京滞在記:1



 京に着いた翌日、東海道の旅で疲れが溜まっていた千鶴は昼近くまで目を覚まさなかった。


「千鶴……いい加減に起きろ」


 朝、何度も顔の肉を引っ張ったり口付けをしながら起こそうとした風間だったが、どんなに風間の好き勝手をしようが千鶴は一向に起きる気配もなく、最後には起こす事にも面倒くさくなり諦めた風間は格子窓から京の町中を覗いていた。


 数年前に比べて穏やかになった京の町民たちの朝は相も変わらず早くから賑やかである。そのような喧騒は風間たちが宿泊している部屋の中にまで流れ込んでいるのに、千鶴は幸せそうな寝顔を浮かべて深い眠りの中にいる。風間は忙しない外と、千鶴の寝息しか聞こえない静けさが充満する部屋の中を見比べながら大きな溜め息を吐いていた。


「千景さん……お早うございます。今朝は目覚めが良かったんですか?」


 布団の中で重い瞼を押し上げながら大きな欠伸をする千鶴を、格子窓の欄干に座っていた風間が睨み付けた。朝から機嫌の悪い風間を見るのが久し振りであった千鶴は首を傾げた。


 自分がまた何か粗相でもしたのだろうか?
 まさか、鼾(いびき)が大きくて目覚めが早すぎた風間は機嫌を悪くしているのかもしれないと考えた千鶴は、


「どうしたんですか? そんなに怖い顔をされたら謝ろうにもそれができないじゃないですか」


 と伝えてみると、風間は窓から部屋を覗き込むように差し込んでいる光の根源の方に顔を振り上げた。


「何が怖い顔だ。昼前まで寝ていてよくもそのような事が言える……」


 風間が顔を振り上げた方向に千鶴も視線を上げて目をまん丸くさせた。


「昼……ああっ、ほんとだ! お日様があんなところまで!」


 布団から飛び跳ねるように抜け出した千鶴。外では町民たちの賑やかな声に混じって『昼飯は何にするか?』などの声も聞こえてきた。


「どうしましょう……今日はお千ちゃんの所に行くのでしょう?」


 千鶴は抜け殻のような形をした布団を急いで畳み始める。


「昼まで寝ていたという事は行きたくないと考えて良いのか?」


 そのような千鶴の慌て振りを見ながら、少し嬉しそうな様子で問い掛けてくる風間に千鶴が即座に言葉を返した。


「そんな訳ないでしょう! 何でもっと早くに起こしてくれなかったんですか!?」


 風間は自分が目の前にいるのにも関わらず、千鶴が布団を畳み終えたその場所で着物に着替え出そうとするのを目を逸らさずに見ていた。


「何度も起こしたぞ。頬を引っ張り続け、息苦しいと思われる口付けまでしてやったのだがな……。お前はうんともすんとも言わずに眠り込んでいたのだ」


 全てを脱ぎ取って露になった千鶴の白肌が日の光に照らされて輝きを放つ。その姿を風間は眩しそうに目を細めて見つめる。


「私が寝ている間にそんな事してたんですか? って……千景さん、何を見ているんですか?」


 風間の視線が自分にある事に気づいた千鶴は、裸体のままで問いかける。変なところで正直な風間が自分の人差し指を千鶴に向けた。


「何を見ているだと? 俺はただ、お前の裸体を見ているだけだが?」


 風間の言葉に一瞬だけキョトンとした千鶴。


「えっ、裸体って……」
「なかなかの目の保養にはなったのだが、俺は一言をお前に伝えたい」


 風間がずっとこちらを見つめる中、意味深な言葉を投げつけて来て、その言葉の後に千鶴は自分の身体を見る為に風間に向けていた視線を下げた。


 昼時になり、町中の騒然さも少しだけ収まり、二人がいる部屋の中では無言の空気が暫しだけ流れた。


 鳥の囀りが遠くから聞こえ、その中に混じる烏(からす)の鳴き声は、まるで千鶴の失態をあざ笑うかのように聞こえた。


「……」
「全く、お前には女としての自覚がないのか?」


 暫しの静けさを打ち破る言葉を放った風間は、千鶴の裸体を視界から逃して再び格子窓の外の方に視線を移した。


 驚きすぎて声にもならない悲鳴を上げる千鶴が前を隠しながらへなへなと座り込む。


 このような事は考えたくもないが、まさかこの京で新選組と暮らしていた頃の千鶴はこのようだったのか?


 暫くして落ち着きを取り戻した千鶴が慌てて屏風の陰に隠れて着替え出したのを確認した風間は線香花火のような嫉妬を燃やしながら小さな嘆息を漏らしていた。


 風間はようやく用意の整った千鶴を連れて呉服屋へ足を運び、丹念に既に形のある着物の柄を選んでいた。


 江戸時代に入ってから、幕府の保護のもと西陣は黄金時代を迎えていたが、享保十五年の西陣の火災の後衰退していき、それと同時に丹後・長浜・桐生・足利など京都以外の地域で絹織物が盛んになり、火事の後には西陣の技術が織工とともに地方へと伝わっていっていた。更にその後の天明八年の大火や、天保の改革による株仲間の解散・絹織物禁止令で、西陣は相当な打撃を受けたという。その為、風間と千鶴が立ち寄った呉服屋には西陣以外の地方の織物も扱っていた。その中でも高級な織物として一、二を争う桐生織物と足利織物を店主に出させる風間。二人の目の前には色鮮やかに織り成された美しい着物が散らばるように置かれていた。


「これ、可愛らしいですね」


 千鶴が手に取ったのは小さな菊模様と可愛らしい鳥が刺繍されている薄黄色の着物だったが、風間はその着物は勿論の事、目の前にある全ての着物が気に入らないようで店主を睨み付けていた。


「おい、店主。出して来たこれらの着物は全て価値のないものだな。金に糸目は付けん。奥から最上級の物を持って来い。」


 風間の睨みとその言葉でしまった――と言うような表情を作り上げた店主は、少々お待ち下さいね――と蚊の鳴くような声音で呟くと、慌てて奥へ引っ込んで行った。


「ふん、客の値踏みなぞしよって……俺を甘く見るな」


 店主の姿が消えた方向を睨み続けている風間に、


「あのう……私、そんなに高いのはいらないんですけど……」


 千鶴が遠慮がちにボソボソと呟くように自分の気持ちを伝えるが、風間は千鶴の言う事を聞き入れるつもりはないようだった。


「千姫は、俺に会う時は中味では勝てぬ為、外見で威嚇してくるのだ。今回もそうに決まっておる」
「そうでしょうか? 今回は薫がいるし……恐らく可愛らしい格好をしていると思いますよ」


 千鶴のその言葉に、風間の緋色の瞳が鈍い光を見せた。


「何故だ……?」
「えっと、よくは覚えてはいないんですけど、薫って確か可愛らしい物が好きだったような気がするんです」
「あのじゃじゃ馬が薫の言う事など聞く訳がなかろう。店主、早くしろ」


 風間の威圧感たっぷりの一声で店主が小姓を従えて、奥から慌てながら腕いっぱいに乗せた着物を持って来た。それはどれもこれも先程のとは比べ物にもならないくらい立派な物だった。


「やはりな……初めからこれらを持って来い」


 風間は目の前の着物に満足したのか、上機嫌で千鶴に合う着物の柄を選び出した。


「これにしよう」


 風間が選んだ着物とは、目にも鮮やかな山吹色の生地に縁が深紅で彩られた中に白の菊の模様が浮かび上がった物だった。そして風間も自分の着物を選ぶ。それは千鶴と同じ菊模様ではあったが、白を基調にした生地に裾から膝丈辺り、袖の下辺り、襟元の重ねの半分身頃に赤と金の菱形の菊が美しい線を描いていた。


「千景さんも私も派手じゃないですか?」


 その着物に着替えた風間と千鶴が店を出て千姫の屋敷に向かう途中にすれ違う町民にじろじろと見られている事で、千鶴は今の姿が自分には不相応なのではないかと不安を抱いていた。そのせいか下を向いて歩いている為、背筋が曲がって自信のないような格好になっている。


「何をおどおどとしているのだ。派手ではなく粋なのだから堂々と前を向いて歩け。しかし、先程の着物の柄を選ぶお前は野暮だったのだな。もう少し着る物に執着するくらいの心を持て」


 千鶴の隣を歩く風間は背筋をピンと伸ばし、すれ違う町民の視線など全く気にもせずに大またで歩く姿が、先ほど選んで今、身に着けている派手な着物に負けてはいなかった。春の訪れを感じさせる鶯の初鳴きを聞きながら、


「下手糞な鳴き声だな……」


 とぶつくさと文句まで垂れている。


「や、野暮な女で済みませんでしたね!」


 自分では可愛らしいと思って選んでみた着物だったのだが、貶された事に怒りを覚えた千鶴は、腹立ちのお陰で背筋がピンと伸び、その瞬間を境に、周りからは一応威風堂々と歩いているように見られていた。


「今日は千姫の所だけなんですよね?」


 昼前に起きてしまった千鶴が風間に確認をすると、風間はそうだと返事をした。


「今宵、千姫の屋敷で馳走を振舞ってくれるらしい。泊まっていけとも言っていたが……」


 そして次に出そうと思った風間の言葉は千鶴のはしゃぐ声に妨げられてしまった。


「本当ですか!? お千ちゃんと少しでも長く一緒にいられるんですね。女同士の話もしたいし、楽しみです!」


 本当は、泊まらん――と言いたかった風間なのだが、ここまで喜ばれてしまっては後の言葉を出した時の千鶴が可愛そうに思ってしまい、喉から出そうなその言葉を腹の奥に引っ込めてしまった。


「今宵は楽しめぬな……」


 ぼそっと風間が呟く。恐らく今日の夜は千姫が千鶴を独占するだろう。いくら薫がいるといってもあのじゃじゃ馬にとって千鶴は特別な存在なのだ。風間は少し苛立ちを覚えながらも目の前で全身で喜びを表現する千鶴を見ると、仕方がない――そう思うのだった。


 風間は重い足取りで、千鶴は軽い足取りで――


 正反対の気持ちの二人は千姫の屋敷へと向かって行くのだった――。




「ここが……千姫の屋敷なんですか?」


 京から少し離れた山を登りきった場所に千姫の屋敷が建っており、その屋敷を見た千鶴の目が大きく見開いた。


 二人は今、八瀬の里に通じる大門の前に立っている。この八瀬の里に住む者の半分以上が女で、鬼の一族の中では珍しい。


「ふん、一応鈴鹿御前の末裔だからな、これくらいの屋敷を持っていて当然だろう。広さは少し負けるが、俺の屋敷とそう変わらん」


「へえ、そうなんですか。って、今……何と言いました?」
「俺の屋敷とそう変わらんと言っただけだ」


 風間の言葉に目を丸くする千鶴は、風間の屋敷もこのような感じなのかと聞いてみると、


「そうだな……このような感じだ。羨ましいか?」


 とニヤリと笑んできた。


「いや、羨ましいっていうか、掃除が大変……って、さり気なく自慢していますよね……」


 千鶴は風間や千姫の家の大きさも知らなかった為、風間が自分が住んでいた江戸の家に滞在していた時はどんなに窮屈だったであろうと考え、最終的には恥ずかしくなっていた。


 千鶴の心中を読み取ったのか、風間がフフンと鼻で笑いながら話し出した。


「そう言えば、お前の家は狭苦しい家だったな。俺の屋敷の広間を二部屋分合わせたくらい……いや、そこまでもなかったか……」


 その言葉に千鶴は顔を真っ赤にさせて反論しようとしたが、それは風間の次の言葉によって取り消されてしまった。


「しかし、あのような家の方が落ち着いたのは何故だろうな……」


 千鶴の目の前の風間が不思議そうに考え込む。今まで自分の広い屋敷でしか育った事のない風間にとっては、千鶴の家の狭さは辛かったはずだ。それが微塵にもそう思わなかった上に居心地が好いとさえ思っていたのだ。


 風間が目の前にいる千鶴を見つめる。そして、


「ああ、そういう事か……」


 と、どこか遠くに視線を向けながら柔らかな微笑みを浮かべた。


「珍しくその笑みが出ましたね」


 発見した時から暫くの間見なかった風間のその笑みを再び見る事ができた千鶴が優しく微笑み返す。


 千鶴がいたからこそ、あのような家でも心地好いと思ったのだな――


 風間が京の上を走る爽やかな春空を見上げながら納得をしていると、


「どうしたんですか? ボーっとして」


 と、千鶴の顔が風間の視界に大きく映し出された。蜜色をした大きな瞳に吸い込まれそうになる――そう思った風間の緋色の瞳は、咄嗟にその顔を消し去った。


「いや……さて、千姫が待ちきれない様子のようだ。向こうから土埃を立てて走って来ておるぞ」


 今、自分に向けられている千鶴の意識を逸らす言葉を放った風間。その言葉を受けた千鶴の意識は、見事に違う方に向いてくれた。


「えっ、ああっ! お千ちゃぁぁん!」
「千鶴ちゃあぁん! 待っていたのよぉぉ!」


 千鶴に千姫が飛び付いて来て強く抱き締める。そんな二人を見ながら風間が嫉妬心を起こして眉を顰めた。


「おい、折角の着物が穢れるではないか。千鶴から離れろ」
「千鶴ちゃんの中身を穢してるあんたに言われたくはないわね」


 八瀬の里に到着してから早々、風間と千姫の貶し合いが始まった。


「ふ、二人とも……喧嘩をしないで……」



 千鶴が二人の仲裁に入っている間に、千姫が駆けて来た後ろからは面倒臭そうな表情を浮かべている薫と、穏やかな顔をした君菊、そして二カッと笑っている不知火が三人の方へ歩み寄って来ていた――。


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