東海道-草津宿→大津宿→逢坂峠
翌朝、風間と千鶴は草津宿を出立し、大津宿へと向かって歩いて行った。
千鶴の口の中の火傷はかなり重傷であったようで、出立する日の朝になってもその症状が少しだけ残っていた。
「いつもなら数刻くらいで完治するのに……」
「あのように熱い茶を一気飲みするからだ。あれでは治癒力の早い鬼でも完治するのに時間は掛かる」
「千景さんがあんな事をしなければ、こんな事にならなかったんですよ」
「ふん、あれしきの事で狼狽えるお前が悪い」
「わざわざ人がたくさんいる場所であのような事をしなくても……」
昨日の姥が餅屋での一件を思い出した千鶴が、恥ずかしいと呟きながら顔を真っ赤にさせている。それを見た風間の口端の片方がゆっくりと吊り上った。
「では、人が多くいない場所でならいいのだな?」
千鶴がぽかんと口を開けて歩みを止める。
「では、人の往来の少ない場所に行くとするか」
風間のその言葉に千鶴が叫んだ。
「い、行かなくていいですっ!」
前を歩く風間のからかいの言葉を聞きながらも、本当にそうされてしまったらどうしようと千鶴が項垂れて歩いていると、ふと清らかなせせらぎの音が耳に入り込んできた。同時にその音に聞いた風間も歩みを止める。
「野路の玉川か……」
この【野路】は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿場として栄えた所である。十禅寺川の伏流水が清らかな和泉となって湧き出ているその場所に二人が佇む。秋にはその辺り一面に咲き匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人の暫しの憩いの場となっていたが、宿場から離れてしまった今は旅人も殆ど立ち寄る事がないようで、少し寂れた雰囲気を醸し出していた。
「さっき、人が多くなければいいって言ってましたよね?」
千鶴が風間の方に顔を向けると、風間もこちらに顔を向けていて意味ありげな笑みを浮かべている。
「ほう……覚えておったか」
「今さっき聞いたばかりですもん。ちゃんと覚えていますよ」
春の風が千鶴の頬を撫でるように吹いている中で佇んでいると、先ほどの風間のからかいの言葉などどうでもよくなってしまう。
「秋の季節に一度、ここへ来てみたいです。きっと美しいのでしょうね」
「覚えていれば、いつか連れて行ってやろう」
秋の景色を思い起こさせながら遠くを見つめる千鶴の姿に見入ってしまう風間は、箱根の時と同じく、ここに連れて来るという約束をしてしまう。
千鶴の心中を己の事しか考えられないようにしたい――
周りの紅葉する木々と共に可憐な花を咲かせる萩の情景を脳裏に浮かべながら目を閉じる。まだ冷たさを残してはいるが確実に春を呼び起こしている柔らかい風が千鶴の頬を次には擽るようにして通り過ぎながら漆黒の髪を靡かせたその時、柔らかい何かが唇に触れた。
千鶴がゆっくりと目を開いてみると、すぐ目の前に風間の顔が映し出された。その瞬間、千鶴は唇を重ねてきている風間しか目に入らなくなっていた。
このまま、もう少しだけ――
千鶴の心の中に気付いてくれたのだろうか。人気のない静かなせせらぎの中、二人の唇が深く重なり合っていた――。
千鶴は瀬田川を渡る前に風間に【たにし飴】という飴を買ってもらった。ニッキの飴で形が琵琶湖のたにしの形をしている事からこの名前が付いたそうだ。ここ、瀬田川名物でかなり有名らしい。その飴を風間の口の中にも放り込み、二人はそれを口の中でコロコロと転がしながら瀬田の唐橋を渡る。
琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、東から京へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしかない。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京防衛上の重要地であったことから、古来より、
唐橋を制する者は天下を制す
と言われていた。
この橋には【俵藤太(藤原秀郷)百足退治伝説】があると風間が橋の上を歩きながら教えてくれる。
秀郷が唐橋を渡ろうとすると大蛇が寝ていた。恐れる事無く平然と跨ぐと、大蛇に化けていた龍神は、その勇気に感心し三上山に住む大百足の退治を頼む。見事、秀郷は百足を倒して龍宮に招かれたという伝説なのだそうだ。
「大蛇を恐れずに跨ぐなんて、何て勇ましい方なんでしょう! ところで、三上山ってどこにあるんですか?」
たにし飴をカリッと鳴らしながら噛み砕いていた風間は、このような類いの話しは嫌いなようである。
「お前に言い伝えを話せばいつもこうだからな。三上山は草津宿辺りにある山だ」
「何で草津宿でその山での伝説を教えてくれなかったんですか?」
風間はチラリと千鶴を見ると、すぐに視線を前に戻した。
「言い伝えを話せば、お前の意識がその辺りの時代に飛んで行くからな」
先程の野路でもそうであったろう――その一言で千鶴の意識が隣の男に傾いていく。
「その時代に思いを馳せたっていいじゃありませんか」
しかし、風間はそれを良しとは考えていないようであり、
「現実も夢も俺の事だけを考えておればいい」
などと言い始める。
「本当に自分勝手なんだから……」
そう愚痴りながらも目の前の男に注がれる千鶴の目は穏やかな輝きを灯し、それに応える風間も表情に柔らかい動きを目の前の女に魅せ付けた。
大津宿には膳所(ぜぜ)城がある。この城は徳川家康の命により藤堂高虎が縄張りした城である。瀬田のから橋と琵琶湖の押さえとして作られた幕府直轄の城であったそうだ。琵琶湖の中に石垣が築き上げられており、本丸、二の丸を配し、本丸には四層四階の天守が建てられている。
二人は壮大な天守閣を眺めながら大津宿の中心部へと入り、逢坂の関所越えを始めようとする前に、【阪本屋】という膳所藩のお抱え御用料亭の老舗であった店に入って行った。
この大津宿の名物はこの店で売っている琵琶湖の鮒寿司である。
鮒寿司は保存食であり、飯で長い間漬け込んだ魚の漬物である。鮒の周りを包んでいるどろどろとした飯の方を捨てて鮒の方を食べるのだが――
「これは……」
鮒寿司を目の前に出された瞬間、千鶴は咄嗟に両手で鼻を塞いでいた。そのような千鶴の目の前では、風間がそれを黙々と食べている。
「ち、千景さん……それ、お好きなんですか?」
口を開いただけでも強い匂いと酸味が流れ込んでくるような気がした千鶴が、今度は鼻と口両方を両手で塞いで風間に問いかけると、
「これは酒の摘みにも合うからな。俺は嫌いではない。それに、これは不知火も好きだな」
と答えてくる。それを聞いた千鶴は、自分がその鮒寿司が苦手だと感じた理由を知った。
ああ、そうか――
私はお酒が好きじゃないから――
千鶴が何を考えているのかが分かった風間がボソッと呟く。
「酒好きの中にもこれを苦手とする者はたんとおるのにな……」
大津宿を出ると逢坂の上り坂へと入って行く。その途中に【蝉丸神社】があった。蝉丸は琵琶の名手で音曲諸芸道の神である事からここに願いにくる者はそのような芸道に関連するものが多いと言う。
「お前には何か自慢のできる芸事はないのか?」
長い石の階段を上って神社の中に入った風間が千鶴に問いかけると、一度は首を捻りかけた千鶴だったが、すぐに開き直ったような言葉を返してきた。
「この私を見てあると思います?」
風間が丹念に千鶴の全身を見つめる事暫し――。
「……ないな」
と言って、深い頷きを起こした。
「分かり切った事を聞いてこないで下さい!」
自分には特技はないが別にそれでも構わないと言いながらも、何故か本堂に手を合わせる千鶴であり、それを見ながら無駄な事を――と溜め息混じりに呟く風間であった――。
蝉丸神社の前からは下り坂となっていた。二人は軽快な歩みでその坂を下って行く。その途中で逢坂の峠の茶屋【かねよ】があり、それを目にした瞬間、千鶴は先を歩く風間の腰紐を引っ張った。
「何をする……?」
風間が鋭い視線を放ちながら背後を振り向くと、まるで子犬のような無邪気な笑顔を浮かばせている千鶴がその茶屋の方に人差し指を差していた。
「私、さっきの鮒寿司が食べられなくって……」
「ほう、食べられなくてどうした?」
風間が茶屋に興味がないとでも言うような返事をすると、千鶴の笑顔が一気に悲しげなものに変わった。
「だ、だから……私、お腹が空いていて……」
「ほう、腹が減っているのか?」
「え、ええ……鰻は食べられるので……」
何故に素直に鰻が食べたいと言わないのか――
風間は遠回しな言葉を紡ぐ千鶴をからかい続けていると、最後には涙声になって、
「う、鰻が食べたいんですぅ!」
と、千鶴はようやく素直な言葉を吐きだして、その茶屋に入る事ができた。
その茶屋の座敷からは、美しい庭園が目に留まる。
「よく手入れがされていて、美しい庭だな」
と風間が庭園の美しさを褒める中、
「この鰻、ふわふわで美味しいっ!」
と、庭園には目もくれずに、ご飯粒を口元にたくさんつけながらうな重を頬張る千鶴であった――。
難所だと言われている逢坂峠ではあったが、今まで様々な難所を歩いてきた二人にとってこの峠は難所ではなく、楽に超える事ができたのであった。
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