野路の玉川に咲き誇る萩の花の中で-sidestory-



 千鶴が藤色がそよぐ中で周りの景色に見惚れている。
 小さくて可愛らしい花々が千鶴の頬を擽った。
「あの道中に秋の野路の景色を想像していましたけど、本物の景色を見ると、私の想像なんてちっぽけなものなんだって実感してしまいます」
 空に浮かぶ雲たちは地上からは既に遠く離れて、白綿を小さく千切ったような形を作り上げて浮かんでいる。その寂しげな空を彩ろうと、赤蜻蛉の大群が右往左往して飛び交っていた。
 野路の玉川からは、夏には涼しげであったろうせせらぎが、今では秋虫たちの憩いの場所になろうとしていた。それが事実かのように、その川の傍には大空を飛び交っていた赤蜻蛉たちが屯っている。
 この野路の玉川は、平安時代末から名の知れた歌所となり、萩の玉川とも言われて、日本六玉川のひとつとして知られている。それにまた、この場所は鎌倉時代の宿場であった事でも名が知られていた。
「この野路を入れて、高野(紀伊)、卯花(摂津)、井手(山城)、野田(陸奥)、調布(武蔵)が日本六玉川と言われている」
 この野路の玉川は草津だけだと思っていた千鶴は、日の本の至る所に玉川があると風間に教えてもらって驚いた。
「全部の場所に行ってみたいものですね……」
 同じ玉川という名の場所でもきっと、その場所ごとに違う景色の色を編み出しているのだろうと考えると、どうしても自分の目で確かめたいと考えてしまう。
 道中にこの野路の玉川を訪れてから既に六年が過ぎている。その間に二人は祝言を挙げて夫婦となり、喧嘩をしたり互いに慰め合ったり、そして常に愛し合ったりして暮らしてきた。
 あの約束からかなりの年月が過ぎてしまったが、風間はそれをちゃんと覚えていてくれていて、今回の中秋の名月が訪れる日に千鶴をここに連れて来てくれた。そのような風間の心遣いが本当に嬉しく思う千鶴にとって、隣で守るように並んで立つ夫は自慢の男であった。
 祝言を挙げてから、一度目の約束であった箱根に連れて行ってもらってから、夫婦喧嘩で数度ほど里を飛び出した千鶴ではあったが、その途中で必ず風間に捕まって西の里に連れ戻された。今、暮らしている西の里での千鶴の暮らしは本当に窮屈なものである。最初は勿論そう考えていたのだが、その暮らしを一年ほど経験してみると、自分がいかにこの男に守られているのか、大切にされているのかをしみじみと感じた。それを感謝しなければならないというのに、心の中の思いとは違って、千鶴の口からは捻くれた言葉しか出てこない。その癖は、六年前から変わらないのである。
「久し振りに西の里から出ると、新鮮味を感じますよね」
 千鶴のその言葉に、風間が表情を曇らせる。
「西の里でも何不自由なく暮らしているだろう? それなのにまだ不満があるのか?」
 不満などない――ないのだが、どうしても【有難う】という簡単な一言が出てきてはくれないのだ。
「別に不満なんかありませんって……」
 千鶴は風間の傍からツツッと離れると、萩の花をたくさん咲かせている場所に歩みを進めた。
 萩は秋の七草のひとつであり、この日の本各地の山野でごく普通に見られる。そして萩といえば山萩(やまはぎ)を指すのだ。
 千鶴が一枝を静かに折り取って見つめる。花は豆のような蝶形花で、枝や葉は家畜の飼料や屋根葺きの材料に、葉を落とした枝は束ねて箒になるという。そして萩の根は、煎じると眩暈や逆上せの薬にもなり、人々や鬼の生活にも溶け込んでいる。
「牡丹餅は春の彼岸で代表される花の牡丹に因んでぼたもちと呼ばれている。そして、秋の彼岸には秋を代表する花の萩に因んで萩餅から御萩餅。そして御萩(おはぎ)と呼ばれるようになった」
 本当に風間は物知りである。千鶴は風間の話を聞くのがとても大好きであった。そしてそれと同時に、風間に釣り合う女にもなりたくて、この六年の間に様々な書物を読んだり、古老たちからも知識を得たりもしていた。
 西の里はそういう事に対しては本当に好都合な場所であり、一日の大半を屋敷の奥深くで過ごす千鶴にとっては勉強がし放題であった。
「小豆って夏にできるんですって。それで秋の御萩の頃にはまだ小豆自体が柔らかい為に、御萩は粒あんにするんです。そして冬を越えた春の牡丹餅には固くなった小豆を遣えないので、粒を潰してこしあんにするのだそうですよ」
 千鶴の学ある言葉に隣の風間が興味深そうに目を細める。鬼とは年を取るのが遅いと言われてはいるが、今この野路の玉川に立つ風間も千鶴の姿形は六年前とてんで変わってはいなかった。
 千鶴が説明を続ける。
「萩の別名を知ってます? 鹿鳴草(しかなくさ)、鹿の花妻、風聞草(かぜききぐさ)、庭見草、野守草、初見草とも呼ばれるらしいですよ」
「ほう、どうしてそのような別名がついたのか?」
「全ての別名を把握はしていないんですけど、鹿鳴草は、萩は鹿の妻、鹿は萩の夫に例えて、鹿が萩を訪れて鳴くという言い伝えがあるそうなんです」
「鹿は秋になると雄が雌を恋い慕って独特な鳴き声を上げる。鹿と言えば紅葉。しかし、その中でもこの萩の中で鳴く鹿に強い印象を持ったから、そのような異称をつけられたとも言われているな。そして初見草は、この萩は毎年古い株から新しい芽を出すと言われているからとも言われている」
 千鶴が一つを語れば、風間は二つを語る。やはり風間には敵わないと、千鶴は大きな溜め息を吐き出した。
 そのような千鶴を見ていた風間――六年前ならば、面白がってからかったりもしていたが、今では壮年の男である為に、そのような軽い行動は既にしなくなっており、
「この季節の野路の玉川も美しいのだが、冬の玉川もまた見どころがあるぞ」
 と、秋の次に来る冬の情景を千鶴に想像させるような言葉を掛けてきた。
「冬……ここは雪が積もるんですか?」
「ああ、積もるな」
「雪景色の玉川も美しいのでしょうね」
 千鶴が冬の玉川も見たいと風間に何となしに懇願をしてみるが、これだけは約束を確定させる事ができなかった。
 数日前から千鶴が首を捻って考える時が多くなったのに気づいた風間が、その理由を問うと、
「あれが来ないんですよ……」
 と、少し不安げな表情を顔の上に浮かばせていた。
 あれとは月のもの――六年前の道中でも一度だけ大騒ぎになった事がある。
「身ごもったのかもしれんな」
 風間が静かに言葉を紡ぐと、千鶴の表情からは不安な色が消えて満面の笑顔が浮かび上がっていた。
「やっと……」
 この六年の間、二人には子ができなかった。それを心配した里の者たちも数多いて、懐妊に効くという薬や食べ物、最後には神頼みらしき事まで勧められたが、それに対して風間は全く受け付ける事をしなかった。何故ならば、二人の間に子ができなかったのは、風間がそう望んでいたから――。
 長い時を生きる鬼である風間は、子供はもちろん欲しいと考えてはいたが、それよりも、千鶴との二人の時間をもう少し長く過ごしたかったのである。
「天霧さんも、早く子供をと毎日のように言ってらっしゃいますしね」
「あの箱根の時もそのような事を言って送り出していたな。あの時は身ごもるかと思っていたが、天は俺に味方をしたようだ」
 あの箱根二人旅の時の風間は、何も考えずに千鶴を抱いた。しかし、その時の千鶴の身体は子を身ごもる為の準備期間ではなかったようで身ごもる事はなかった。風間はこれ幸いと喜んでいたが、天霧はそうでなかったようである。箱根から戻って来ても、千鶴の身体に何の兆候もなかった為に、風間に対してかなり憤慨していた。
「あの時の天霧さんは、遺憾です、全く遺憾……って、千景さんに毎日文句を言っていらしたもの……」
 その時の天霧の表情や態度を思い出した千鶴が苦みのある笑みを零すと、風間は、
「俺の方が遺憾だ。あの時は天霧の言う事を素直に聞いてやったのだぞ」
 と、短い愚痴を呟いた。
 風間家の家老職に就いている天霧は、二人の間に子ができない理由を知っていた。そして、子ができない理由が風間の思惑であった事も――。しかし、それを一族の者たちに知られては何を言われるか分からない為に、風間家跡取りの話題になると口を堅く閉ざしていたのだ。
「風間、一族の者たちを騙し続けるのも、もう限界ですよ」
 今回の旅の前夜に、風間は天霧にこう言われていた。
「里に戻れば、天霧が両手を天に翳して大喜びをするぞ」
「それに、西の里の一族の方たちも喜んで下さいますね」
 まだ、身ごもったという確信はない。しかし、この野路の玉川に到着するまでの数日間。千鶴は四六時中、食べ物を口の中に入れていた。いくらよく食べる千鶴でも食べすぎであろうと思った風間が問うと、こうでもしていなければ気持ちが悪いのだと伝えてきた。
 千鶴は食べ悪阻であった。
 こういう時でさえも食べる事に執着をする千鶴に、風間はほとほと呆れたものである。
「まだ、嘔吐などの悪阻の方が可愛らしいのだがな……」
 と呟くと、
「食べられない上に嘔吐ばかりで痩せ細っていくより、こっちの方がいいじゃありませんか」
 などと反論をしながら、風呂敷を広げて、中から大きな握り飯を取り出した。それを見た風間は頭を左右に振りながら嘆息を吐き出した。
 食べ悪阻で、千鶴の身体がかなりふくよかになっている。
 風間は痩せ細っている女よりも、ふくよかな体つきの女が好みだ。西の里で過ごすようになった千鶴は、まさに風間の好みの妻になった。しかし今、目の前にいる千鶴は、ふくよかを通り越して太っていると言った方が早い。
「相模が言っていたぞ。身ごもっている時の肥満は、出産時に大変な事になるとな」
 風間はそう言うと、千鶴の手の中にあった握り飯を取り上げた。
「あっ!」
「これは俺が食うとしよう」
「ええっ……!」
 これからは大事な時。女鬼の死亡率が高く、人数も少ないのは、生まれる子が男子が多いのもあるが、この出産時で命を落とす時も多いからだ。千鶴に死なれてしまっては、その先の自分の人生がどうなるか――風間はそれを考えただけでもゾッとした。
 萩が揺れる。その中で藤色の花々が秋の彩りを二人の瞳の中に映した。
「この道中の後、暫くは西の里からは出さないからな」
「分かっています……」
 そう、西の里に戻ればまた、屋敷の奥深くで過ごす日々が始まる。千鶴は西とは反対の方向の空を見上げた。
「江戸……いえ、今は東京ですね。六年前に家を出てから一度も行っていません……」
「ふん、この俺がいるというのに、江戸が恋しいのか?」
「いいえ……ただ、少しでしたけど、あの家には千景さんとの思い出もあるから……」
 まだ素直でなかった二人の思い出があの家にはある。その時の光景を思い出した千鶴がふふっと小さな笑み声を漏らした。
「私を迎えに来た夜、千景さんは五右衛門風呂で火傷をしていましたものね」
「あれは熱かったぞ……」
 酒の温度の加減で喧嘩をした事もあった。そして、江戸の女たちが風間に見惚れているのを見る度に、千鶴の心の中は激しい嫉妬の炎を燃やしていた。
「東海道のこの場所で私たち、口づけをしましたっけ……」
「さあ、覚えてはおらんな」
 千鶴の問い掛けに、風間が恍ける振りをしながら顔を近づけてきた。
「どのような感じで口づけをしたのだったか……」
「もう、覚えているくせに……」
 千鶴の膨れ始める頬を見ながら、風間が意地の悪い笑みを浮かべる。
「このような感じであったか?」
 そう囁くと、風間の唇が千鶴のそれに優しく重なる。

 野路の玉川に咲き誇る萩の花の中で、二人は熱い口づけを何度も繰り返していた――。


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