東海道-大津宿→三条大橋(京)【東海道:完結】



 この逢坂追分は京の都の玄関口として、東海道をゆく多くの旅人で賑わった所である。この付近には、清らかな水が勢いよくあふれ出す井戸があり、その様から【走井(はしりい)】と呼ばれ、旅人の喉を潤していた。江戸時代に入ると、茶店が建ち並び、名物【走り井餅】が旅人に人気になった。喉の渇きを癒しながらこの餅を食べるのが通である。


 この【走り井餅】である走り井の名水と近江の米でつきあげた餅は、旅人の空腹を補うとともに重要な活力源となり、走り井の水を用いたお茶で咽の乾きを潤し、旅の疲れを癒した。この走り井餅の独特の形は、水量豊富な水の流れ、ほとばしる水滴を表したものであるそうだ。


 千鶴がその餅を一口食べる――
 それを風間が見守っている――


 この状態にも慣れた千鶴が微笑んだ。


「美味しいですよ!」
「そうか……」


 見つめ合う二人の間には和やかな空気が包み込んでいた。


 二人が歩き進めて程なくすると、山科の追分に辿り着いた。


 みぎ八京みち、ひだりハふしみみち


 暫くの間その追分の石を見つめる風間と千鶴だったが、その後の風間の足は左に進もうとしていた。京に行くのが本当に嫌らしい。しかし、千姫に会いに行くのは江戸を発つ前に約束をした事だ。


「千景さん……どちらへ行かれるんでしょう?」


 千鶴の問い掛けに風間の歩みが止まって、大きな溜め息の音が響いた。


「……右に行けば良いのだろう?」
「鬼は約束は守るんですよね?」


 千鶴が確認の問い掛けをすると、風間の前身が京の方に向いた。


「ふんっ、当たり前だ」


 風間は再び溜め息を吐きながら渋々と右の京へ向かう街道に踵を返し、その姿を見る千鶴はクスクスと小さく可愛らしい笑い声を零している。それを見た風間が表情を険しくさせる。


「今笑ったようだが、何が可笑しい?」
「別に笑ってませんよ。」


 風間の顔が千鶴の顔に近付く。
 暫くの間、二人は睨み合いを続けていた――。




「笑っておったのに、笑っておらんと戯言を申すな」


 先ほどの睨み合いは風間の勝ちであったようだ。


「いきなり酷いです……」


 睨み合いの間に風間に何かされたのだろう。風間の後ろを歩く千鶴の顔は熱でもあるのかと思うくらいに真っ赤に染まっていた。


 二人が更に歩いて行くと、髭茶屋の追分に出た。直進が東海道、左折が京街道である。そして日ノ岡峠の坂道を無言で歩く二人――


 長いようで短かった東海道の旅の終着はすぐ目の前である。


 右や左に折れ曲がる道を歩いていた時、風間と千鶴の視界には山の間に大きな広がりを見せた京の都が映し出された。


「もう少しですね……」


 鳥羽伏見の戦いの夜、再び風間と出会った千鶴は、このような山の頂から業火に包まれている京を見下ろしていた。その後から風間と共に東へと向かった。今も山の頂から京を見下ろしている。しかし、眼下の町には穏やかな時間が流れている。そしてこの後、千鶴は風間と共に更に西へ向かうのだ。


「直に三条大橋に着く。急ぐか……」


 風間の号令で、過去に思いを馳せていた千鶴が我に返って頷いた。


「はい、急ぎましょう」


 どちらが先に差し出した訳でもなく二人の手が自然と絡まり合い、眼下に広がる京の都に向かって歩いて行く。二人のその足取りは軽い弾みを見せていた。


 日ノ岡を下ると二人の左下に京の町並みが見えてきた。このまま道なりに左に曲がると三条大橋である。すぐ目の前に終着場所があるというのに、風間が再び立ち寄りをしようとしていて、


「南禅寺にでも寄るか……」


 などと言いだした為に、千鶴は咄嗟にそれに答えた。


「もうすぐ三条大橋なんでしょう? 急ぎましょうよ」


 千鶴が風間の袖を引っ張ると、目の前の風間がこちらを振り向くと、意味ありげな笑みを浮かべていた。その表情には覚えがある。


 そう――風間のその笑みには、千鶴が喜ぶような事がその場所にあるという事だ。


「そうか、急ぎたいのか……残念だ。その南禅寺の門前には多くの【湯豆腐屋】があり、そこで夕食でもと思っていたのだが……本当に残念だ」
「何故それを早く言ってくれないんですか! 千景さん、南禅寺に行きますよ!」


 千鶴のブッと膨れる顔に思わず苦い笑いが込み上げる風間は、南禅寺の方へ千鶴を誘っていった。


 夕暮れ時にはなっていたが、門前の湯豆腐を扱う店は賑やかさを放ち続けている。二人は軒を並べている湯豆腐の店の一軒に入って行った。


 湯豆腐には美味しい食べ方があるらしい。豆腐は沸騰させている熱い湯の中に入れたままだと固くなってしまい不味くなるそうだ。従って、豆腐を湯の中に入れる時には火を消し、余熱だけで温めて食べるのが良いらしい。


 ふんわりとした豆腐を口の中に入れると、それはその中で広がりを見せながら溶けていく感覚がして非常に美味しかった。


 ふはふはと息を吹きかけながら豆腐を口に運び続ける千鶴の前では、千鶴の食事風景を摘みにしながら酒をチビチビと飲んでいる風間がいた。


「そろそろ行くか……。南禅寺を拝んで今宵泊まる宿に行かねばならん」


 千鶴が湯豆腐を食べ終わるのを見届けた風間がその席から立ち上がる。


「はい……お千ちゃん達には明日会うんですか?」


 湯豆腐を一つも残さずに食べきった千鶴が問うと、


「ああ、今日はもう遅い。千姫の屋敷へは明日に訪ねる事としよう」


 二人は湯豆腐の店を出て、目の前の南禅寺へと向かった。


 南禅寺は亀山天皇により、当時の離宮を大明国師を迎え、禅林禅寺としたのが始まりであり、その後は南禅寺と改められた。禅宗唐様の大きな三門は有名である。


 千鶴はこの長い道中、色々あったが楽しく旅ができた事を感謝して、胸の前で両手を合わせた。


 やっと京に辿り着きました。
 後もう少しで西の千景さんの住む里に行きます。
 この後も無事に旅を続けられますように――


 胸の前で合わせていた両手が下りたのを確認した風間が言葉を掛けた。


「行くか……」
「はい、行きましょう……」


 風間と千鶴は寄り添うように肩を触れ合わせてその場から立ち去った。


 南禅寺を出た二人の前に、見慣れた背格好の男の影がこちらを向いて立っていた。


 誰――?


 千鶴がその影をジッと見つめていると、隣の風間がうんざりしたような声でその男に呼び掛けていた。


「不知火……何しに来たのだ?」


 風間のその言葉に千鶴は目を丸くさせた。


「えっ……不知火、さん……?」


 よくよく見てみると確かにそうだ。その影は確かに不知火であった。


 不知火が二カッと笑って二人に歩み寄って来る。


「ようようお二人さん、やっとここまで辿り着けたんだな。ご苦労なこった」


 不知火が言うには、千姫に風間と千鶴がそろそろここへ到着するだろうから迎えに行ってくれと頼まれたのだそうだ。


「あの姫さんは鬼使いが荒いんでなぁ……」


 千姫とは気が合わないと思っている風間が、不知火の溜め息交じりの言葉に珍しくうんうんと頷いており、不知火はそれが気に入らなかったようで、


「何頷いてんだよ、風間。てめえだって同じだぜ」


 と睨みつけると、風間は鼻を大きく鳴らして短い反論を起こした。


「不知火……俺とあの女と同等にするでない」
「何言ってんだよ。お前がいない間に、この俺があの天霧に何度呼ばれたか知ってんのか?」
「そのような事は知らん」


 二人の文句の言い合いを聞きながら千鶴はフッと思った。


 この二人って意外と仲が良いのでは――


 ようやく風間と不知火の言い合いが終わりを告げ、三人は白川橋を渡って料亭や宿の立ち並ぶ中を歩き、三条大橋の所まで歩いて行った。


 そして今、三人は三条大橋の上に立っている。その大きな木橋の下から水のせせらぎが聞こえていた。


「やっと着きましたね……」


 橋の柵に両手を添えながら深呼吸をする千鶴。その後ろでは二人の言い合また始まっていた。


「てめえはいつも俺らに何かさせて、楽してばっかだろうが!」
「馬鹿が……。鬼の頭領たる者、下を使わんで己が動いてどうするのだ? 下は上の者の為に働くのが筋であろう?」


 風間の傲慢な態度に、不知火が髪の毛を振り乱して怒りの形相を見せた。


「俺は、てめえに仕えてる気は更々ねえからな!」


 少しの間、二人に言いたい放題にさせていた千鶴はやっとの事で仲裁に入った。


「あの……言い合いの途中で申し訳ないんですけど、私はそろそろ休みたいです。何か疲れちゃいました」


 二人の喧嘩を止めるにはこの言葉が一番だろうと考えた千鶴だったが、それはあまり効果がなかったようである。


「見ろ……お前が俺に難癖などを付けておる間に我が妻が疲れ切ってしまったではないか」
「知らねえよ! なあにが我が妻だ! 全く……! ああ、今夜は宿に泊まるんだろ?」
「そうだが……まさか千姫の屋敷に泊まれとでも言うのか?」


 かなり渋みを起こした風間の表情を見ながら、不知火は頭を激しく左右に振った。


「いんや、今は千姫の所には行かねえ方がいいぜ」
「お千ちゃんに何かあったんですか?」


 不知火の言葉に心配が生じた千鶴が問い掛けると、不知火は頭をぼりぼりと掻きながら溜め息を吐いた。


「千鶴の兄貴の南雲薫にイチャイチャでよ。見てる方が恥ずかしくなるんだよ。それに南雲の方も満更でもないらしくてさ……」
「えっ……? 薫に……お千ちゃんがイチャイチャ……?」


 千鶴のポカンとした表情を見た不知火が風間の方に視線を向けた。


「お前、言ってねえのかよ?」
「忘れておった……千鶴、千姫と南雲薫が祝言を挙げるらしいぞ」
「何で今頃言うんだよ!?」
「祝言って一体何の事ですか!?」


 今思い出したという風間の言葉に二人が揃って迫り言葉吐き出すが、忘れていた本人は慌てもせずに弁解らしくないそれをする。


「今回の旅は忙(せわ)しいものだった。何故ならば周りにも常に警戒をしながらするものだったからな。だから一つや二つ忘れる事もあろう。それに、あやつらの事など俺の知った事ではないし、この京に着けばいずれは知るのだからな……それが早いか遅いかの話だ。特に重要視するような内容ではない」


 捻くれている――
 かなり捻くれた弁解だ――


 不知火と千鶴は大きな大きな溜め息を吐いていた――。


「……って事で俺も宿を取ってあるからそこに行くぜ」


 風間と千鶴が泊まる宿の前まで送ってくれた不知火は、片手を上げるとそのまま日の沈んで暗闇と化した京の町の中へと消えて行った。


 暫くの間、不知火の消えた方向を見つめていた風間が軽く伸びを起こす。


「さて、身体を休めるとするか……」


 その隣では、先ほどの薫と千姫の事をもう少し詳しく知りたい千鶴が、風間の腰ひもを軽く引っ張っていた。


「あの、お千ちゃんと薫の祝言の事、聞かせて下さいね」


 その言葉に、風間は面倒くさいというような表情を浮かべて呟いた。


「明日、あやつらに聞けば良かろう」
「黙っていたなんて酷いですよ」
「先程も言ったであろう。黙っていたのではない……忘れておったのだ」


 風間は目の前の千鶴の文句を聞き流しながら、暗闇の中で燦然と輝く宿の中へと入って行った。


 夕食は先ほど南禅寺の近くで湯豆腐を食べた為、二人は風呂に入った後、部屋でのんびりと寛ぎながら千姫と薫の話をしていた。


「薫とお千ちゃんが祝言を挙げるって本当なんですか?」
「そうらしいな。千姫が薫にかなり惚れ込んでいるらしい」
「でも、薫は納得のできない事は断ると思いますから、お互いに良いと思ったのではないですか? 意外とお似合いかもしれませんね」


 千鶴が似合いだろうと思われる二人を思い浮かべながら嬉しそうに笑むが、風間は首を横に振っていた。


「あやつらの事は俺には皆無だ」


 千鶴は薫と千姫の喜びの知らせと、この宿の女将から頂いた饅頭をゆっくりと噛み締めており、風間は勿論、好物の酒を大量に飲んでいる。


「もうっ、飲みすぎですよ!」
「今宵は祝いだ。そう煩く説教をするな」


 風間は注意されても機嫌は良いままで、饅頭を片手に持っている千鶴を抱き寄せて胡坐の上に座らせた。


「お前も食い過ぎではないか?」


 風間のその言葉に、千鶴がツンッと顎を上げた。


「今宵は祝いです。少しくらい食べ過ぎてもいいじゃありませんか」
「では、俺に説教をするでない」
「うっ……!」


 楽しそうに目を細める風間が、明日は千鶴の着物を買いに行こうと囁いてくる。


「あのじゃじゃ馬に劣らん立派な着物を纏わねばな」
「あのう……普通のでいいですよ」
「お前は馬鹿か? 頭領たる男の妻が貧相な着物など着て良い訳がなかろう」
「はあ……」


 風間はどのような着物を選ぶつもりなのだろう?


 千鶴が思考を張り巡らしていると、クイッと顎を掴まれ、風間の方に顔を向けさせられた。


 トクン――


 胸が今までとは違う音を大きく響かせた。


 片手に持っていたふわふわの饅頭がポトリと畳の上に落ち、形を崩す――。


「あっ、饅頭が……」


 饅頭に伸ばそうとした千鶴の片手が風間のそれによって妨げられた。


「今宵はどこまで進ませるか?」


 ニヤリと笑む風間の視線から逃れる術を無くしてしまった千鶴は目を逸らす事ができずに、目の前にある端正な顔立ちに見惚れる。


「……まで欲しい……です……」


 素直な気持ちが言葉に出るものの、はっきりと伝える事ができない。そして歯切れの悪い言葉に風間は納得がいかないようだ。


「今宵も最後までは抱けぬな。恐らく祝言を挙げるまでは無理か……」


 風間の顔を見ながらも片方の手で落ちた饅頭を拾った千鶴がふんわりと笑むと、目の前に歪な饅頭を差し出された風間の表情が呆れたものに変わった。


「花より団子という言葉を捩れば、今のお前は艶より饅頭だな……」


 まあ良い、楽しみは後に取って置くほど増すものだ――


 千鶴の耳元で囁いた風間は、そのまま唇の上にその言葉を発したそれを重ねていく。


 熱い口付けの間に風間の手が千鶴の着物の帯から下を捲り上げて、股の間の湿り気の箇所をゆっくりと上下に撫で上げ始めた。


 口付けで自由の利かない千鶴の口端からくぐもった喘ぎ声が漏れ出す。そして、互いの舌が複雑に絡み合い、唾液が溢れ出した。


 一度息継ぎの為に離れると、唾液の糸が灯りに照らされて、美しい愛の輝きを放つ。



 一瞬、その灯りがほんのりと柔らかい橙色をジジッと勢いよく燃やし、愛を確かめ合う二人を一つの影として映し出し、見守っていた――。

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