9:ツンデレ鬼の大晦日の夜と年明け



 ふらつく足を踏ん張らせながらようやく自室に戻った千鶴は、濡れた着物を脱いで身体を拭き、もう一枚の予備の寝間着を身に纏った後、茶の間へ行くのも億劫になるほどに疲れ切ってしまっていたようだ。そのまま布団の上へと倒れ込むと意識を落とした。


 本当は眠りたくはないのだ。眠ってしまうと、苦しい夢を見てしまうから――。


 ああ、また――


 千鶴は毎夜苦しめられる悲しい夢の世界の中に沈み込んでいた。


 新選組の仲間が出てくる夢――それは千鶴が置き去りにされてしまうものだった。


 浅葱色の羽織が千鶴の目の前で舞い踊る。それに袖を通した仲間たちが千鶴に手を差し伸べてくるのだ。


『千鶴、何してんだ? 早く来ねえと置いてくぞ!』


 いつも決まって、土方が千鶴に誘いの言葉を掛けてくれる。いつも眉間に皺を寄せて難しい顔をしていた鬼副長が、優しい眼差しでこちらを向いて、見つめて――


『土方さん、待って下さい。今行きますから……』


 千鶴が土方の伸ばされた手に縋りつこうと自分の方からも手を伸ばして声を掛ける。しかし、それがなかなか届かないのだ。


『千鶴ちゃん、早く来ないと本当に置いて行くよ』
『沖田さん、待って! そんな意地悪言わないで!』


 千鶴が沖田の手も掴もうと反対の手を伸ばす。しかし、笑っている沖田の手との距離が少しずつ広がっているように感じた。


『千鶴、俺たちはずっとここにいる。だから、ゆっくり後ろをついて来い』


 斎藤はそう言ってくれるが、これで追いついた試しが一度もないのだ。だから、千鶴がありったけの大きな声で皆に呼びかける。


『待って、お願い……私を置いて行かないで! もうすぐ、もうすぐ追いつくから。手が届きそうなの! だから待ってよぉっ!』


 千鶴の必死な訴えも叶わず、目の前の仲間たちの姿に靄がかかり始める。ようやく手が届きそうだと思った瞬間、目の前の靄が花弁のような細かさになって弾けた。


『お願い……置いて行かないで……待って、待ってえええぇぇ』


 最後の力を振り絞って叫ぶ千鶴。その周りには花弁のようになってしまった靄が舞い散り続けた――。






「……千鶴……千鶴……」


 名前を呼ばれて目を開く。すると、千鶴の視界に暗闇と黒い影が飛び込んできた。その暗闇に目が慣れてくると、黒い影が風間だとようやく理解できた。


「あ……風間さん……」
「なかなか客間に来ないと思えば、寝ておったが」
「ああ、私。いつの間にか寝ていたんですね……」


 千鶴が上体を起こして両目を擦ると、手には濡れた感触があった。


 ああ、泣いていたのか――と、今度は袖で顔中を拭い続けた。


「魘(うな)されていたな。怖い夢でも見たのか?」


 千鶴の仕草を見つめながら、風間は静かな声で問い掛けてきた。


「いいえ、よく分かりません。はっきりと覚えていなくて……」


 何故、素直に新選組の仲間の夢を見たと言えないのだろうと、千鶴は思った後、新選組の夢を見たなどと言ったら、風間はきっと馬鹿にして笑うだろうという答えに辿り着いた。しかし、千鶴の夢の内容は譫言(うわごと)として外に漏れ出ていたらしく、風間はそれを全て聞いてしまっていたようだ。


「置いて行くなとか、待てとか言っていたが……それに土方と沖田の名前も出ていたな。新選組の夢でも見たのか?」


 と問い掛けてくる。そんな事を外に吐き出していたのかと、千鶴は小さな溜め息を吐いた。


 思い出すだけでも辛い。すると、千鶴の両目から大粒の涙が勢いよく零れ落ち始めた。その涙で返事をもらったかのように頷く風間は、


「図星か。諦めの悪いお前と奴らには呆れ返るな」


 言うが早いか、風間は千鶴を自分の胸の中に包み込んでいた。その中で嗚咽を洩らしながら泣き続ける千鶴。そんな千鶴を風間は黙ったまま強く抱き締め続けてくれていた。


 ようやく気持ちが落ち着いた千鶴に、風間が言葉を掛ける。


「毎夜、先ほど魘されていたような夢を見るのか?」


 風間の落ち着いた声音が千鶴の頭上に降り掛かる。顔を埋めている風間の胸の中の千鶴は素直に小さく頷いた。そして、毎夜見る夢の内容が自然と口元から漏れ始めていた。


 話を最後まで黙って聞いてくれていた風間が、胸の中で話し終えた千鶴を更に強く抱き締めた。


「お前は馬鹿な女だ。奴らを夢の中まで引き止めようとしてどうするのだ? この世にあらざるべき者を留めようとしているお前のその夢は残酷そのものだ。やつらは新選組という枷の中から自由になったのだ。お前に奴らの自由を束縛する権利はない」


 夢というものは自分が願っている気持ちなどを表す。それを聞いた千鶴は、風間の言っている事は尤もだと理解できた。しかし、千鶴の中には彼らの事を忘れたくはないという気持ちが強かったのだ。


 荒波の中で揉まれ続けながらも、自分たちの意思を貫き通した彼らの生き様を――


「私は彼らの事を最もよく知る者として、これからも彼らとの記憶を抱いていきます。忘れる訳にはいかないんです。私にとって彼らは大切な仲間であるのですから」
「記憶に縋って生きるか? 愚かな女だ」
「愚かでもいい、諦めが悪くても構わないんです。それが今、生きている私にとっての誇りでもあるんです」


 最後の言葉を言い終わった瞬間、千鶴を抱き続けている風間が腕の力を弛めた。


「では、お前は過去の記憶にずっと囚われ続けて生きると言うのか?」
「えっ……?」
「前を向いて生きていこうとしないお前はただの生きた屍だ。そのようなお前に俺の妻は務まらん」
「ど、どういう意味ですか?」


 風間が自分の胸中から千鶴の身体を引き離す。そして一言、


「お前には失望した」


 と言い放った。その言葉に対し、千鶴の中に怒りが沸々と沸き起こる。


「亡くなった方や生存不明の方との思い出を全て捨ててまで生きろと風間さんは言うんですか?」


 風呂から上がるまでの穏やかな表情から一変。風間は無の表情を浮かばせながら怒りに震える千鶴を見つめていた。それを見た千鶴は、自分が情けなくなりそうになった。


 無の表情の中に憐みのような色が見え隠れしていたからだ。


「あの時は大変な時代でしたけど、私は新選組の皆さんと共に過ごせた事をとても幸せに思っています。その小さくて儚い思い出を残す事も許されないんですか?」


 千鶴は自分の中にある思いの丈を風間に打(ぶ)ちまけるが、風間の態度は変わらなかった。


「俺が求める頭領の妻たる者は、いかなる時も胸を張って前を向き、仲間の事を一番に思う心を持つ事を条件としている。しかし、今のお前にはそれが一つもない。……俺の目は確かだと思ったのだ。俺がお前の育ての父親である網道を制裁した時、お前は悲しみに暮れながらも前を向いて進もうとしていた。網道の時をそれができて、新選組の奴らの時にはそれが何故にできない?」
「あっ……」
「それ程までにあいつらの事を思っていたのならば、それはそれで俺は良いと思う。しかし、過去のほんの小さな幸せの時期だけに目を向け、前に進めもせず、亡霊のように過去の一部の中で彷徨っている女を俺の妻にしたとしても務まらん」


 頭領の妻という立場は忙しい。だからこそ過去は過去だと納得をして、今、目の前にある事、その先の事を考えられる女ではいけないと風間は千鶴に伝えてきた。


「新選組の中で死んだ者、行方が定まらぬ者もいるが、今のその者たちがお前に一体何をしてくれると言うのだ? それにあいつらは既にお前を自由にしてくれている。与えられたそれを受け入れずに過去に身を置いているのはお前の勝手だろうが、あいつらにとっては迷惑なはずだ」
「それは……」


 これまで見てきた夢は、千鶴の願い。新選組の仲間の中に入りたくて手を伸ばしていた。


「お前はこの世から自分を消したいのか? それとも生きて新選組を自由にさせてやりたいのか、どちらだ?」


 ああ、私は新選組の仲間のように命を消し去りたいのだろうか? しかし今、千鶴の目の前の風間の緋色の瞳がそれを許さないかのように鋭く光らせて引き止めてくる。


 私は欲張りだと千鶴は思った。


 新選組の仲間を大事に思うと同時に、この目の前の風間からも目が離せなくなっているのだから。


「私は……」


 千鶴は風間の瞳から視線を逸らして畳の上を見下ろした。


「彼らを忘れる事はできません。でも、あなたを失う事も怖いのです」


 その言葉に風間の無の表情が少しだけ穏やかさを見せ始める。


「我が妻は何と欲張りな女よ……」
「欲張りでいいんです。そうでないとあなたの妻などはやっていられません。私は新選組の皆の思い出を心の隅に静かに残したまま……」


 その先を言おうとした途端、千鶴は風間に再び抱かれていた。


「俺も自分で気が付いたのだが、かなり欲深い男のようだ。お前の中にある新選組の記憶を全て消し去り、俺の記憶で埋め尽くしたいと思っているのだからな」
「じゃあ、お相子ですね」


 千鶴が涙で濡れた瞳に明るさを見せながら言うと、一瞬目を細めた風間がいきなり不機嫌になった。


「相子ではない。俺の方がまだましだ」
「そんな事はありません。風間さんだって今、俺は欲深いって言ったじゃありませんか」
「ふん、それはお前だけに対してだ。新選組の仲間などどれだけの数がいると思っているのだ」
「そ、それは……大切な仲間でしたもの!」


 また口論が始まるのだろうかと思ったが、風間は言い返しても来ずに障子戸の方に視線を向けている。


「風間さん……?」


 千鶴が呼び掛けると、風間が低い声音で呟いた。


「夜が明けるな。年始は気持ち良く迎えたいものだ」


 障子戸に向けていた視線を千鶴に向ける。自然と二人の顔の距離が縮まった。


 軽い口付けが始まる。それがもう何回目だと数える事ができないくらいに何度も唇が啄(ついば)み合う。


「新選組と共に歩んだ儚い思い出の道は、これから俺と共に歩む濃厚な日々の暮らしによって、やがては穏やかなものとなる。だから、これからは顔を上げ、胸を張り、そして俺だけを見て前進し続けろ」


 風間の強引な言葉に千鶴が溜め息を吐く。


「もう、風間さんは本当に自分勝手ですね。私の夢にまで文句を言って、そして強制までして……」
「我が妻になる女の夢の中に俺以外の男が入ってもらっては困る。お前は俺の夢だけを見ていればいい」


 紡ぎ続けられる風間の勝手な言い分に千鶴の頬を濡らしていた涙は乾き、次には笑いが起こる。


 本当に傲慢で勝手な男(ひと)だ。でも私はこの男(ひと)のそれが嫌だと思わないなんて――


 千鶴が声を立てて笑っているのを見ていた風間が首を傾げる。


「何が可笑しい?」
「いいえ、何でもありません。あっ、空が白み始めたみたいです。初日の出がみられそうですね」


 風間と千鶴が同時に障子戸の方に視線を向けると、普段は白さを見せる障子紙が薄橙色に染め始めていた。千鶴を抱き上げた風間が障子戸を少しだけ開けると、遠くの山の頂から眩しい日の光が神々しく光り輝いていた。


「新年、新しい年だな……」
「色々と忙しい年になりそうです」
「何故だ?」
「だって、風間さんがいるから……」
「俺がいると何故に忙しくなる?」
「振り回されそうだからです」
「ふん! 振り回すのではない。可愛がってやるのだ」


 全く可愛げがないと風間が文句を放つ。そんな風間の胸の中で千鶴は微笑んだ。


 風間に振り回されて忙しい方がいいのかもしれない。そうしたらきっと風間の言う通り、過去の記憶が穏やかなものに変化していくかもしれないからだ。


 今年はどんな年になるのだろう?


 千鶴が頭上にある風間の顔を見つめる。


 分かっているのは、先ほどの会話の通り、風間が必ず千鶴の隣にいるという事。そして、千鶴もまた風間の傍を離れないだろうという事だ。


 風間には遮られてしまったが、千鶴の心の中ではいずれ西の里に行く事になると確信をしている。ただ、今はまだ行く決心が鈍っている。


 新選組への思いが強いからではない。いや、それもあるのだが、千鶴には大切な患者がいるのだ。彼らは千鶴の事を信頼してくれている。すぐにここを発つと、彼らを裏切ってしまうようで、後できっと自分自身を責めてしまうだろう。


 自分勝手な考えを聞いたら、風間はどうするのだろう? 一人で西の里に戻ってしまうのだろうか? これについてはよくよく相談をしなければならないと千鶴は考えた。しかし、風間がまだここにいる限りは、何事もなく仲良くやっていきたい。千鶴はその願いを初日の出に託した。  


「どのような願掛けをしたのだ?」
「内緒です。言える訳がないでしょう。これは心の中で願うものです」
「ふん、お前の事だ。ろくでもない事だろうな」
「あら、よくお分かりで……」
「お前の考えている事は分かりやすい。恐らく、俺に関しての事だ。例えば……」
「もう、私の心の中を覗かないで下さい! 恥ずかしいじゃないですか」
「別に恥ずかしがる事でもなかろう? 我が妻の事は何でも知っておかねばならんからな」
「知らなくていい事もあるんですから!」


 新年早々から二人の口は絶好調な動きを見せる。


 新年に怒られると、その歳は怒られ通しの一年になると言われている――という事は、新年からこのような調子の二人は、毎日がツンデレやり取りの一年になるのだろうか?


 一抹の不安が千鶴の脳裏に吹き込んでくる。それを裏付けるかのように、少し開けている障子戸の隙間から強い寒風が流れ込んできた。


 風間と仲良く――その願いは果たして叶えられるのだろうか? 


「まあ、仲良くっていっても色々あるだろうし……」


 千鶴がぼそぼそと呟いていると、いきなり頭上に重みが掛かってきた。


「風間さん……あれ、寝ちゃってる」


 千鶴の後頭部に頬を乗せて居眠りを始めた風間に、千鶴は穏やかな笑みを浮かべた。


「やっていけるよね、きっと……」


 風間が風邪を引かないようにと障子戸を静かに閉めた千鶴は、抱き締められている腕から逃れるように離れる。そして、眠り続ける風間の肩に布団をそっと被せた。


「さてと、お節の用意でもしようかな。今日の風間さんには銚子五本はつけてあげなくちゃ!」



 千鶴が勝手場へと急ぐ。その間にまだ弱々しい輝きを放っていた日の光は、冷たい空気を吸い上げながら空いっぱいに全体の姿を現す。そして、眠る風間の顔に温かい色の光を照らし始めていた――。


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