京滞在記:5
一昨日の夜に酔っぱらって帰って来た千鶴。その翌日は寝込んでいた。
酒饅頭に入っていた酒だけで酔っぱらい、二日酔いになったのだ。何ともひ弱な女鬼だと、風間は呆れながらも二人の時間を満喫をしていた。
そして次の朝、風間が目覚めると――
「おい千鶴……」
一つの布団で共に寝たはずの千鶴の姿がない。風間は咄嗟に起き上がると部屋を見回した。
閨から出た風間の目に留まったものは、机の上に重石を乗せられて置かれている紙切れ一枚。風間はそれを取り上げて、書かれている文に目を通した。
独特な字形。それに苛立ちながらも必死に解読をする。そしてようやく読み終えた時、風間の手にある手紙は無残にも握り潰されていた。
「今日は、薫と一日を過ごすだと……? 夫を放りっぱなしにするとは何事だ!」
今日は薫と二人きり。実兄と一日を過ごせる事は嬉しいはずなのに、長い時をばらばらに過ごしていたせいか、千鶴は薫と何を話したらいいのか戸惑いを覚えていた。しかし、そのような千鶴の気持ちを知ってか知らずか、薫の機嫌はそこそこ良く、口元には笑みの形が作り上げられている。
二人は今、一昨日には千姫と訪れてはいない茶屋で一服をしていた。二人の目の前の光景は幕末の時とは変わっていないようで変わった。何とも矛盾をしていると千鶴は苦虫を潰した笑みを浮かべる。
いや、変わったのだ。
攘夷志士だと名乗って偉そうにしていた浪人たちがまず、いなくなった。そして、町民たちの表情の中にも不安そうな雰囲気を持った者が少なくなったような気がする。そして、もう一つの変化を千鶴は感じた。
新選組の浅葱色が町中から消え去った――
あの時は新選組の隊士たちが町中を闊歩していた。しかし、彼らは幕府と共に掻き消えてしまった。千鶴が空を見上げると、浅葱色の空が広がっている。それはまるで、この世から姿を消した隊士たちのあの羽織を敷き詰めているようにも見えた。
「空が近い。もうすぐ春真っ盛りになるね」
千鶴が隣に顔を向けると、薫もまた空を見上げていた。千鶴と同色の蜜色の瞳は、過去を懐かしんでいるようにも思えた。
「お前と京で初めて会った時、沖田がいたよね……」
沖田総司――
千鶴にいつも物騒な言葉を掛けてきた、一番組の剣士は労咳で亡くなったと風の噂で聞いた。
「俺はね、あいつの所に変若水を持っていった事があったんだ」
薫の言葉に目を見開く千鶴。その変若水を沖田は飲んだのだろうか? それだけが気になって問いかけた。
「お、沖田さんはそれを飲んだの?」
薫が意地悪い笑みを浮かべて千鶴を見つめる。しかしその後は、今まで見た事もない爽やかな笑みを作り上げていた。
「いいや、飲まなかった。俺があれを飲んだら労咳もなくなって再び刀も持てて振るえるようになるって伝えても、あれだけは飲まないって言っていたな……でも、俺はその変若水を沖田の所に置いて来たから、その後のあれがどうなったのかは知らないけどさ……」
薫の最後の言葉を聞いた千鶴は、再び静かに問いかけた。
「いつ、沖田さんにあれを渡したの?」
それに対して、薫はしっかりと覚えていたらしく即答をしてきた。
「油小路の変の時さ。あの時の屯所は手薄だっただろ? その上に風間が時間稼ぎにやって来ていた。門前で騒動を起こしてくれている間に沖田の部屋まで入れたんだ」
それを聞いた千鶴は思い出した。
あの時、風間が一人で屯所を襲撃してきた。咽返りそうな血の匂いが充満する中で、風間は息も切らさずに涼しげな顔をしていた。千鶴はこの時、鬼がいかに強いかという事を思い知った。
風間が言う、まがい物である羅刹たちも敵わなかったのだから――
そう、あの山南も、そして斎藤も――
ただ悔しそうに唇を噛みしめながら、風間の消え去った場所を睨みつけていた。そのような過去を思い出しながら千鶴は薫に答えた。
恐らくではなくて確実な事を薫に伝える為に口を開く。
「沖田さんはあれを飲んではないわ……」
それを聞いた薫の顔を見る事はできなかったが、声音で分かった。
「へえ……そうか……飲まなかったんだ」
それはとても静かで、自分の犯した罪が第三者によって実行されなかった安堵感が込められているようだ。
「飲まなかったわ。だって、あの後の沖田さんは刀なんて持てなかったもの……」
刀を持つどころか、起き上がる事さえも儘ならなかった。筋肉質であった腕は痩せ細り、頬はこけて顔色は死人のように青白かった。江戸に退く時でさえも仲間たちによって運ばれていたのだから――。
「あれは飲まない方がいい……」
薫の呟きに、千鶴は咄嗟の反応を示した。
「当然よ……あんなもの……飲むべきものじゃないし、この世にあるべきものじゃないわ」
そして二人の会話が一時途切れる。春うららかな午後であるのに、薫と千鶴の間には寒風が過ぎ去った。それが打ち破られて再び暖かい空気を流し込んだのは千鶴ではなくて薫であった。
「俺ね、もう一軒、千鶴を連れて行きたい店があるんだ」
茶と茶菓子の代金を机の上に置いた薫が席を立つ。そして千鶴に向かって手を差し伸べてきた。
「行こう……」
薫の静かな掛け声に応えるように、千鶴は差し伸べられた手に自分のそれを乗せた――。
「おい、不知火……あやつらが移動を始める。俺たちも行くぞ」
今、風間は薫と千鶴の尾行の途中。風間と千鶴が京にいる間は関わらないでおこうと一昨日に決意した不知火であったが、宿泊している部屋に風間がやって来て、無理矢理、外に連れ出されたのだ。
「おい、風間。いい加減にしてくれよ……」
「いや、あの薫の事だ。今でも千鶴に何をするか分からんからな」
「もう、あいつはしねぇって……」
今の薫は千鶴の事を妹として大切に思い始めている。それに、
「今日くらい兄妹の時間を与えてやれよ」
不知火は、薫と千鶴が離れていた時間を取り戻す為に二人きりで京の町中を過ごしているのを邪魔したくはなかった。しかし、近い将来、妻になる千鶴を過剰に心配をする風間は何を言っても聞こうとはしない。
「あやつ……次はどこに連れて行くつもりだ……」
と、路地裏に隠れながらの尾行を続けようとする。そのような風間の後ろを付いて歩く不知火は大きな欠伸を起こしながら、隣を歩きながら、薫に楽しそうに笑いかけている千鶴の横顔を見つめた。
西本願寺で初めて会った時よりも、千鶴は確実に美しくなっている。
千鶴の隣で堂々と歩く事のできる将来の夫になる風間、それに実兄である薫が羨ましい。不知火が千鶴の隣を歩いたとしたら、風間や薫から何を言われて、どのような制裁を加えられるか、想像しただけでも恐ろしい。しかし、一度でいいから隣を歩いてみたいと、細やかな望みを心の中で紡ぎながら、
「ああ、やってらんねぇ……」
と、前を忍びのように歩く風間に聞こえないような声音で呟いていた――。
その日の夜、不機嫌な風間は不知火を解放してくれず、不知火の泊まる宿ではなくて風間の宿の方に連れて行かれる。そして再び酒の相手をさせられていた。そのような時に千鶴が戻って来た。
「不知火さん、いらしてたんですか?」
襖を開けて不知火の顔を見た瞬間、千鶴の顔に綻びが作られる。それを見た不知火は、
俺にはいつもこんな微笑みをくれんだよなぁ――
と思いながら、少しの期待感を持たせるようなその笑みに向かって自分も太陽のような明るい笑みを返した。
「おう、邪魔してるぜ」
しかしこの後が大変だ。
風間が千鶴に詰問をする。それに対して千鶴が困ったような返答をしていた。助けてやりたいのにそれができない不知火は、ただ傍観をするのみ――。
もしも千鶴が俺の嫁さんになるって決まっていたら、俺はどうしていただろうかな――?
風間のように詰問の雨を降らせるだろうか?
それとも笑って、今日は何をしてたんだよ? というような言葉を掛けていたのだろうか?
やっぱ、俺は後者かな――
そう考えながら千鶴を見つめ続けている不知火の姿を風間は見逃さなかった。
こやつ――
風間が両目を細める。そしていきなり立ち上がると、不知火の襟首を掴んだ。
「な、何をするんだよっ!?」
いきなり手荒な事をされた不知火が風間に怒鳴りつけるが、風間はそれには何も答えずに、不知火を引き摺って、開けた襖の隙間から廊下へ放り出した。廊下の壁に身体をぶつけそうになった不知火だが、彼もやはり鬼。俊敏な動きで体勢を整えると、襖の部屋側で立っている風間を睨みつけた。
「おいっ! 朝っぱらからお前の尾行劇に付き合ってやったのに、何ちゅう扱いをすんだよっ!」
不知火の荒々しい問い掛けにも風間は答えずに、襖を隙間なく閉めてしまう。
「何だよ、あいつ……」
不知火はその場から立ち上がると、頭を激しく掻き上げながら自分の宿へと戻って行く為に、今いる宿の外に出た。
そう、この時の不知火はまだ気付かなかった。
不知火が千鶴に恋心を抱いている、いや、今ではいた事に近いがそうである事に風間は気付いてしまっていた事に――。
- 111 -
*前次#
ページ: