京滞在記:4
風間と千鶴が宿泊している宿の前に立つ不知火は、大きな溜め息を吐き出していた。
朝になって風間からのいきなりの誘いに行こうか行くまいかと悩んでいたのだが、これを断れば後が厄介だと考えた不知火は、風間の誘いに応じる事にした。
千鶴に対する淡い恋心。それは徐々に薄れつつあるが、まだ完全に吹っ切れた訳でもない不知火は、宿の一室で仲睦まじく? 並んで座る二人の姿を思い出すと遣り切れなくなりそうになった。
「まあ、風間は最初っから千鶴を狙ってたしな……。それに、江戸に迎えに行くまでの五か月間を除いて、あの二人はいつも一緒だった。だからあいつが風間のもんになるのは仕方がないんだけどよ……」
不知火は大きな溜め息を再び吐き出すと、渋々と宿の暖簾を潜って行った。
「あいつの誘いは絶対に酒だ……だから、酒で自分の気持ちを紛らわせばいいんだ」
不知火はそう呟きながら、手に下げていた徳利を持ち上げる。自分の気持ちを奮い立たせるように――そして風間と千鶴がいるであろう部屋の前に到着をすると、大きく息を吸い込んだ。そして襖の取っ手に手を掛けようとすると――
「うおおおぉっ!」
宿中にいきなり響き渡った大音声に、宿泊客たちが次々と部屋から顔を覗かせる。
不知火の目の前にはかなり不機嫌極まりない男、風間の姿があった。
「耳の鼓膜が破れるかと思ったぞ」
不知火が襖を開けようとした時、その襖が勝手に開いた。そして風間が現れたというわけだ。
「お、驚かすなよ……」
「ふん、お前が来るのが遅いのが悪いのだ」
風間と不知火の会話を聞いていた宿泊客たちの顔が今度は次々と部屋の中に引っ込んでいく。大声が宿中に響き渡った時は驚いたようだったが、二人の様子を見て、大した事はないと思ったらしい。中には、
「迷惑な男だな……」
と文句を言いながら姿を消す客もちらほらといた。そのような客たちに軽く頭を下げて謝罪をした不知火が部屋の中に入る。
「千鶴が出迎えてくれると思っていたのにな、お前が出て来るとは考えもしなかったぜ」
と言いながら部屋を見回した不知火が首を傾げた。
「おい、千鶴はどうしたんだ?」
部屋の中には千鶴の姿がない。二人の部屋は千姫が予約をした為に、他の部屋よりも数倍は広く、寛ぎの部屋と閨(ねや)に分かれているのだ。
「まさか、まだ寝ているのか?」
不知火が閨の方に親指を突き立てると、風間の不機嫌さが一層深まったような気がした。風間は、先ほどまで座っていたのだろう、中央に置かれた厚さのある座布団の上に荒々しく腰を下ろすと、不知火が下げている徳利に人差し指を向けた。
「それをよこせ……」
「え、それって……これか?」
「ああ、それは酒だろう? 早くよこせ」
風間の真向かいにも厚みのある座布団が置かれている。恐らくそこが自分の席なのだろうと思った不知火がそこに腰を下ろすと、徳利の蓋を開けた。
「ほらよっ」
風間の方にその徳利を差し出す不知火。彼が持ってきた徳利は四本。そのうちの二本を風間に渡した。
手酌酒を始めた風間は、間も明けずにぐいぐいと酒を飲み干していく。それを見つめていた不知火が再び問い掛けた。
「おい、千鶴はどうしたんだよ?」
その言葉を出した瞬間、風間は手に持っていた杯を部屋の壁に投げつけていた。それは、不知火の左耳をすれすれに飛んで行ってその場所に当たって粉々に砕け散る。この音も恐らく隣の部屋に聞こえているのだろうなと考えながら隣の部屋を仕切る壁を見つめた。
徳利一本を飲み干した風間は、まだ酔えん――とぶつくさと文句を放っている。この機嫌の悪さを見ていて、喧嘩でもしたのかと思った不知火は、
「ま、まあ落ち着けって……仲違いをしても夕暮れ時には帰って来るさ」
と、風間を宥めるような言葉を投げかけると、自分の手元にあった二本の徳利のうちの一本を風間の目の前に静かに置いた。それを奪い取るかのように掴んだ風間が大きく鼻を鳴らす。
「当然だ……夕暮れ時にまで帰って来なければ、八瀬の里に怒鳴り込みに行ってやる」
その言葉を聞いた不知火は、話がどうやら違うと感じた。
「おい、八瀬の里に怒鳴り込みに行くって……」
風間の機嫌が頗る悪い理由が分かりかけた不知火が恐る恐る聞いてみると、杯が手元になくなってしまった風間は、徳利のままで喉を鳴らして酒を流し込んでいる。そして一息つく為に、徳利から口を離すと、
「今日一日は、千姫と京市中を歩き回った後に、八瀬の里の千姫の屋敷で夕食を馳走になるのだそうだ。日が暮れるまでには戻って来いとは伝えてあるが、その約束事が破られる確率は高い。その時は八瀬の里に怒鳴り込みに行くからな。お前もそのつもりでいろ」
風間はそう言い放った後に、再び徳利の中の酒を飲み始めた。
「はあ……何で、俺がお前と一緒につるまなきゃなんねぇんだよ……」
と、幕末の頃の光景を思い出した不知火だったが、急に我に返って風間に片手を差し出した。
「おい、徳利の一本を返せ……」
宿でも酒を用意させた風間と不知火は、昼前から日が暮れた後でも未だに酒を飲み続けていた。
「ほれ見ろ……やはり約束事は破られたではないか」
窓の外の明暗を確認した風間がゆらりと立ち上がる。少しは酔っぱらっているのだろうか、足元が覚束ない。不知火も久し振りに大量の酒を身体の中に流し込んだせいか、日暮れ時から頭痛を起こし始めていた。
「俺、明日の朝には初めての二日酔いになってんのかもしんねぇな」
痛む頭に片手を添えながら口元を歪ませる不知火に、風間が情けないと呟く。
「お前の先祖は代々、酒に強かったというではないか」
「ああ、高祖父は確かに強かったらしいな。しかし、あの爺さんは長生きしたって言うぜ……鬼でも普通、二百以上も生きるか?」
不知火の溜め息混じりの言葉に、部屋の中を歩き回っていた風間が即答をする。
「俺の高祖父も長生きをしたぞ……しかしお前のところのように二百歳の前で逝ってしまったらしいがな」
「確か、風間んとこと俺んとこの高祖父は仲が良かったんだよな?」
一度、高祖父同士が会って会話をしていた姿を見た里の者たちからの情報を思い出した風間が口元を歪ませた。
「あれが仲が良いと言えるかどうかだ。あの時の高祖父は、お前のところのそれにやられっぱなしだったと相模が言っていたからな……まあ、西の里の中でも今までの頭領の中で一番やんちゃであったと伝えられている」
「へえ……俺んところは毒舌頭領だったらしい。まあ、確かにいちゃもんをつけさせたら、誰も逆らう事ができずに舌を巻いていたらしいからな」
その高祖父たちは、あの関ヶ原の戦で戦った男たちである。しかし、彼らはその当時を誰にも話す事はなかったのだそうだ。
いや、何度か問いかけた事はあったらしい。しかし、高祖父はその当時の話をしようとはしなかったのである。
「天霧の高祖父はかなり短命だったらしく、百を超えた辺りでこの世を去ったらしい」
「雪村家の頭領も、だろ?」
雪村の名を出した不知火が、しまった! というような表情を浮かばせた。風間が窓の外の暗闇に視線を投げかけて低いうなり声を放った。
「不知火、お前が面白くもない話を吹っ掛けてきた為に、八瀬の里へ怒鳴り込みに行けなくなったではないか!」
「お、俺のせいじゃねぇよっ!」
この過去の話は風間の口から先に放たれたものだ。それを勝手に責任転嫁されても困ると、不知火も反撃をしようとしたその時――
「ちょ、ちょっと、風間っ!」
襖が開き、慌てた様子の千姫が姿を現した。その姿を見た風間が窓の方に指を差した。
「約束が違うではないか……」
しかし、千姫の様子がおかしいと気付いた風間が問いかけた。
「千鶴はどうした?」
すると、千姫の背後から、君菊に支えてもらいながらの千鶴が姿を現した。顔面は真っ赤に染まっていて、足元がふらついている。その弱々しい姿を目にした風間の身体が瞬時に動いた。
「千姫、お前は千鶴に何をしたのだ?」
風間の凄味のある声音に、千姫の身体が少し後ずさる。
「な、何もしてないんだけど……最後の茶屋で酒饅頭を食べたあたりからおかしくなっちゃったのよ!」
「酒饅頭……だと? お前は千鶴に酒の入ったものを食わせたのか?」
「だ、だって、そこの茶屋の売りがそれなんだもの!」
風間と千姫が言い合いをしている時、顔を真っ赤にさせた千鶴の視線が不知に向けられた。饅頭の中の酒は微量のはずなのに、それでも酔っぱらったのかと驚く不知火だったが、千鶴の様子が尋常ではないのを心配して声を掛けた。
「お、おい、大丈夫か?」
不知火の前でしゃっくりを起こした千鶴が、いきなり抱きついてきた。
「あなた誰……? 恰好いいぃぃ……」
「へっ……!?」
千鶴が不知火の頬に口づけの雨を降らせる。それを見た風間は、千姫との言い合いを一旦止めて、不知火に抱きついている千鶴の腕を引っ張った。千鶴から口づけを頂いた不知火の意識は今、嬉しいのかそうでないのかの狭間に位置していた。
今でも少しだけ心残りのある気になる相手に口づけをされたのに、何となく複雑な気持ちが不知火の中にあった。
できれば素面の時にしてほしかったんだけどな――
酔っぱらっている上に、俺の名前も忘れて――
そんで口づけされてもなぁ――
不知火の目の前では、酔っぱらった風間が千鶴を無理矢理に抱きかかえて閨の方に連れて行っている。それを見届けた千姫が、不知火の肩を軽く叩いてきた。
「ここに残っていたら、風間に何をされて言われるか分からないし、もう退散しましょう」
でも、酔っぱらった千鶴ちゃんの人格が豹変するとは思いもしなかったわ――
千姫はそう呟くと、不知火よりも先に部屋を出て行ってしまった。閨の方では、今度は風間に襲い掛かっているのだろうか。二人が布団の上で暴れ回っている音が聞こえてくる。そして、隣の部屋からは、煩いと言わんばかりに、宿泊客が壁を強く叩きつけていた。
「はあ……何か、違う意味で思い出を残せたというか……」
風間は知っていたのだろうか?
千鶴が酔うと、あのようになってしまう事を――
酒饅頭と聞いた時の風間の態度は知っている風であった。
「きっと、東海道中で千鶴に酒を飲ませてみたんだろうな……」
明日の風間も恐らく機嫌が悪いだろう。
明日も千鶴が千姫と出掛け、風間から誘いがあったとしても絶対に断ろう――
そう心に決める不知火は、静かに部屋から出て行く。
「風間がてめぇ以外のもんにあんな顔するなんてな……」
愛する者ができるとああいう風になるのだろうか?
「ああ、俺もいちゃいちゃしてみてぇ……」
と小さく呟く不知火であった――。
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