ロッカールームで皺一つない白衣を手に取り、小さく息を吐く。今日は解剖のない日だし、鑑定書のまとめ、解剖器具の点検、解剖で撮影した写真の現像…と、佐野さんのこと。1日の仕事内容を把握してから、自分のデスクへ向かう。
「この脅迫状、とことん調べたのに指紋も出ないし何も出ない!気にいらない!」
『ああ、それ…』
「東海林、やたらとこだわるね」
色んなことがありすぎて、少し忘れていた脅迫状の件。夕子さんが調べに調べても何も出てこないとは。本当に一体誰がこんな事をしたのだろう。
「実は、この文面に心当たりが。」
『え?!』
そう言った夕子さんにみんなの視線が集まる。なんと、彼女は監察医務院で働いていた時知らずに不倫をしていたそうだ。
「まあ、考えてみれば?独身とも既婚とも言われてなくて、普通にアプローチされて、普通に付き合ったもんだから、普通に独身だと思ったまま」
『あー、そのパターンですか』
「…5年!」
『「5年?!」』
密かに盗み聞きしていた所長と久部くんも驚きのあまり、声をあげた。それにしても5年は大きすぎる。そして、心当たりというのが、職場に奥さんが乱入してきて《あんたのしたことは一生忘れない地獄に落ちろ》と言われたそうだ。
「ゆで卵投げられた」
『え、そこは生卵じゃないんですか?』
「名前さん、そういう問題っすか?」
普通、人に投げるなら生卵だと思ったんだけど。夕子さんは、脅迫状を見て、その時投げられたゆで卵の固さを思い出してしまったらしい。
「実は私にも心当たりが…」
『え、所長にも?』
「厚労省にいた時対立した人が、結果的に飛ばされちゃって。逆恨みされて、しばらく家に無数の無言電話が…」
「それだ!その人にしよう」
『いやいや、その人にしようって…』
何故みんな、そんなに心当たりがあるのだろうか。そう人に恨まれるようなことって、中々無いと思うんだけど。…あれ?いや、待てよ、
『あれ、ちょっと待って…』
「どうしたんですか、名前さん」
『私も少し心当たりが…。この間、夕子さんに誘われた異性間交流会で出会った田所さんのことを、こっ酷く振りました』
「うっそ、あの田所さんを?!」
「え、ちょちょちょっと待って下さい!い、異性間…?え、たど、ころさんって誰ですか!!」
相変わらずの田所さんからのしつこいアピールに嫌気がさして、何となく好意を伝えられた時に、こっ酷く振ってしまったのだ。だって何度も偶然ですね、と言いながら街中で遭遇するのは不自然すぎる。正直、気持ちが悪い。
「異性間交流会ってのは、まあ合コンね。そんで名前に好意を寄せてたのが田所さん。33歳の青年実業家」
「名前さん、合コンとか行くんですか…」
『名前さん、合コンくらい行くよ?行かないと出会いないじゃん』
脅迫状を見ながら、田所さんのことを思い出す。電話で好意を伝えられ、お断りしたら《なんで君にフラれなきゃいけないんだ!》と何故か逆上されたのだ。あれが本性だと思うと、心底断って良かったと思う。
『あ、でも、田所さんを振ったのは見学会の後だし違いますね、うん』
「いや、でもその人危なく無いっすか?」
「田所さん、そんな風に見えなかったけどねえ」
「大丈夫ですって、皆さんじゃ無いです」
ミコトさんが、この脅迫状は自分宛のものだと言う。この前の裁判の件で《週刊ジャーナル》にミコトさんの名前が載ってしまい、写真も勝手に使われた。その記事を見た過去の何らかの事件の関係者が嫌がらせに来たんだと。タイミングもばっちりだし。
『…久部くん?顔色悪いけど、大丈夫?』
「、はい、」
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1日の仕事が終わり、携帯をチェックしようと白衣のポケットに手を入れると中は空っぽ。あ、そうだ自分のデスクにポンっと置いていたままだった。仕方ない、とまた来た道を戻る。
『あれ、中堂さん。また泊まりですか?過労死しますよ』
カップ麺を持ちながら所長室を出て来た中堂さんとバッタリ。またカップ麺ですか、と言うと俺が何を食おうが勝手だ。と言い返される。
『中堂さんが何を食べようが勝手ですけど、今倒れられたら困るんです』
「俺が倒れても、お前が解剖医をやれば良い」
『…私は、解剖医に戻りません』
どうして、中堂さんはそこまでして私を解剖医として戻したいのか。人手不足なのはわかっているけど、私はメスを握ることは出来ない。この間の助手で精一杯だ。
「脅迫状」
『え?』
「あれは俺に宛てられたものだ。お前じゃない」
『…さっきから、お前お前って。誰のことを指す言葉ですか』
「名字じゃない」
『心当たりがあるんですか?』
急に脅迫状のことを話し出したかと思えば、あれは自分に宛てたものだと中堂さんは言い切る。その言い方は、自分にだとわかっているかのように。
「ありすぎて分からん。俺は恨まれやすい体質なんだ」
『恨まれやすい性格の間違いじゃ?』
「とにかく相手は俺だ。名字が心配することはない。」
核心に触れさせないように言う中堂さんに、ムッとする。自分宛だと言い切れる根拠があるはずだ。そう伝えると、中堂さんは自分のリュックから数枚の紙切れを出した。
『…何ですか、これ』
「今まで何枚も受け取ってる」
その紙切れには《罪を認めて償え》の文字が。一枚だけじゃなく、何枚も。誰がこれを?と聞いても、さあな、とはぐらかして所長室のドアを閉めようとする。慌ててドアを押さえて中堂さんを見つめた。
『なんで言ってくれなかったんですか』
「…言ったところで、何になる」
『そうですけど、私じゃ何も出来ないかもしれないけど、』
ドアを押さえている手をぎゅっと握った。悔しい、私は今とても悔しいのだ。
『…心配くらい、させてください』
同じ中堂班として。私はずっと彼の背中を見てきたのだ。中堂さんが周囲に助けを求めるような人じゃないのは知っている。だけど、心配くらいしたって良いじゃないか。
『中堂さん、知らないかもしれないですけど。私、中堂さんと入れ違いで日彰医大の法医解剖室に入ったんです』
「…知ってる」
『え、知ってたんですか、』
「俺が日彰医大を去った後、卒業してそのまま法医解剖室に入ったんだろ。所長から聞いてる」
以前、中堂さんが勤めていた日彰医大の法医解剖室。私は彼と入れ違いで、その解剖室で解剖医として勤務していた。だから、
『中堂さんの…事件のこと。』
「…知ってるのか」
『詳しくは、知りません。でも、その脅迫状って、それに関係してるんじゃ、』
「お前は関係ない。気にするな」
今度こそ、思いっきり所長室のドアを閉められて私の目の前はドアの茶色が広がった。《これ以上踏み込んでくるな》という事なのだろう。悲しいけど、無理矢理聞き出すことも出来ない。小さく、お先に失礼します、と声をかけて、自分のデスクの上にある携帯を握りしめてからラボを出た。
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