉がまとまらない。彼と同じ空間にいるだけで、こんなにも冷静さは失われてしまうのか。
これじゃあ恋なんて、病のようなものじゃないか。涼宮は内心そう思った。
「大丈夫か?顔、赤いぞ。まだ熱下がってないのか?」
「え?あぁ、もう微熱だよ。下がったも同然だ。……顔が、赤いのは…たぶんほとんどキミのせいだよ」
空閑の動きが止まった。打ちのめされたように固まってしまっている。涼宮は、しまった、と思ったがもう遅い。
「すまん、…おれ、なにかしたか?」
「いや、まって、」
「なにかあったら言ってくれ」
我慢なんかさせたくない、と呟くように付け加える。
「ちがう、違うんだよ」
違う。そんな顔をさせたかったわけじゃない。そんな顔をしてほしかったわけじゃない。
やり切れない気持ちが涼宮の胸に渦巻いた。唇を噛み締める。じわりと血の味が広がった。目じりがぐっと熱くなる。視界が霞んだ。
だめだ、泣くな、泣くな、泣くな。
その思いとは裏腹に、ポタリと涙は握りしめた拳に落ちた。一度流れると止まらない。止まれ、止まれ止まれ。こんなんじゃ彼をまた傷つけてしまう。
「スズ…」
空閑は涼宮に近づく。涙を拭おうと手を伸ばし、止まった。その瞳は鋭く宙を睨む。止まった手を再び伸ばした。ビク、と涼宮は身を固くする。
「っ、ごめん、」
「いいよ」
親指で丁寧に涙を拭う。涼宮はやっと顔を上げた。
思ったより近くに彼の顔はあった。朝日が射し込む。照らされてキラキラと輝く髪。物静かな眼差し。やはり彼は美しかった。
黒ずんだ水面みなもに、その光景はストンと落ちる。水面は激しく波打った。
「好きだ」
驚くほど素直に、その言葉は口から滑りでた。
その言葉を引き金に、涙はさらに加速した。
「好きだ、空閑」
今自分はどんな顔をしているのか。きっと酷い顔だ。とてもじゃないけど取り繕って笑えない。
「おまえ、」
―本気か。そう続けようとした言葉を、空閑は寸前で飲み込んだ。本気でもない人が、こんなに苦しそうに泣くものか。
はぁっ、と空閑は息を漏らした。今まで背負っていたものが、全て降ろされた気分だった。顔を上げた彼は笑っていた。
「泣くなよ、おれだって人並みに苦しいんだぞ?好きな人が泣いてるのは」
好きな人。その言葉が示す意味を理解するのに、涼宮は数秒時間を要した。空閑は涼宮の頭をくしゃりと撫でる。
「ふふ」
手の甲で涙を拭って微笑んだ、その涼宮の笑顔は、今までで一番子供を逸脱していた。妙に大人びたその表情に、空閑は息を呑む。
―もう、我慢なんかしないからな。
心の中で、空閑はそう宣言した。

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