#64



「あちちちっ!」
「きゃははははは!」
『ちょ、夕子さんっ!』


酔いの回ってきた夕子さんの餌食になっている六郎くん。熱々のうどんを鍋からすくって、冷ますことなく口元にもっていかれた六郎くんは熱かっただろうに、酔いもあってか大笑いしていた。唇が乾燥してリップを塗ろう、とデスクに置いてあった自分の鞄を手に取ると、中には例のお見合い写真が入ったままだった。


『ちゃんと、話さなきゃ、』


夕子さんやミコトさんの明るい声を聞きながら、スマホを持って静かにオフィスを出る。少し離れたところの壁に背を預け、着信履歴から母親の名を見つけ出し、通話ボタンを押した。




『あ、もしもし、お母さん?』
《あら、やーっとかかってきた。元気にしてたの?》
『うん、…この間は、ごめんね』


前回電話をした時は、勢いで電話を無理やり切ってしまった。その事を詫びると、母からも謝罪を受ける。


《名前のこと、考えもせず口うるさく言っちゃって》
『心配してくれてのことだ、ってわかってるから』
《そう、》
『お母さん、私ね。…今、法医解剖医に復帰しようと思ってるんだ』


一つ深呼吸をしてから、そう伝えると電話口の母は、そうなの。と一言呟く。


『そう思えたのは、UDIラボで一緒に働いてる人のおかげ』
《良い職場だね》
『うん、本当に。…だから、今は正直結婚のことは考えられなくて』
《そうかい。それは、仕方ないね》
『お母さんに早く孫を見せてあげたい気持ちはあるんだけど』
《ふふふ、今は気持ちだけで十分、と言っておこうかな》


優しい声で話す母に、私も静かに笑う。お見合いは申し訳ないけど断ることになり、一つ肩の荷がおりた。


《そっちに良い人がいるんじゃないの?》
『んー、どうだろう?』
《その声は、いるんでしょう?お母さんにはわかるわよ》
『あはは。さすが』
《ちゃんと紹介してね》
『…うん、紹介できる時が来たら、ちゃんとするから』


そう言いながら私の頭の中で浮かぶのは、やはり六郎くんの姿で。今度の休みには実家に帰るね、と伝えて母との電話を切る。




「名前さん、」
『ん?あれ、どーしたの、六郎くん』
「なかなか名前さんが戻ってこなかったんで、心配で」
『ああ、ごめん。母に連絡してたんだ』


六郎くんも私と同じように壁に背を預けた。少し時間が経ったら、酔いもさめてきたのか、先ほどの浮き足立った感じの六郎くんではなく普段の彼だった。


「…父と話してきました」
『うん、』
「まだどこに進んだら良いのかわからないけど。これからのこと、じっくりUDIで考えたい。って」
『うん』
「わかった。好きにしろ。…ただし、二度とうちの敷居を跨ぐな。」
『え、』
「そう言われました」


自分の足元を見ながら、教えてくれた六郎くん。彼の横顔は酷く傷ついて、寂しそうなものに見えた。


「帰る場所…無くなっちゃいました」
『六郎くん、』
「まあ、もともとあるようで無かったんすけどね」


あはは、と乾いたように笑う彼の正面に立って、彼の頬に両手を添え、見上げる。


『六郎くん、帰る場所は実家だけじゃないよ』
「え?」
『…ここだって、UDIだって。六郎くんが帰ってきたら、おかえり、って言える場所だよ』
「名前さん、」
『六郎くん、前言ってたでしょう?』
「まえ?」
『私に一人で泣かないで、って。泣きたい時は僕が側にいます、って』
「はい、」
『私も、同じ。六郎くんが一人で泣いてたら、寂しい。自分の無力さが嫌になる。…六郎くんが泣きたい時は、私が側にいるよ?』


そう言って、彼の両頬に添えていた手をそっと首の後ろに回して、少し背伸びをしながら抱きしめる。六郎くんは何も言わず、私の肩に顔を埋めていた。


『私が、六郎くんの帰る場所になりたい。いつでも、行ってらっしゃい。おかえり。って、六郎くんに言いたいの』


この気持ちをどう言葉にして良いのかわからない。ただ、六郎くんは1人じゃない。私だけじゃなくて、UDIのみんながいる。それを伝えたくて。伝わって欲しくて。


「名前さんって、本当にずるい」
『ず、ずるい?』
「かっこよすぎ」
『そ、そう、かな?』


少し涙声の彼が、私の肩に顔を埋めながら言う。はじめは私が抱きしめていたはずなのに、いつの間にか六郎くんの腕も私の背中に回っていた。


「…名前さん、」
『ん?』
「俺、ちゃんとします。ちゃんとして、」
『うん、』
「名前さんより、かっこよくなります」


もう充分カッコ良いんですけど、と思ったけれど口にはせず、頷く。六郎くんがゆっくりと身体を離し、私たちの距離が少し離れる。彼の手が私の髪の毛をそっと撫でて、そういえば前もこんなことあったな、とぼんやり考えていた。


『ねえ、六郎くん』
「はい」
『…おかえりなさい』


ただいま、と彼が返事をして、私の髪の毛を撫でていた手が止まる。上を見上げると、すぐ近くに真剣な顔をした六郎くんがいて、相変わらずオフィスから聞こえる明るい声を背に、私たちの唇が触れ合った。



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