無事に事故の証拠が見つかり、これで佐野さんの労災保険が認定されるはずだ。ミコトさんはすぐに夏代さんへ報告しに行き、私と久部くんは、帰り道の歩道橋を渡っていた。
『イタリアの友達に聞いたんだけどさ、労働って罪なんだって。』
人は皆、罪人で罪を贖うために働いている。だから1分でも早く仕事を終わらせて家に帰る。というのだ。
「なんかそれ聞いちゃうと、働きたくなくなりますね」
『何が幸せかわかんないけどね』
歩道橋の階段をトントンと降りて、久部くんとの分かれ道。今日は彼はバイクじゃないし、さすがに反対方向の家まで送ってもらうのは気が引けたので、粘りに粘って最寄駅まで送ってもらった。久部くんは最後まで送る、と聞かなかったけど。
「あの、名前さんは、なんで働いてるんですか」
『ん?…生きるため』
「即答っすね」
先日から彼は何か迷っているのだろう。ふとした瞬間に考え事をするような顔をしていた気がするし、確か浪人して医大に入ったけど医者になりたい、と思ってもいなさそうだし。
『じゃあ、久部くんは?』
「いや、前も言いましたけど…俺、夢とか見つかってないですし」
『だーかーら!夢なんて大きいもの、見つけなくて良いんだって』
久部くんの肩をパシッと叩いて気合いを入れる。小声で《いたい…》と聞こえて、思わず笑ってしまった。
『私なんてね、次の給料入ったら焼肉食べたい。あと高級チョコも。最近リニューアルした水族館も行ってみたいし…そんな事ばっかりよ?』
「ほぼ食べ物じゃないっすか」
『休みができたら、何をするかとか。…誰かのために働くか、とか。』
「…はい、」
うん、うん、と真剣に聞いてくれる彼を見つめる。今はまだ正解がわからなくても、きっといつか彼自身の道が切り開かれると信じてる。
『わたし、久部くんの書く文章、好きだよ』
「え?」
『ほら、鑑定書とか。現場調査のまとめ、文章にするでしょ?そのまとめ方とか、言葉の使い方。読んでる側は読みやすいし、言葉の選び方も適切。』
「そ、そうですか…ね」
『私なんか久部くんよりも記録員長くやってるのに、未だに中堂さんから無駄に長いって言われるんだよ』
きっと今久部くんは、冷たい視線で鑑定書を読んでる中堂さんの姿を思い浮かべていることだろう。
『だから、文章を書く才能あるんだなーって思ったの。…これから久部くんは、色んなこと出来るんだよ。』
「はい、」
『なーんて、先輩ヅラしちゃった』
「一応、先輩じゃないですか」
『あはは、じゃーね!』
久部くんにヒラヒラと手を振って、背を向ける。彼が、やっぱり家まで送ります、と言いださないうちに帰らなきゃ。そういえば、まだラボに中堂さんはいるだろうか。一応今回の件の話をしようかと、自宅を越えてラボへ向かう。
『あれ、ミコトさん』
「名前、どうしてここに?」
『今回の件、中堂さんに伝えようかと思って。ミコトさんは夏代さんに話して来たんですか?』
「うん、あの人も忙しいからパパッと説明して帰ってきた。」
ラボの前で先ほど別れたはずのミコトさんと遭遇した。さ、早く中堂さんに話して帰ろう、とふと駐車場を見ると、今探そうとしていた彼の姿が。
『…中堂さんに、木林さん?』
「え?」
ちょうど中堂さんが木林さんの運転する車に乗り込むところだった。2人はそのまま何処かへ向かうようだ。プライベートで会っている、という雰囲気じゃないのはわかる。
「ごめん、お疲れ!」
『え?!ミコトさん?!』
急に近くにあったタクシーを呼んで、ミコトさんは車に乗り込んだ。きっと、2人を追うのだろう。取り残された私はポカーンとした間抜けな顔をしているに違いない。ミコトさんは中堂さんに何かあることを勘付いている。もしかしたら、これから核心に触れてしまうのかもしれない。
『…帰ろ、』
きっと明日は午後出でも良いのだろうけど、今夜はゆっくり眠れそうにないから、無駄に早起きしてしまうのは目に見えていた。
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『おはよーございま、す、?』
案の定、他の人はほぼいない状態でオフィスに入るとミコトさんと所長の姿が。私が挨拶に詰まったのは、2人が不穏な雰囲気だったから。
「ああ、名字さん。おはようございます」
『あ、おはよう、ございます。あの、何か大切なお話、してるようなので、』
「名前も一緒に聞いてほしい」
『…ミコトさん、?』
2人が何か大切な話をしていたところに割って入ってしまったのはわかっていた。ので、席を外そうかとしたら、ミコトさんに引き止められる。
「中堂さんは誰を殺したんですか?」
その言葉に心臓がドクリと鳴った。ミコトさんは昨日、一体何を。所長も動きが止まる。
「殺していないとしたら、なぜ疑われて逮捕までされたんですか?」
『あの、ミコトさん…』
「証拠不十分で釈放された中堂さんを、日彰医大は解雇した。その経歴を神倉さんが知らないはずない。」
真剣な声で所長に問いかける。もう逃げようがない、と思ったのか所長も背を向けずミコトさんと私に向かい合った。
「中堂さんは昨夜、所沢の葬儀場まで行って、葬儀の前のご遺体を検案していました」
『それって、ご遺族に無断で…?』
葬儀屋にお金を渡している姿も見てしまったらしい。それは、決して許されることではない。所長も詳しくは知らない、けれど何のためにしているのかは知っていると言う。
「中堂さんが、ここで働く理由。」
8年前1人の女性が殺された。そのご遺体は日彰医大の法医学教室に運ばれ、解剖することになった。被害者は身元不明で、スクラップ置き場に捨てられていたのだ。
『その日の当番は中堂さんだった、』
「…名前は知ってたの?」
『事件の概要、くらいは。』
中堂さんが無断でご遺体の検案をしていることは知らなかったけれど。事件の内容は風の噂で聞いていた。
「中堂さんは何も言わずに解剖した」
「何も言わずに…?」
「法医学者として当然の行為です。ご遺体は毎日やってくる。」
私はその《当然の行為》ができなくて、法医解剖医をやめた。だからこそ、中堂さんがどんな思いで目の前のご遺体を解剖したのか。考えるだけで、胸が張り裂けそうだ。
「そのご遺体は…中堂さんの恋人だった」
静かに告げた所長に、ミコトさんは目を見張る。
「運ばれてきた、恋人の他殺体を彼は何も言わずに、解剖したんです」
中堂さんの時はあの日から止まったままだ。いつ動き出すのかは、誰も知らない。だけど、このままで良いはずがないのはわかっている。気持ちとは裏腹に、何もできない自分に嫌気がさすばかりだ。
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