『どうしよう、』
震える手で携帯を握りしめる。一体中堂さんは何をしようとしてる?退職届?それって、中堂さんが法医解剖医を、UDIを辞めるってことだ。とにかく、中堂さんを探さないと。足にグッと力を入れて、一歩踏み出した時、再び私の携帯が震えた。
『ろくろうくん、?』
久部 六郎の文字に、鼻の奥がツンとした。深呼吸をして、着信を受けると、電話先の六郎くんも慌てているようで、少し声が上ずっていた。
《名前さん、中堂さんが退職届を置いて何処かに行きました。何か、》
『うん、知ってる、連絡きたの、』
《名前さんは、今何処に?》
『朝から中堂さんの後追ってて、それで、』
と、私が話していると、六郎くんの近くにいたであろうミコトさんの声が聞こえた。人を殺すなら始末する人が必要。私なら木林さんに頼む、と。
『…中堂さん、やっぱり、』
彼は今、一線を越えようとしてる。あっち側にいっちゃダメなのに。行き先なんてわからないのに、とぼとぼと歩いていた足が段々と早まる。早く、早く。
《名前さん、多分中堂さんは宍戸の家です》
『住所は?!』
《いや、でも、名前さん、1人じゃ…》
『いいから!早く!』
ミコトさんが木林さんから中堂さんの居場所を聞き出した。彼は昨夜、木林さんに遺体の搬送と火葬を頼んだらしい。遺体はまだ、生きてる。とも言っていたそうだ。故に、中堂さんは、その遺体となる宍戸に会いに行ってるはず。六郎くんから住所を聞き出し、携帯のマップを開いた。
『…どんなに、早くても15分、』
とりあえず、大きい通りに出て、タクシーを拾う。なるべく急いでください、と伝えても信号一つ止まるだけで、そわそわして落ち着かない。六郎くんとミコトさんもバイクで向かってるそうだけど、早く、早く。
『っ、もう、ここで良いです。お釣りも結構です、!』
もう少しで宍戸の家、というところで工事のため車線減少しているのか、小さな渋滞ができていた。これなら走ったほうが早い。お札を渡して、すぐにドアから出て走り出した。
『っ、はぁっ、こ、こ?』
辺りはあっという間に暗くなっていた。見上げたアパートの階段を急いで上がる。息も切れてるし、足も痛い。何度か階段を踏み外しそうになったけれど、なんとか宍戸の家の前まで着いた。
『中堂さん、!』
鍵もかけられていないドアを開けて、枯れきった喉から声を出す。部屋に中堂さんと宍戸の姿は無くて、ゆっくりと歩みを進めると、部屋のベランダ共有部分で、宍戸とやり取りをしている姿を見つけた。宍戸が何かを渡した代わりに、中堂さんも小さな瓶を渡している。よかった、まだ宍戸は、
『中堂さん、』
再び声をかけようとしたところ、小さな瓶の中身を飲んだ宍戸が、急に中堂さんが持っていたペットボトルを振り出す。ちょっと待って、あのペットボトルに入ってるのって、
『なかどうさん!!』
ほぼ、叫び声に近かったと思う。2人は私の存在に気づいていなかったのか、宍戸は私が焦っている表情を見て、ニヤリとしてから声を上げて笑う。中堂さんは、呆然と手元にあるソレを見つめていた。
『それ、犯行に使われたボール…』
「一歩遅かったなぁ、お嬢ちゃん」
あっはっは!と声高々に笑う宍戸。中堂さんの側に近寄り、ボールが入っているペットボトルにそっと触れる。中に入ってるのは、恐らく硫酸。ボールに付着していたはずのDNAも、これじゃあ、検出できない。
『あなた、高瀬の犯行現場にいたんですよね?!』
「あ?そんなの、証拠もなけりゃ、っ!」
私の横にいたはずの中堂さんがふと立ち上がったと思った瞬間。先程まで高らかに笑っていた宍戸の頬に、中堂さんの拳が入った。驚きのあまり、私は身体が固まる。
『、な!なかどうさん、!』
慌てて、中堂さんの元へ行こうと手を伸ばしても彼は私のことを気にすることもなく、宍戸を殴り続ける。
『なかどうさん、っ!だめ!やめて下さいっ!』
「うるせぇ、どいてろ」
今まで聞いたことも見たこともないくらい冷たい声と、視線。彼の腕を止めようとする私の身体ごと突き飛ばした。尻餅をついても、また中堂さんの腕を止めようと、私も立ち上がる。だけど、力の差は歴然で、私が止めようとしても中堂さんの力は弱まることなく、宍戸に馬乗りになっていた。
『もう、やめて、なかどうさんっ、』
「中堂さん!」
「中堂さん!中堂さん!」
中堂さんを止めることができず、ほぼ彼の腕にしがみついてる状態で、ミコトさんと六郎くんが部屋に入ってきた。この状況を見て、2人も物凄く驚いている。
「ボール!」
「硫酸だ。もうDNAは取れない!」
六郎くんも、ペットボトルに入っている犯行に使われたであろうボールを見つけたけれど、もう、それは意味がない。
「残念だったな。最後の証拠もなくなった。フグの毒まで用意したのにな」
殴られていた宍戸がゆっくりと、起き上がろうとする。フグの毒まで用意した…?誰が?
「フグ?」
「解毒剤ありがたく頂戴したよ」
『…解毒剤?』
「、フグの毒の解毒剤は存在しない、」
ミコトさんがそう言った瞬間、宍戸は寝転がりながら苦しそうに嘔吐した。…中堂さんが?中堂さんが、宍戸に、
「何を飲ませたんですか?」
『っ、中堂さん!!』
「こいつが自分で飲んだ」
『自分で、』
「テトロドトキシンが、そう簡単に手に入るか。注射はただの麻酔。こっちが本命だ」
宍戸が自分で飲んだ、と言うことは私が来た時に持っていた小さな小瓶。ここに飲み捨てられたはずの小瓶を探し、少し離れた場所で見つける。
「ゆっくり、苦しみながら死んで行け」
中堂さんの表情は、私からはわからなかった。だけど、きっと物凄く冷たい表情をしているんだろう。ミコトさんも、悲しそうな顔で中堂さんを見つめている。
「何を飲ませたのか教えてください、」
ミコトさんの声に、中堂さんは口を開こうとしない。毒物が入っていたであろう、小瓶を握りしめる。
「戦うなら、法医学者として戦ってください…!」
「法医学者はもうやめだ」
「なら個人的な話をします。…私が嫌なんです!」
そう言ったミコトさんの方を振り向く。不条理な事件に巻き込まれた人が、自分の人生を手放して、同じように不条理なことをしてしまったら、負けなんじゃないですか?と、ミコトさんは涙交じりに訴えた。
「中堂さんが負けるのなんて見たくないんです!…私を!わたしをっ、絶望させないでくださいっ、」
ミコトさんの涙を見てから、手元にある小瓶を見つめる。そっと、小瓶を近づけて匂いを確認した。ほのかに甘い香りがする。そして、液体は無色透明だ。
「名前さん、貸してください」
『え?』
私が手に持っていた小瓶を、奪い取るように手にした六郎くんは、そのまま小瓶に指を突っ込み、あろうことかペロッと舐めた。
『ちょっ!六郎くん!何してるの!!』
「何してんの、久部くん、」
『やだ!吐いて!吐いて!六郎くんっ、』
小瓶の中に付着していたであろう毒物を、何のためらいもなく舐めた六郎くんに、その場にいた全員が驚く。六郎くんにすぐ吐くよう促すと、ペッと吐き出してから、甘い、とポツリと言った。
「嘔吐と運動失調、意識レベル低下…これ、前に東海林さんが言ってたエチレングリコールなんじゃ?!」
『中堂さん、そうなんですか?』
「中堂さん、答えてください!…中堂さん!!」
それでも、中堂さんは何も返事をしようとしない。宍戸が苦しそうにもがいているのを見て、もうこれ以上は待てない。そう思ったのはミコトさんも同じだったようで、六郎くんに救急車を呼ぶよう伝える。
『…中堂さんが、人殺しになるところなんて、見たくない。もっと、教えて欲しいこと、いっぱいあるんです、!』
涙が出ないように、唇を噛み締めて伝える。六郎くんがスマホを操作し、救急車を呼ぼうとしたら、中堂さんが小さく息を吐いて、ポケットから出したものをミコトさんに手渡す。
『…ホメピゾール、』
「これを打って代謝を阻害すれば、毒にはならない!」
「解毒剤です!宍戸さん、宍戸さん!他に高瀬の殺しを証明する証拠は無いんですか?!」
六郎くんが問いただしても、宍戸は、薄れる意識の中、ないよ。とはっきり言う。ミコトさんが宍戸の腕に注射針を当てた。中堂さんは、硫酸まみれになってしまったボールが入っているペットボトルを大事そうに持って、ただひたすら見つめていた。
← → >> list <<