よく晴れた日だった。喚く蝉たちの声が夏を知らせていた。照る太陽はガラス越しでも温度を運び、空調の効かない廊下を更に熱気で溢れさせていた。
「空閑、次の授業は?」
「ブツリだぞ」
じゃあ一緒だ、とオサムが言った。高校生は面倒だ。人によって出る授業が違うから、特定の誰かと一緒、ということはあまりない。
蒸し暑い廊下を進み、音楽室を通り過ぎる。
「…ん?」
確かに聞こえた。少しだけ開いていた音楽室の扉。その向こうから、ピアノの音だ。
次の瞬間、そこは、深く暗い森だった。湿った土の匂い、月も隠れた真っ暗な夜の匂い、刺すように冷たい風で擦れる木々の葉の音。全てが鮮明に、おれの中に流れ込んできた。そこは、深い森だった。
「空閑?」
「あ、あぁ」
気がついたら廊下にいた。オサムが、不思議そうにこちらを見ていた。おれは何事も無かったかのように、またオサムの隣を並んで歩いた。
ピアノは、弾く人によって色が変わる。柔らかさや、重さも。最近知った。アズサに言われて気づいた。
さっき弾いていた人は、たぶんすごく几帳面で、カンペキを求める人だ。それでも柔らかくて、柔軟な対応ができる。指はしなやかに長くて細くて、爪の手入れもきちっとしている。少し手が小さめかもしれない。指が届かなくて飛び飛びな音を、あの足元に付いてるペダルでカバーしていたように聞こえた。肌はきっとすべすべしている。一見力強く楽しそうで、飛び回る幼い子供のようだ。いつだってニコニコ笑っている。でもその内側の深いところには、一度割ったら戻れない、ガラスのような脆さを隠している。泣きたい時はきっと、ひとりぽっちだ。抱きしめて、暖めてやりたくなるような、切なげともいえる音色だった。
音のイメージだけで、演奏者の姿はずっと深くまでちゃんと見える。まあ、ただの妄想に過ぎないが。少なくともさっきの演奏者は、聴く人を一瞬でトリコにするような、足を止めさせるような、魂を抜き取ってしまうような、そんな輝きと魅力を持っていた。
―いったいどんな人だろうか。
ハッ、となって、おれは慌てて頭を振った。なんでこんなにも、見えない人を気にしているんだ。こんなんじゃ授業に身が入らない。それに、第一彼女―アズサに合わせる顔がない。顔も見えない演奏者なんて、知らないままでいいんだ。
気がついたら、もう教室に着いていた。オサムとたわいもない話をしながら席に座る。アズサはまだ来ていなくて、なぜかおれは、ほんの少しだけ、胸を撫で下ろしていた。
しばらくして予鈴が鳴った。アズサの姿はまだ見えない。前の授業が長引いているのだろうか。
その時、バンッと扉が開いた。そこに居たのはアズサだった。一瞬だけ、大きく心臓が跳ねたのは内緒にしておく。
「間に合った!?」
「おう、ギリギリせーふ」
よかったあ、と言って座った。おれが笑うと、アズサもつられて笑った。
「前の授業音楽でさ、ピアノ触ってたら楽しくなっちゃって」
「え」思わず声が漏れた。「え?」アズサも聞き返した。
アズサが、さっき、ピアノを触っていた。じゃあ、さっきおれが聞いたピアノの音色は、まさか。
「おまえ、ピアノ弾けたっけ」
「友達が弾いてるの見て覚えたんだ!でも手がちっさくてさ、鍵盤届かないんだよねえ」
自分の手を眺めながら、彼女は言った。
はあ、なるほど、なるほど。
なんだか今すぐ抱きしめたい衝動に駆られた。正直言って、おれはピアノの演奏者に心を奪われていた。あの、たった一瞬の間に。しかしその相手が、彼女だったとは。
―おれは、何回この人に恋をするんだろう。
すきになるのは1回きりじゃない。何度もすきになるから、その人がいつまでも愛おしいんだ。
「弾いてたの、なんて曲?」
同時に本鈴が鳴った。ドアが開いて、ちょっと禿げたブツリの先生が入ってきた。号令がかかって全員立ち上がる。
アズサは声を潜めて、おれの耳に顔を寄せて言った。
「ショパンの、『雨だれ』」
―もう一回聞きたい。
言い逃したから、あとで言おう。