久しぶりによく眠れた、と思いながらミコトさんから貰ったアイマスクを外す。昨日の帰り際、ミコトさんからも隈を指摘されて苦笑いする私に彼女がくれたのだ。いつもよりか、スッキリした頭で出勤することができそうで、気分も良い。
『今日は帰り時間に雨予報かぁ…、レインブーツの方が良いかな』
支度が済み、玄関で靴を選ぶ。レインブーツを手に取り、ふと、夕希子さんのことを思い出した。彼女は事件当日、編み上げブーツを履いていたと調書に書いてあった。けれど、スクラップ置き場で発見された時にはブーツを履いていなかった。
『…編み上げブーツって、脱ぎ着するの面倒だよなぁ』
レインブーツを履いて、玄関を出る。しっかりと鍵を閉めてから、改めて思考を巡らせた。犯人が証拠隠滅のために、靴を脱がせた?いや、でも、橘 芹菜さんは靴を履いていたし。どう考えるのが自然だろう?モヤモヤしながら歩いていると、あっという間にラボへ着いていた。
『あ、夕子さん。おはようございます』
「おはよー、名前」
『夕子さんが靴を脱ぐ時って、どう言う時ですか?』
「はぁ?なに、それ?心理テスト?」
朝の挨拶に続いた言葉が意外過ぎたのか、目の前の彼女は、眉間にしわを寄せて不思議な顔をしていた。話の脈略なんてものは、皆無だったから仕方がない。それでも、真剣に考えてくれるのは、さすが夕子さんだ。
「んー?靴を脱ぐ?靴を脱ぐ時…単純に、家に入る時。じゃない?」
『家に入る時…』
「ああ、あと、居酒屋の座敷とか?室内なら靴脱ぐことあるよね」
『そっか、室内…!さすが、夕子さん!!ありがとうございます!』
ロッカーから慌てて白衣を取り出し、誰よりも早くロッカー室を出て行く。オフィスにいた中堂さんに挨拶をしてから、本題を切り出す。
『中堂さん!私、凄いことに気づいたかもしれません!』
「なんだ、言ってみろ」
『夕希子さんは、室内で事件にあったんじゃないでしょうか?編み上げブーツを脱ぎ着するのは大変だし、靴を脱いで上り込む状況だったんじゃないかって』
「ああ、その件なら昨日三澄とも話してた」
『ええええ、凄い発見だと思ったのにぃ…!』
「一足遅かったな」
鑑定書で私の頭をポンっと軽く叩き、中堂さんはそのままオフィスを出て行った。入れ違いでやってきたミコトさんに声をかけると、昨夜、橘 芹菜さんが見つかった現場へ行ってきたということを聞く。
『何かわかりましたか?』
「わかった、というか。見つけた、というか」
『見つけた?』
「うん。ってことで、東海林。これ調べてもらえる?」
PCと向かい合っていた夕子さんに、ミコトさんが話しかける。今日も夕子さんは、絶賛落ち込み中。今の雰囲気に耐えられなくて、いつも元気な夕子さんさえ、沈んでしまっている。
『蟻…ですか?』
「うん。中堂さんが昨日見つけたの。遺体発見現場で」
「蟻の死因が犯人と関係ある?」
「分からないけど、念のため」
「犯人のつけていた整髪料が強烈な臭さで、蟻がありえな〜いって卒倒して、死んだとか?」
慣れないダジャレを言う夕子さんに、私とミコトさんも苦笑い。最近の重い空気に耐えられない、と嘆く夕子さんに、ミコトさんは重い重力の星に来たと思えば良い、とフォローするけれど、効き目は無し。すかさず、近くにいた神倉所長も話しに乗ってきた。
「木星とかね」
「木星はガスの星だから歩けません」
「えっ、そうなのー?」
『所長、驚き方が不自然ですよ』
みんなで夕子さんを励まそうと試みる図が、なんとも可笑しくて気づかれないように小さく笑う。いつも通りが、どんなものだったのかわからないまま、蟻の検査行ってくるアリと再びダジャレを投下した夕子さんは、思っていたよりも重症なのかもしれない。
「あれだ、からかい要員、六郎が不足してるのかも。」
「あれ?久部くん、どこ行った?」
「急ぎの用事があるって、出て行きましたけど」
『急ぎの用事…?』
気づけば、六郎くんの姿はオフィスにはなく、彼は用があって出て行ったらしい。なんだか胸騒ぎがして、心臓がどくり、と鳴った。
『所長、私お昼食べてきます』
「え?!お昼…にしては、早くない?」
『行ってきますー』
「え、あ、ちょ、名字さーん!」
私を呼ぶ所長の声をスルーして、早足でオフィスを出る。六郎くんが出て行ったのは、ついさっきみたいだし、ラボからそこまで、遠く離れた場所にはいかないはず。…多分。ラボから数十分、川が流れている橋を渡って、周囲をキョロキョロと見渡すと、探していた人物が視界に入る。
『…あの人、どこかで、』
六郎くんは、橋を渡った先のマンションの間にある公園で、男性と話していた。彼らに気づかれないように、少しずつ近づいて行く。自分が持っている疑念が、確信してしまうのではないか。そんな、不安な気持ちを必死に抑えながら。
「俺が殺したって疑ってる?」
公園の木々に身を潜めて、耳をすます。少し遠い位置なので2人の会話を全て聞くことはできないけれど、六郎くんと話している男性が、そういったことはしっかりと聞き取れた。
「殺した凶器だって、家にはねぇぞ」
「ボツリヌス菌は家庭でも発生します。」
「ぼ、ボツリヌス菌?」
男性が急に笑い出して、近くにあったベンチに座ったかと思うと、UDIもたいしたことねぇな、と言ってから何故かABCの歌を唄い出す。
「中堂先生に伝えておけ。早くしねぇと間に合わねーぞ」
そう言って、男性は公園を後にした。六郎くんは、そのまま手元にある数枚の紙を眺めている。心臓がさっきから、ずっとドクドク言っていてうるさい。白衣のポケットに忍ばせていた携帯のバイブが鳴り、六郎くんにバレないよう静かに手を伸ばした時、足元にあった木の枝がパキッと折れる音がした。
『あ、』
「…え、名前さん…?」
木の枝が折れる音で六郎くんが振り向き、私とバッチリ目が合う。彼はものすごく驚愕しているけれど、私だって同じだ。木の陰に隠れている、この状況。どう考えたって盗み見していたのは明らかだ。
「え、あ、名前さん、いつから…?」
『あー、いつ、いつ…だろ、』
あはは、と苦笑いを浮かべて木の陰から出て行き六郎くんの側まで行く。彼は手元に持っていた紙を素早くファイルに入れて後ろに隠した。その行動が、私の心にズドンっと何か重い物を落とした気がした。
「話、聞いてました…?」
『うん、ごめん。』
誤魔化すのは不可能だと思って、素直に答える。六郎くんの視線は、どこかを行ったり来たりして動揺しているのがわかる。少し汗ばむ手のひらをぎゅっと握ってから、改めて彼を見つめた。
『さっきの人って誰?』
「え、」
『ただの知り合いって感じじゃないのは見ててわかった』
「あの、人…は」
歯切れの悪い口調で声を振り絞る六郎くんの言葉を待つけど、私の問いに彼は口を紡いだ。ああ、どうしよう。私の疑念は、着々と確信に迫ってしまってる気がする。
いつのまにか携帯のバイブ音は消え去っていた。
『さっき、後ろに隠した紙って何?』
「名前さん、」
『なんで橘 芹菜さんの話をしてたの?』
「それは、」
『…六郎くん、私に、みんなに…何か隠してない?』
自分でも驚くくらい、苦しくてか細い声が出た。言ってしまった後に、目頭が熱くなる。視界が揺れた先に、また、私の知らない難しい顔をした六郎くんの姿が見えた。
『夕子さんが巻き込まれた事件の情報も、六郎くんは何故か警察と同時くらいに知ってたよね』
私の声に、六郎くんは俯く。どうしようもなく怖い。声も震えるし、涙が溢れそうになるけど、私は今。聞かなきゃいけないんだ。
『週刊ジャーナルに載ってた、蜂蜜ケーキの事件の写真。ずっと引っかかってた。誰が撮ったやつなんだろって』
「名前さん、」
『…私、六郎くんのこと全然わかんない。』
不意に下を向くと、涙がぽろりと一粒落ちた。静かになった携帯が再び震え出す。ブーブーというバイブ音が2人の間に流れ、私は白衣から携帯を取り出した。UDIラボからの着信。私がラボを出てから1時間以上は経っているから、心配した誰かが連絡をよこしたのだろう。鼻をすすって、通話ボタンを押した。
『もしもし、』
「お前、今どこにいる。」
『…お前、じゃなくて名字です、』
「写真整理できてねぇだろーが。早く戻ってこい」
『…はい、すぐ戻ります』
電話の相手は中堂さんで。私を心配した、というよりは仕事の催促だったことに、中堂さんらしさを感じてしまって、少し重くなった気持ちが軽くなった気がする。携帯をポケットに戻し、六郎くんを見据えると彼はいまだに下を向いたままだった。
『ごめん、もうラボに戻るね』
「…はい、」
『前に話したことがあったと思うけど、』
「はい?」
『…六郎くんがUDIラボでバイトしようと思った理由。どんな理由であろうと、私は六郎くんがUDIラボに来てくれて良かったと思ってる』
六郎くんがバイトを始めた時、確か聞いたことがあった。何故ここでバイトをしようと思ったのか。その時、私はそう言ったんだ。それは今も変わらない。
『私は、そう思ってるよ。今でも』
「名前さん、」
『六郎くんも。早めにラボ戻らないと不審に思われるし、用事足したら戻っておいでね』
敢えて、さっきの男性と話をすることが彼が言っていた《急用》ではないだろう、という意味を持たせて、そう言ってから私は先程来た道を戻る。
『…どうしよう、』
あと少しでラボに着く、という時に、神倉所長が何かわかったら教えてください、と言っていた顔を思い浮かべる。それと同時に思い出したのは、私の名前を優しく呼ぶ彼の顔で。酷く泣きたくなる気持ちを、どう誤魔化して仕事をしたのか、覚えていない。
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