彼女が涙を流す姿を、僕はその時、初めて見た。千里眼で捉えたマスター、梅木潤は、ベッドに腰掛けてただ泣いていた。拭うような仕草も見せず、ただただ涙を流していた。
「マスター」
部屋に入って声をかける。顔をあげた彼女は、無表情だった。そこに、涙の筋が装飾のように施されていた。
―なんだ、泣いてなどいないではないか。
そう思ったのは、彼女から伝わる感情が、「諦め」に満ちていたからだ。悲しみなど微塵もなかった。彼女はただ、諦めの心だけで目から水滴を零しているのだ。
「…今日は、母の命日なんです」
ポツリと彼女が言った。よく見れば、手には1枚の写真が握られていた。小さな写真だった。きっと持ち歩いているのだろう。
「もう7年も前なのに、毎年毎年、私の涙は枯れないのです。」
全く嬉しい誤算だわ、と彼女は続けた。不可解だった。諦めから生じる水滴が、そんなにも嬉しいものなのだろうか。
「悲しいんです。私は、悲しいんですよ、マーリンさん」
まるで自分に言い聞かせるように、彼女は呟いた。
「彼女の誤りは、私に愛を注いだこと。落ちこぼれの娘に失望しながらも、一人娘として愛でたこと。変に期待をかけて、自分の時間を私に費やしたこと。そんなことをしなければ、彼女はもう少し報われたでしょうに」
水滴の勢いは止まらない。彼女は自身の母親の死でさえも、その死に様でさえも、「仕方の無いこと」だと諦めている。しかしそれでも、彼女の頭は理解しているのだ。「母親の死は悲しむべき」だと。感情として持っているわけではなく、ただ、知識として。
彼女は自身を救済するために、「諦める」、すなわち思考を止めることでそれ以上の感情を抱かないようにしている。自分を守るために、自分を殺している。その結果、自身を成長させるために必要だったであろう感情の働きが弱まり、ただ世界を見る目だけが達観していったのだ。彼女が見ている世界はいつまでも理想的で美しく、それをみて彼女は、無邪気な子供のようにはしゃぐのだろう。例え世界が美しくなくても、「仕方の無いこと」で片付けられてしまうのだ。恐らく彼女にとって、目に見える姿は重要ではない。重視すべきは「諦めきれるか」ということである。「仕方ない」で済まないことが現れた時、彼女は自身の姿を見失ってしまうだろう。
「私の周りでは、たくさん人が死ぬ。母も、父も、いるはずだった兄も」
「死には逆らえないのさ。梅はこぼれていくものだ」
彼女は初めて僕の言葉を聞いたかのように、顔を上げて首を傾げた。それからまた視線を落とす。
「そうですね。桜は散るもの、梅はこぼれるもの、牡丹は崩れるもの…形あるものは、いつか壊れるものなのですね」
ほら、「諦め」だ。親族の死でさえも、拒むうちに諦めがつくようになってしまったのだ。
僕が心の内でため息をつきかけたとき、彼女がでも、と口を開いた。
「納得できません。あれだけ自己を犠牲にして、他人のために命を燃やしたのだから、もっと相応のものが与えられてもよかったのに」
その途端、僕の脳裏に1人の少女の顔が浮かんだ。何よりも国のことを、国民のことを考え、自分を後回しにしてきた少女の姿が。
―この子は、もしかしたら、僕と同じものを見ているのかもしれない。
一瞬でもそう思ったのが間違いだった。彼女の次の言葉で、見当違いだったと気付かされる。
「けれどそれも、どうしようもないこと。当人が見返りを望まなければ、神であっても手の施しようがないのですから」
彼女はゴロンとベッドに身を投げ出す。強い光を宿した、しかしどこか虚ろな瞳で、手にした写真を見つめていた。
「…神はいつだって、誰にも優しくないのだわ」
彼女と目の高さを合わせ、シーツを濡らす涙をそっと指で拭ってやった。もうこれ以上、中身のない涙を、僕は見ていたくなかったんだと思う。