京滞在記:8



 酒を浴びる程に飲んでいて良かったと今、不知火は思った。
 千鶴がいるであろう宿の前に立った不知火は大きく深呼吸を起こす。そしてゆっくりと宿の暖簾を掻い潜って行った――。




 先ほど、自信ありげに言葉を放った風間ではあったが、心の中は気が気でなく、苛立ちを膨らませ続けながら酒を煽っていた。
 あの時の不知火の瞳の色に冗談めいたものがなかった。
 あの男は本気だ――
「千鶴は俺の妻になる女だぞ……」
 自分から千鶴を奪えるならやってみるがいいと伝えたのは風間だ。
 あの時に何故、あのような言葉を吐き出してしまったのだろうと、今更ながらに悔んでしまう。
「不知火のあの目は本気だったな……」
 互いに大量の酒を身体の中に流し込んでいて、今朝などは二日酔いのように頭痛がすると言って機嫌が悪かったというのに、千鶴の事で軽い言い合いをしている間に、不知火の表情からはそれがなくなっていた。そして今、不知火は千鶴の所へ行ってしまった。
 千鶴を自分のものにする為に――
 風間が再び酒を一飲みする。そして空になった杯を見つめた。美しく磨かれている杯には、ぼんやりとだが自分の顔が映っている。その表面からはどのような顔をしているのかはっきりとは読み取れない。しかしきっと、自分は情けない顔をしているのだと風間は思って苦笑を漏らした。
 鬼としての自尊心から、大切な者を奪われそうになっている。そして、やっと手に入れられる幸せがこの杯を持っている手、そしてもう片方の手の指間から水のように流れ落ちようとしていた。
「俺は……」
 風間は杯を持っていた指の力を弱めた。すると、何にも支えられなくなった杯が手の中から解放されて床の上に音を立てながら落ちて、部屋の隙間の方に転がっていく。それを一部始終見ていた風間は、その杯の今の姿がまるで自分のように思えた。
「誰にも頼らずに一人で生きてきたと思っていたが、天霧に支えられ、今では千鶴に支えられている……」
 初めて愛したい、愛されたいと感じた相手が千鶴だった。それなのに――
「おのれ、不知火め……横恋慕などしおって……」
 風間がその場から立ち上がり、部屋の隅に転がった杯を蹴とばした。それは壁に当たって見事、真っ二つに割れる。
「あやつもこの杯のように、身体を真っ二つに叩き斬ってやる」
 そして荒々しい足音を鳴らしながら部屋を出て行ったのであった――。




 部屋の中で何度目になるかも分からない溜め息を放つ千鶴。
 千姫と男の愚痴を言い合うつもりだったのだが、八瀬の里で用事があると君菊に言われた千姫は渋々と帰って行ってしまった。恐らく、女同士の話が長くなるからだろうと考えた君菊の咄嗟の行動だったのだとは思うのだが正直な話、千姫の帰宅は千鶴にとっても少し安堵していたところであった。
 愚痴を言い続けていても何の解決策も見出さない。それに千鶴は、風間とゆっくり話をしたかったのである。
 風間が芸者とあのような雰囲気になったのには自分にも責任がある。そう考えた千鶴は、江戸を発つ前にした、祝言を挙げるまでは抱かないという約束事についてもう一度考えるべきだと思っていた。しかし、千鶴が前向きになろうとしている時に限ってあの男が帰って来ない。
 風間がこの宿を出た後にどこに行ったかも分からない千鶴には探す当てもなく、ただ、この宿の中の一室で、風間の帰りをぼんやりと待ち続けるしかできなかった。
「お千ちゃんに千景さんがどこにいるのか調べてもらえば良かった」
 千鶴がそう考えていると、襖の向こう側から不知火の声が聞こえてきた。
「おい、千鶴……いるのか?」
 不知火なら風間の居場所を知っているかもしれないと思った千鶴は即座に返事をした。
「はい、いますよ! 今開けますから待って下さいね」
 千鶴が襖を開くと、そこには少しだけ頬をほんのり桜色にさせている不知火の姿がある。それに――
「不知火さん、もしかして……お酒、飲まれてます?」
 不知火の全身からは酒の香りが漂っている。口には出せないが、言っても良いのならば千鶴はこう言いたかった。
 酒臭いから、やだ――
 と―― しかし、酒を浴びる程飲んでも酔わないと聞いていた不知火がこのような状況にあるとはと、千鶴は何かがあったのだなと、ここは女の勘を敏感に働かせる。
 匂いは気になれど、尋常でない不知火を追い返すわけにもいかないと、千鶴は、目の前で突っ立っている不知火を部屋に招き入れたのであった。




 お茶の良い香りがする――
 不知火がそう思って目の前を見ると、そこには熱い茶の入った湯呑が置かれていた。
「あれ……?」
 自分はどうやってここまで来たのか理解できない不知火に、千鶴が優しく声を掛けた。
「お酒ばかり飲んでいたみたいですね。これでも飲んで、少しでも酔いを醒まして下さいな」
 ああ、酒の勢いでここまで来ちまったか――
 と、不知火は自分の中で後悔をしながら、千鶴が淹れてくれた熱い茶の入った湯呑を手に取った。それの縁にゆっくりと唇を当てて飲む。その熱い茶の液体は不知火の酒の香りで充満している口内を洗い流し、酒精で荒れているであろう五臓六腑が殺菌されたような感覚を生じた。
「お前の淹れる茶は美味いな」
 と、不知火が茶の味を褒めると、千鶴が嬉しそうに微笑んだ。
「私が淹れるお茶は、新選組の皆さんも褒めて下さったんですよ」
「へえ……」
 千鶴の口から新選組の名が出た時、不知火はあの花見の時の事を思い出した。
 原田が酔っぱらって切腹痕を皆に自慢をしていたっけな――
 不知火は、大阪の港から大陸に渡った原田は今、何をしているのだろうと考える。すると、千鶴も不知火と同じ男の事を考えていたのか、
「原田さん、あちらでも元気にしているでしょうか……」
 と、不意にそのような言葉を不知火に投げかけてきた。
「あいつの事だからな、あっちの人間たちと賑やかに過ごしているだろうさ」
 大陸を馬で駆ける原田の姿を想像する。新選組からも、新政府軍からも逃れる事ができた原田は自由奔放に生きるだろう。
 不知火が空になった湯呑を置くと、千鶴が代わりの茶を再び注いでくれる。そこから立ち上る湯気を見つめながら、不知火は千鶴に問いかけた。
「なあ、あの花見の時に俺が言った事を、お前は覚えているか?」
 それを聞いた千鶴が柔らかな笑みを浮かべる。
「覚えていますよ……だって、私に愛の告白みたいな事を言ってくれたのは不知火さんが初めてなんですから……」
「へ……?」
 不知火がキョトンとする中、千鶴は柔らかな笑みを浮かべたままで言葉を紡ぐ。
「あの時の千景さんは、我が妻に相応しいやら、お前は俺の子を産むための何やらかんやらって、そんな言葉ばかりで……今でも愛しているなんて一言も言ってくれてないんですよ。でも、不知火さんは真っ直ぐに私を見つめてくれて、あんな優しい言葉を掛けてくれて嬉しかったんです」
 いっそ、不知火さんのところに行こうかと思ったくらいに――
 千鶴は最後にそう付け加えると、自分用に淹れた茶を啜った。
「じゃあ、今でも遅くねぇから、俺のところに来るか?」
 不知火が自分の素直な思いを伝えると、千鶴は驚きの表情を露わにさせた。
「あ、あれって、私が雪村家の女鬼だから言った言葉じゃなかったんですか?」
 それに今、茶を飲んでさっぱりしたとはいえ、不知火の身体にはまだ酒精が残っている。だから酔いのせいかとも千鶴は思った。が、それは違うようで、目の前の不知火の顔は至極真面目であった。
「風間が嫌なら俺のところへ来ればいいじゃねぇか……」
 不知火の顔を見続けているうちに、千鶴の顔が真っ赤に染め上がった。
 千景さんとあのような事があった後に、心揺れるような言葉を与えてくる不知火さんは卑怯だ――
 しかしこの時、この不知火と人生を共に過ごす女はきっと幸せになるのだろうと、千鶴は確信を持てた。
 風間のように押し付けがましくなく、自分が思った事を素直に伝えてくれる不知火が千鶴の瞳の中で男らしく映った。だから、一瞬だけ千鶴の心の中はその優しさに甘えたくなって傾きを起こした。しかし、頭は左右に静かに振られ、口元からは傾いた気持ちとは裏腹の内容の言葉が放たれた。
「不知火さんのお気持ちは嬉しいですけど……でも私は、やっぱり千景さんが好きなんです……」
 頭の中で自分の隣に不知火が立っている光景を想像してみたが、その隣には不知火の姿はなく、風間ばかりが映し出された。それ程に風間の事を愛しているのだと感じた千鶴は、不知火に丁寧な断りの言葉を手向けたのである。しかし不知火は笑ってくれた。
「やっぱ、そうじゃねぇかと思ったよ……」
 と言って――。
「ごめんなさい……」
 千鶴が不知火に謝罪の言葉を伝えていた時、襖が荒々しく開いて風間が姿を現した。
「やはり不知火……ここに来ておったか……」
 風間の姿を見た不知火が、呆れたような表情を浮かべて言葉を返す。
「やっと、来たな……って、俺はここに来るって言ってたじゃねぇかよ!」
「お前、千鶴に言ったのか?」
「へっ、何を言ったって……? そんなもん、てめぇには関係ねぇだろ」
 ここで千鶴は首を傾げる。
 あれ? もしかして不知火さんは、千景さんをここへ来させる為に――?
 さっきの愛の告白ってもしかして冗談だったの?
 それとも――?
 と深く考え込み始めた千鶴の周りで二人が追いかけっこを始める。
「我が妻になると決まっている女を誘惑するとは……斬り倒してやるっ!」
「へっ、刀を持ってもいねぇくせに、どうやって斬るんだよ!」
「刀ならここにある」
 風間が部屋の隅に置いてあった荷物の中から箱を取り出すと、手早くその蓋を開けて刀を取り出した。それを見た不知火が頬を引き攣らせる。
「おいおい……それって村正じゃねぇか……」
 不知火が、やばいやばいと叫びながら走り回り、その後ろを刀を振り回しながら追いかける風間は、部屋の中央に座っている千鶴を上手く避けていた。
「不知火さんの言っていた事は本当なの? それともからかわれたの……?」
 男二人が狭い部屋の中で走り回っている中で千鶴は注意する事もなく、更に考え込む。
 この部屋は二階であり、下の階の者たちがその振動に驚いたのは言うまでもなく――
「姫さま……風間たちはいつまでこの宿に泊まるのですか?」
 丁度、その時に千鶴と再び会話をしようと思ってやって来た千姫に、宿の主が困惑気味で問い掛ける。それに対して千姫は、騒動が起きている部屋を睨みながらこう伝えるのであった。

「あと二日くらいで京を出立すると思うから、もう少しだけ我慢してちょうだい。あの男たちには何を言っても無駄なのよ……」 


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