10:ツンデレ鬼のお正月:一



 昨夜にはお節料理を完成させようと思っていた千鶴ではあったが、予想外の出来事に手を付ける事ができなかった。


 風間がよく眠っているうちにお節料理を作り上げようと考えた千鶴の忙しい朝が始まった。


 豪華なものは作れはしないが、一品ずつを丁寧に拵(こしら)えていく。そして、父親が生きていた頃から、正月には必ず使用していた小さいが品のある三段重に今年一年の願いと共に完成したそれらを込め入れた。


 雑煮は江戸風で、鰹の出汁の澄まし汁に餅と鶏肉を入れた物。そして勿論、昨夜、風間節を覚えていた千鶴は、酒の入った銚子五本を熱い湯の中へ沈めた。


「さてと、全部用意もできた事だし。そろそろ風間さんを起こしに行こうかな」


 千鶴が勝手場に立ち始めてからかなりの時が経つが、風間が起きてくる気配が一向にない。勝手場に添え付けてある小窓から空を見上げると、太陽は既に南の空高くに昇っていた。


「風間さん、そろそろ起きて下さい」


 千鶴が襖を開けると、風間は最後に布団を掛けたままの姿勢で眠り続けていた。


 蝦夷までの道中、風間がぐっすりと眠っているところを千鶴は見た事がない。それ程、周りを警戒していたのだろうが、今はそれを全て解きほぐしているようだ。そのように眠っている風間をすぐに起こすのが忍び難かった千鶴は、暫くの間、目の前の寝顔に吸い込まれるように見つめていた。


 千鶴の部屋はこの家の中でも一番日当たりが良く、太陽が空高く昇っていても日が差し込んでいて明るい。その光が風間の顔を未だに照らし続けていた。


 肌理の細かい肌、少し吊り上り気味の目尻、そして形よく引き締まった唇が千鶴の目を奪い、気付かないうちに千鶴の両手は風間の頬にそっと添えられていた。


「綺麗……」


 吐息と共に呟きが漏れてしまう。それ程に美しい顔を見つめ続けていたいと思った瞬間、


「きゃあぁっ!」


 千鶴の腕がいきなり引きずり込まれるような感触を覚え、気付けば風間の胸の中にすっぽりと納まってしまっていた。


「風間さん、起きたんですか?」
「んん……」


 千鶴が頭上にある風間の顔に視線を向けたが、瞼は上げられてはいない。まだ眠っていると確信をした千鶴が再び声を掛けた。


「風間さん……」
「んん……」


 風間が寝ぼけ声を出した瞬間、千鶴の身体がぐらりと傾いた。


「えっ……?」


 畳の上に響く重い音と同時に天井が視界に飛び込む。そこでようやく畳の上に倒れたのだと納得をした。胸の上には風間の顔が埋まっている。それに少しだけの動揺を起こした千鶴は慌てて起き上がろうとしたが、眠っている男の身体とはこんなにも重いものなのだろうか、押し上げようとしてもびくとも動かない。


 何度か風間の身体を退かせようと試みたのだが、それが無理だと納得をした千鶴は胸の上で顔を埋めている風間の頭を見つめながら溜め息を吐いた。


 昨日までは風間に抱かれていた千鶴であり、この状況は初めて。まるで壊れ物を触るかのように、風間の髪の毛に触れた。


 さらさらと音を立てながら黄金の髪の毛が揺れる。それの柔らかい感触を楽しんでいる両手が今度は頭全体を包み込むようにして絡み始めた。


「まあ、いいか……」


 このような状況も悪くはないと千鶴は微笑んだが、それは一瞬にして崩れ去った。


「ちょ、ちょっと、風間さん……何してるんですか?」


 いきなり共衿が肌蹴始め、その中に風間の顔が深く埋まっていく。そして衿下の内側に隠れていた千鶴の両足の間を割るようにして、風間の片足が挟み込まれていった。


 身の危険を感じた千鶴が足掻いて逃げようとすると、その動きが圧し掛かっている風間の全身と両腕によって抑えられる。そして、胸の上部にねっとりとした熱いものが触れた瞬間、


「ひゃああっ!」


 と、千鶴の口元からは情けない叫び声が放たれた。


「素っ頓狂な鳴き声を放つでない。萎える……」
「な、萎えるって……ちょっと、風間さん止めて下さい」
「ん……今少し抱かせろ」


 風間の両手の動きが激しくなる。正月早々からこのような淫らな経験をするとは思ってもみなかった千鶴は、ありったけの大声を放った。


「もおおぉっ! 風間さん、いい加減にして下さい!」


 千鶴の部屋の中で賑やかな音が鳴り響く。それの音に連動してか、勝手場の竈の上の鍋の中の銚子五本も激しく舞い踊った。


「煩い、昨夜の続きをさせろ」
「さ、昨夜の続きって……一体、誰と間違っているんですか!?」


 千鶴の部屋の中で軽いが鋭い音が一発鳴り響いた。そして、その音が鳴ると同時に、鍋の中で激しく舞い踊っていた銚子五本も濃厚な酒の香りを飛ばしながら、見事、真っ二つに割れていた――。




 目の前に並べ立てられたお節料理を、乱れた髪の毛に片頬にはほんのりと赤みを見せる風間が睨み付けていた。


 ようやく風間からの束縛から解かれて勝手場へ逃げ込んだ千鶴は、鍋の湯の中に酒が全て流れてしまったのを見つけ、慌てて浸け直す。その間、少し心の中に苛立ちを生じながら時折その姿に視線を向けていた。


 先程の風間の寝ぼけ方を見ると、かなり寝起きが悪い男のようだ。しかし千鶴が苛立ちを感じたのはそこではなかった。寝ぼけていた風間の口からあの言葉が飛び出た事にそれを感じていたのだった。


 昨夜の続きをさせろ――


 昨夜風間に許したのは、数度にわたる口付けだけだ。胸に口付けをしたり身体中を弄られたような記憶は一切ない。


 何でこんなに苛々するんだろう――


 千鶴は自分の中の不安定な気持ちに問い掛けるが、なかなかその答えが見つからなくて、しまいには情けない溜め息を吐いていた。どれ程の間ぼんやりとしていたのか、背後から千鶴の名を呼ぶ風間の声が聞こえた。


「おい千鶴、聞いているのか?」
「へっ……?」


 千鶴が背後を振り向くと、一向に機嫌の直っていない風間の顔が視界に映り込む。


「あっ、風間さん。どうしたんですか?」


 いくら寝ぼけていたとはいえ、悪いのは風間だ。千鶴も同じく機嫌が悪いように見せかけながら返事をするが、風間が不機嫌なのはどうやらそれではないらしく、千鶴の傍にある竈の上の鍋を指差していた。


「鍋の中に浸かっている俺の酒が悲鳴を上げているぞ」
「えっ……? あっ、ああっ!」
「煩い。寝起きの頭に響く声を出すな」
「だって、だって……お酒が……熱っ!」


 一度目の酒を無駄にしてしまっていた後悔からか、慌てた千鶴は素手を鍋の中に突っ込んでしまい、火傷をしてしまう。それを見た風間が急いで勝手場に下りて来て千鶴の火傷した指を掴むと、冷水を溜めてある甕(かめ)の中に落とした。


「冷たい……」


 熱さを感じていた個所がいきなり冷やされて悴みが生じる。


「熱湯の中に素手を突っ込む奴がどこにいる?」


 風間は心配して言ってくれているのだろうが、先ほどから苛立ちのある千鶴は素直な言葉が吐けないでいた。


「ここにいるじゃないですか……」


 ぼそっと呟いた千鶴だが、どうやら風間には聞こえていないらしい。


「全く、世話の掛かる女だ」


 と言いながら、千鶴の手を掴んでいる自分のそれも甕の中の冷水の中に浸けたままであった。


 この男(ひと)の周りにはきっと、私のような女ではなくてもっと艶のある、そして大人の付き合いができるような女性がたくさんいたんだろうな――。


 千鶴はすぐ目の前にある風間の横顔を見つめながら、少しだけ眉尻を下げていた。 


 結局、鍋の中で悲鳴を上げていた酒は、銚子半分くらいまで蒸発するは、酒精まで抜けてしまって、


「不味い……これは酒ではない。浸け直せ」


 と、まだ機嫌の直らない風間節が茶の間中に轟いていた。


 三度目の酒の温め直しを終え、風間と千鶴は、お節料理にようやく箸を伸ばす事ができた。


「これは何だ?」
「何って、お節料理と雑煮ですけど、それが何か?」


 まだ苛立ちは残ってはいるが、空腹の方を優先させた千鶴がお節料理を小皿に取り分けて風間の前に置くと、風間はある一つの料理を指差した。


 よく見てみると、それは田作り(ごまめ)であった。一度箸を伸ばしてそれを突いた風間が顔を顰める。箸触りがあまり良くないと感じたのであろうか。次にはもう箸を箸置きの場所に置いてしまっていた。


「風間さん、田作りを知らないんですか?」
「知らん。このような物は俺の里にはない。それにこの雑煮は何でできているのだ?」


 風間のその言葉で、地方によって雑煮やお節料理の中身が異なる事に気付いた千鶴。しかしここは江戸。


 郷に入れば郷に従えという言葉もある。


「風間さんが知らないって事は、この田作りは恐らく江戸風の料理なんでしょうね。田作りはカタクチイワシを乾煎りして冷ましてから、甘い調味料でからめた物なんです。そして雑煮ですけど、この江戸では鰹から出汁を取った澄まし汁なんですよ。色付けに三つ葉を添えてあります。澄まし汁を知らないって事は、風間さんの所は味噌仕立ての雑煮なんですか?」


 京で正月を迎えた時、雑煮の出汁は確か白味噌仕立てであった。だから風間の正月にはそれが出ると千鶴は考えた。しかし、風間の口から出た言葉は――


「風間家の雑煮は海老が入っているからな」
「海老……何て贅沢な……」
「それが普通であろう?」
「ふ、普通じゃありませんよ。どれだけ贅沢な暮らしをしているんですか」


 昨夜は風呂が檜で作られているやら、今日は雑煮に海老が入っているなどの自慢話を聞いていた千鶴は、風間の私生活がどのようなものなのか、全く想像できないでいる。


 見た目は良い男であるし、金もある。口と性格の悪さを少し我慢すればいいかと思う女は数多いるだろうな――そう考えた千鶴の中に、再び苛立ちが起こり始めた。


 その理由が分からない千鶴が頬を膨らませながらお節料理を口の中にせっせと運んで行くが、その間ずっと風間が田作りの方を凝視しているのが気になり始めた。


「食べないんですか?」
「ベトベトしていて気持ちが悪い」
「見た目はそう思うかもしれませんけど、これ、甘くて美味しいし、お酒のお摘みにもなるんですよ」


 それでも風間は箸を持とうとしない。そこで、千鶴は自分の箸で田作りの小さな一つを掴むと、風間の口元へと誘った。


「何をするつもりだ?」
「お箸で掴んだ時の感触が嫌なんでしょう? だから食べさせてあげます」
「ふん、別に食べさせてくれと頼んではいないが、お前がそこまでして俺にこれを食べさせたいのであれば仕方がない、食ってやるとするか」


 風間がゆっくりと形の整った唇を開くと、そこに田作りの小さな一つを掴んでいる千鶴の箸が入る。


「どうですか?」
「甘すぎる……」


 どうやらこの田作り。甘すぎて風間の口には合わなかったらしい。もういらないと言って、田作りの乗った小皿は千鶴の目の前に置かれた。


「この甘さが美味なのに……」


 千鶴が田作りを見つめながら呟くと、いつの間にか背後に移動していた風間が両腕を絡めてきた。


「か、風間さん!」
「先程、田作りを食わせてもらった礼をせねばな」
「べ、別にいりませんよ」
「いいから、素直に受け取れ」


 風間の唇が千鶴のそれに触れる。今まで酒を呑んでいた風間の口内からは、酒精の濃い匂いが流れ込んできた。


 ただその匂いを感じただけで眩暈を起こしそうになる。



 風間から受ける深い口付けの中、先程まで千鶴の中にあった苛立ちは、いつの間にか消え去っていた――。


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