京滞在記:6



 京へ無事に到着をしてから六日が過ぎた。あと四日でこの京を経ち、西の里へ向かう事となる風間と千鶴。


 この京で過ごしている間、風間と千鶴が二人きりで一日を過ごしたのはたったの一度だけ。その他の日は八瀬の里で全員で過ごしたり、千姫や薫に千鶴を独占させられる日々が続いた。


 薫が二軒目の店に千鶴を連れて行った時、看板を見た風間は、生まれてこの方した事のない、唇を尖らす仕草を見せていた。


「千鶴に化粧など必要ないわ……」


 風間のその呟きをしっかり聞いていた不知火も、それは心の中で同意をしていたが、表面上は自分の気持ちを知られないような言葉を返す。


「別にいいじゃねぇか。薫としたら、将来の夫になるお前に飽きられないように、常に綺麗な恰好をしておけよっていう優しい兄心なんだよ」
「ふん、俺が千鶴に飽く訳がなかろう」


 北の寒い大地を覆い尽くす雪のように真っ白な肌。その中にほんのりとした桜の花弁のような色が品良く色づいている。そして蜜色の大きな瞳には常に一定の潤いが保たれており、ぷっくりとした唇はまるで紅牡丹のように鮮やかである。だから千鶴には化粧など必要はないと思う。


 薫は花嫁道具である箪笥の中には有り余る程の着物を納めたのだが、鏡台の引き出しには何も入れてはいなかった。花嫁道具の中には、暮らしぶりを反映させる為なのか、全ての引き出しに小物や着物などを納めるという決まりごとがある。不知火の想像ではあるが、紅だけは様々な種類の色があり、薫は千鶴の唇に似合う色を、実際に試してから購入をしたかったのだろうと考えた。


 風間の機嫌の悪さから、もしかするとあの化粧道具は破棄されるのではないかと不知火は思っていたのだが、花嫁道具は千姫の屋敷にある為に薫が持ち帰ったようで、昨夜の千鶴は少しの銭が入った小さな巾着だけしか持っていなかった。


「で、今日は誰とどこに行ったんだよ?」


 不知火は今、風間と千鶴が宿泊している宿にいる。いつものように酒を持って行くと、風間は朝っぱらから一人で宴会をしていた。


「千姫となのだが、行き先は言わずに行った」


 又もや機嫌が悪い。不知火は大きな溜め息を吐き出すと、酒の入った徳利を二本、風間と自分のほぼ真ん中に置いた。


「全部一人で飲むなよ」
「ふん、二本しか持って来ないお前が悪いのだ」
「お前なぁ……俺は毎日のように酒を持ってきてんだぜ? 少しは有難く思えよ」
「俺とて、この宿で酒を頼んでやっている」


 ああ言えばこう言ってくる風間に、不知火は呆れた表情を投げつけた後に、自分も手酌酒で酒を飲み始めた。そのような不知火を観察するように見つめる風間。


 昨夜に千鶴が宿に戻って来た時の不知火のあの表情は今まで見た事がないものだ。


 いや、見た事がある。一度だけだが――


 あの高杉晋作の妻を見ていた時の表情とほぼ同じだったな――


 不知火は高杉晋作という人間の男に興味を持った。と同時に、その男の妻に好意をも抱いたのだ。その時の表情と昨夜のそれが全く似ていると思い出した風間の心中にはもやっとした感情が起こっていた。しかし、この不知火の事だ。千鶴には手を出さないだろうと考えた風間は、その話をしない事に決めたのである。


 いつか、俺に不都合があった時にこの話を切り出してやろう――


 と、自己保守をする為の切り札として心の奥底に仕舞いこんだ。そして何を思ったか、いきなりその場から立ち上がり、酒を旨そうに飲んでいる不知火に声を掛ける。


「おい、俺たちも出かけるぞ」


 杯の縁に唇をつけながら風間を見上げた不知火の片眉がピクンと動いた。


「千鶴ばかりがこの京で楽しんでいるのが気に入らん。よって、俺たちも存分に楽しもうではないか」


 不知火はこの部屋で酒を飲んでいるだけでも満足である。いや、風間と出掛けるとろくな目に遭わない為に、この部屋にいる方がましだと考えていただけであった。


「どこに出かけんだよ?」


 まさか、また千鶴を探しに市中を歩き回るのかと思った不知火がげんなりとする。昨日とて、薫と千鶴の姿を探し出すのにどれだけの時間を費やしたか――。しかし、どうもそうではないようで、風間は異様な膨らみを見せる巾着袋を不知火の目の前でちらつかせた。


「角屋……懐かしい名だろう?」
「へえ、勿論、芸者も呼んでくれんだろうな? お前と二人きりの酒はここで十分だからよ」
「勿論、呼んでやる」


 風間の誘惑の言葉に、不知火はニイッと口角を吊り上げた――。




「角屋さんも久し振りだわ!」
「でしょ? あの時は新選組の男(ひと)たちもよく利用してくれていたからね。それに、島原騒動で千鶴ちゃんが芸者になったじゃない? あれ、すごく似合ってたわ」


 千姫と懐かしい会話をしながら角屋の中を歩き回る千鶴。まだ夕方前のせいか、客の数は少なかった。しかし、千姫の話によると、この島原の客足は少しずつ遠退いていっているらしかった。


 この島原は、室町時代に足利義満によって許可された公娼地であったが、何度かの移転を繰り返した末、現在のこの地に落ち着いたのである。しかし立地条件が悪かった事と、格式があまりにも高すぎたせいで、庶民でも気軽に訪れる事のできる祇園町の方に客が流れていってしまったのだ。


「幕末はかなり繁盛していたんだけど、今では閑古鳥が鳴く時もあるのよ」


 と千姫は言うが、あまり困っている様子ではない。それを不思議に思った千鶴が問いかけてみると、千姫は静かに笑ってこう答えた。


「私たち、八瀬の里の女たちは皆、この仕事から手を引こうと考えているのよ」


 日の本は新しい時代に入った。それを見届けた千姫は、鬼は鬼だけで静かに暮らそうと考えているのだそうだ。


「帝も江戸に向かわれるっていうし……私たちが彼らに助言をする事はもうないと思うの」


 千姫は京に在らせられる帝と懇意にしていた。八瀬の里の鬼たちも人間と深く関わっていたのだ。風間が薩摩の大名に庇護を受けていたように、千姫たちもまた、朝廷から庇護を受けていたのだ。しかし、その恩は既に返したと、千姫も風間と同じような言葉を静かに紡ぎ出していた。


「ねえ、千鶴ちゃん。久し振りに芸者の恰好をしてみない?」
「え……?」


 辛気臭い話はもう終わりだと言うように、千姫が違う話題に差し替える。それが千鶴に芸者の真似事をしてみないかという事であった。


「で、でもね……」


 あの時の事はよく覚えている。


 島原騒動の時、千鶴は土方に文を出した後に風間とこの角屋で出会ったのだ。最初はからかわれているとも知らずに、知っている限りの郭言葉を紡いでいたが、結局はばれてしまった。


 あの時から、風間はこう言っていた。


 我が妻に相応しい――
 
 と――。あの時は自分が風間と夫婦になるなんて考えてもいなかった。しかし今、風間の言った通りになった事に対して、千鶴は嬉しくも思い、その反対に、風間の思い通りになっている事に少しだけ腹立ちも覚えていた。


 この鬱憤をどう晴らそうか――


 そう考えた千鶴が千姫の方に顔を向けて笑った。


「久し振りに芸者の恰好をしてみるわ」


 千鶴の積極的な返事に千姫も笑う。


「してみるのね?」
「ええ、それでね……ちょっとお願いがあるんだけど……」
「何……?」
「芸者姿のままで宿に帰ってもいいかな?」


 宿に戻れば、不機嫌面をした風間が大量の酒を飲んでいるだろう。その中にあの時とはまた違った雰囲気の芸者姿をした千鶴を見れば、風間はどう感じるだろうか?


 千鶴が千姫と君菊に手伝ってもらって芸者姿に扮している間に、太陽は西の山の方へと静かに隠れ始めていた――。




「島原も閑散としてしまってんなぁ……」


 島原界隈を歩く不知火が、幕末の時とは違う雰囲気のその場所を見渡しながら残念そうな声音で言葉を吐きだす。


「格式の高い遊楽街ではあったのだがな……今では祇園の方が賑やかなのだそうだ」
「へえ、そんなら祇園の方に行けば良かったんじゃねぇの?」


 不知火は賑やかな事が大好きだ。だから、今の哀愁漂う島原よりも祇園の方が楽しいのではないかと風間に伝えたが、風間は島原の格式の高さが気に入っているのだと言う。


「本当にお前はボンだよなぁ」
「お前とてボンではないか」
「いや、お前とはまた違うって……」


 不知火家も鬼の中では格式高い血筋の出ではあるが、不知火自身はそれさえも気に入らずに、古老たちの制止も振り切って日の本中を闊歩している。不知火家から逃げていると言えばそうなるのだが、旅をしている時ほど自由を感じた事はない。見た目は異様に思う人間も中にはいるが、殆どが不知火の姿に気をも留めない者たちばかりであった。その反対に、風間の住む西の里の鬼たちは厳しかったのだろう。二人は幼い頃からの知り合いではあったが、風間が単身で不知火の里に訪れた事はなかった。常に古老の一人が付き添い、天霧が仕えるようになってからは、彼がいつも背後について回っていた。勿論、不知火にはそのような者はいない。だから、風間よりはかなり自由が利いたのである。


「お前は本当にボンだよ。金の払い方も知らなかったし、酒が飲める適齢期も知らなかったしな。それなのに、女の抱き方だけは詳しかったよなぁ?」


 不知火が男としての知識を古老たちから学んだ時、風間は既に実践を終えていた。


 不知火とて女に人気がなかったわけではない。しかし、抱く気にはならなかったのである。


「千鶴がお前の女遍歴を知ったら、どう言うかな……?」


 不知火が風間にそのような言葉を投げつけると、風間はボソッと呟いた。


「不知火……今日の島原遊びは千鶴には黙っておけよ……」
「え……? あ、ああ……そっか、分かった……」


 その言葉で、女の事で一度くらいは揉めたのだなという事が、不知火には理解できたのであった――。




「やっぱり、よく似合うわぁ!」


 千鶴の芸者姿を見た千姫が感嘆の吐息を放つ。幕末に千鶴のその姿を見た事がなかった薫もその場におり、芸者の恰好をした千鶴を見て口元を緩めた。


「どれだけ綺麗になったのかと思ったけど、俺の女装の方がもっと色気があったな」


 その言葉を聞いた千鶴の頬は引き攣るように上へと押し上げられていた――。


「どうする? 芸者でお客さまの前に出てみる?」


 客足は少なくなったとはいえ、角屋は歴史ある揚屋であり、まずまずの客入りをしている。客たちが訪れると同時に、揚屋から呼ばれた芸者たちもぞくぞくと姿を現していた。


「出てみようかな……」


 郭言葉なんて使えないが、当時の華やかな広間を思い出した千鶴は再びその雰囲気を味わいたいと思っていたその時、二人のいる部屋の襖が開き、慌て気味の君菊が姿を現した。


「どうしたの?」
「どうしたもあらしまへん。風間と不知火がここに来ておりますんえ」
「え、風間と不知火が? もしかして、千鶴ちゃんが芸者姿になるのをどこかで知ったのかしら?」


 千姫が薫の方に視線を投げつけると、薫は肩を竦めながら即答をした。


「俺は何も言ってないよ」


 すると君菊は、風間たちはここに千鶴がいる事を知ってはいないようだと千姫に伝えてきた。


「角屋の暖簾を潜るなり、芸者を六人ほど用意してくれって……」
「げ、芸者を六人も……?」


 千鶴の片眉が激しい歪みを見せる。


「もう、二人とも……顔が緩んでしまっていて……」


 浮気か――


 千鶴は美しく塗られた紅のついた唇を噛みしめる。東海道の最初の宿でも大揉めになった女関係の事を思い出した千鶴は、君菊に静かに問いかけた。


「君菊さん、千景さんたちはどの部屋にいらっしゃるんですか……?」


 普段は温和な千鶴の表情が夜叉のように変化をしたのに気づいた千姫と君菊は、女の恐ろしさを実感し、薫はそれをとても楽しそうに見つめて呟いた。


「波乱になりそうだねぇ……」




「よっしゃ! 今夜は飲むぞ!」
「いやぁ、不知火はんったら気前がよろしおすなぁ」
「金はこいつが払うのではない。俺が払うのだ。だから、俺に媚を売れ」
「風間はんはええ男どすな。うち、惚れてしまいそうやわぁ」
「そうであろう、そうであろう……」


 角屋の暖簾を潜った風間と不知火。その中でも奥座敷を用意されてそこで芸者を待つ事少し。二人が伝えたとおり、六人の芸者が機嫌よく姿を現した。


 芸者たちが風間と不知火に酒を注ぎ、身体を摺り寄せてくる。白粉の強い香りが鼻孔を突くが、それも久しく嗅いだ事がなかった為に新鮮に感じた。


「風間はんは、いい人がいるんでっしゃろなぁ」


 風間の隣を独占している芸者が艶めかしい視線を風間に投じる。その女の顔を見た風間は、


 やばい――


 と、一瞬考えた。


 好みの女であったのだ。それも風間の好み以上の女であった。その女にいい人がいると聞かれて素直にいると言えるだろうか? 風間の口からは嘘の言葉が吐き出された。


「いや、おらん……」


 それを聞いた不知火が、


「へっ……?」


 と、目を大きく開いてこちらを凝視してくる。そのような不知火の顔を睨みつけながら風間は再度、同じ言葉を放った。


「おらん……」


 黙っておれ―― 風間が不知火に心の中から言葉を投げかける。すると、不知火もこの場の席だけの会話だと納得をしたのか、風間から目を逸らして、自分の隣にいる芸者たちと楽しそうに話し始めていた。


「へえ、良かったどす……じゃあ、うちを贔屓にしてもらえへんやろか?」


 芸者の細い指が風間の袖の中にある腕を厭らしく撫でてくる。江戸での同棲、そして東海道と、身体には触れはしているものの、男女の行為を全くしていない風間は、男としての欲の我慢は限界に達していた。


 京に滞在する日はあと四日。それまでに一度でも男の欲を放出させておかなければ、あとの道中に差し障りが出てくる。そう考えた風間が女に向かって頷いた。


「ああ、贔屓にしてやろう……」


 風間のその言葉に女が嬉しそうに微笑む。


「ほんまどすか? 約束ですえ……」


 そして女は、風間の胸にそっと全身を委ねており、これでようやくすっきりすると考えていた風間が女の肩に手を乗せようとしたその時――


「千鶴ちゃん!」


 部屋の向こう側の廊下から千鶴と同名の女がいるようで、その女を誰かが叫んで追いかけているようだ。


「へえ、千鶴って名は珍しくないんだな……」



 と、その声を聞いていた不知火の顔面は襖の方に向かっている為に、勢いよく襖が開けられるのを、視界の中にしっかりと映しこんでいた。


「あ……」
「どうしたのだ?」


 この角屋は時代が変わっても煩い場所だと思いながら、襖の方に顔を向け、そこで固まった。


「ち、千景さん……」
「千鶴……ここで何をしているのだ?」
「何をしているのだと聞きたいのは私です! 何なんです、千景さんに寄り添ってるその女は!」


 千鶴が素早い動きで風間の前に歩み寄り、風間に抱きついている芸者の眉間に突くのではないかと思うくらいの距離の場所で人差し指を突きつける。それをされた芸者の口からは引き攣ったような悲鳴が小さく流れ出ていた――。




「風間、怒られてるんだろうなぁ……」
「口もきいてもらってないんじゃない……?」
「また何で、芸者遊びなんかを思いついたのですか?」
「千鶴ばかりが楽しそうにしてたから、あいつもたまにははっちゃけたいって思ったんじゃねぇの?」
「だからって、芸者遊びはないでしょ?」


 不知火の前には遠慮がちに置かれた銚子と杯。不知火はそれに手を付けようともせずに大きな溜め息を何度も繰り返している。それを目の前に座って眺めていた千姫と、部屋の隅の方で待機している君菊もまた大きな溜め息を吐き出していた。


「まさか、千鶴たちがここにいるなんて思いもしなかったんだよ」
「私たちだって、あんた達がここに来るなんて思ってもみなかったわよ」


 あの後、千鶴は嫉妬の感情が爆発をして、部屋中を滅茶苦茶にして角屋の暖簾を潜り出てしまい、その後を風間が追いかけて行った。そして、そのまま、二人がどうなったのか、不知火や千姫たちは知る由もなかった。


 ただ、不知火たちが一つだけ知った事がある。


 風間の嫉妬深さも面倒だと思った事がある。そのような風間に愛されている千鶴が不憫だと思った事もあった。


「あの二人、どっこいどっこいだよな……」
「って、いうか……ちょっとだけだけど、風間が可哀そうに思えてきたかも……」
「ああ、それは言える……」


 不知火と千姫が知ってしまった事――



 それは、千鶴が風間以上に嫉妬深い女であったという事であった――。


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