京滞在記:9
「お前が余計な事をするから、こうなったのだ」
「何で全部、俺のせいにするかね?」
今、風間と不知火は無愛想な顔で京の町をぶらぶら歩いている。
不知火が千鶴を奪うなどと言い出して不安になった風間が千鶴の元に戻り、その部屋に不知火がいる事で怒りを燃やした風間が刀を振り回して追いかけ始めたのである。勿論、挑発した不知火も悪かったのだが、二人の追いかけっこは部屋だけに留まらなかった為に、他の宿泊客を怖がらせ、宿主に泣きつかれた千姫が怒涛の叫びを二人に浴びせてきたのだ。
「二人ともっ! 出て行けぇぇっ!」
それで今、二人はこうして京の町中を歩いているのであった。
「俺……千鶴の手鏡を壊しちまったんだよな……」
不知火が歩みを止めて、自分の片足裏を顔の方に向けながら呟く。その背後では風間が大きな溜め息を吐き出していた。
「手鏡などすぐに手に入れる事ができるではないか…… それにあの手鏡は新選組の隊士の一人からもらった物のようだから別に壊れても構わん。それよりも俺だ! 千姫に、あの村正を取り上げられてしまったのだぞ」
「そりゃ、刀を持つ時代じゃなくなったってぇのに、あんなもんを振り回すからだろが」
「ああ、気分が悪い。酒でも飲むか」
「おいおい、昨夜からかなり飲んでるだろうがよ」
風間が酒屋の中に入ろうとするのを押し留める不知火は、
そうか、あれは新選組の誰かからもらった物だったのか――
悪い事をしちまったな――
と心の中で真面目に反省していた。
あの部屋の中で風間に追いかけられていた不知火が手鏡を踏んで壊してしまった時、千鶴が慌ててそれを手に取った後に悲しそうに呟いていた。
「ああ……思い出の品だったのに……」
すぐに謝罪をしようと思った不知火ではあったが、千姫に怒鳴られて、これはヤバいと、それをする暇もなく宿を飛び出して来たのである。
「どんな模様だったっけな……」
不知火が鏡を売っている店で立ち止まる。そして、数多ある色鮮やかな鏡を一つずつ手に取り始めていた。それを見ていた風間が、
「千鶴に媚でも売るつもりか? それとも、お前の方に気を向かせるつもりなのか?」
などと嫉妬めいた言葉を投げつけてくる。
確かに酒の勢いであんな事を言った俺も悪いが、そろそろいい加減に俺への八つ当たりみたいなんは止めてくれねぇかなぁ――
と、嘆息を吐き出しながら鏡を物色し続けていた――。
「よっしゃ、これにすっか!」
どの鏡が壊したそれと似通っているか迷った挙句に手に取った不知火。その手の中の鏡の模様は、千鶴の性格をよく知り得ているような花模様であった。
「山茶花か…… あの手鏡の花模様は桜であったぞ」
不知火の背後から覗き見る風間。確か、山茶花には【困難に打ち勝つ】【ひたむきさ】などという意味合いの言葉がある。
「桜だったんか…… まあ、でもよ、あいつは今まで色々な困難に立ち向かってきただろ? それに、忍耐強かったりもしてさ…… だから、この花が似合うと思うんだよな。それに風間、お前には勿体ないくらいの女鬼を手に入れたんだからな…… 大事にしろよ」
不知火は背後の風間にそう伝えると、店の主に代金を支払って、それを風間の手の中に押し込んだ。そして、片手をひらひらと揺り動かすと、風間の傍から立ち去って行く。
「じゃあな……千鶴にちゃんと謝って仲良くしろよ」
短い挨拶言葉だけを残して――
その背中が寂しいと感じたのは、不知火の心の中を知っている風間だけ――
「ふん、大事にしろだと? それくらい重々に承知しておるわ」
風間は大きく鼻を鳴らした後、鏡を売っている店の主に、自分が選んだそれを渡した。
「おい、これを買う……幾らだ?」
そして、もう一つの手鏡を購入した風間は、先ほど不知火が手渡してきたそれを自分の袂に隠すようにして仕舞いこんだのであった――。
壊れた鏡を見つめる千鶴が大きな溜め息を吐き出した。
「これ……土方さんに頂いたものだったんだけどなぁ……」
その鏡は、男ばかりの恰好をさせてばかりですまないと謝罪の言葉と共に手渡されたものであった。思い出が一つずつ、少しずつ千鶴の中から消え去っていく。恐らく、新しい道を歩む為の試練なのだろうと考えた千鶴は、その手鏡を小さな手拭いの中に仕舞いこんだ。
「こんな事でくよくよしていても仕方がないし…… 私の取り柄といったら、すぐに立ち直る事だしね」
と、自分に元気づけていると、背後の襖が開いて風間が姿を現した。
「千景さん……」
喧嘩をした昨夜から一度も会話をしていない。それに、風間の姿を確認した瞬間に、千鶴の胸の鼓動が激しく打ち始める。
そうだ、約束の事について話し合わないと――
千鶴が風間に声を掛けようとした時、
「やる……」
と、風間が千鶴に何かを手渡してきた。手の中に乗せられているのは小さな紙の包みである。軽いものらしいが、紙の上から指で押すと硬いものであった。だから、千鶴はこれだけは確信を持てた。
食べ物じゃない――
こちらを見下ろしている風間を見上げる千鶴が唇を揺らす。
「何ですか、これ……」
その中身については開けるまで言わないつもりの風間は、千鶴から視線を逸らして窓の方に向かって足を進めていた。
「開ければ分かる……」
千鶴の問い掛けに手短く答えた風間は、窓の欄干に腰を下ろして街並みを見下ろしている。今日はもう、この宿を出て行く事はないようだと安堵した千鶴は、手の中にある包みをゆっくりと開いた。
「あ……」
そこからは、錨草(いかりそう)の花の模様が彫られた手鏡が姿を現した。それを見た途端、昨夜から風間と喧嘩をしていた事さえも忘れてしまいそうになるくらいに嬉しくなった千鶴は、
「あ、あの…… 有難うございます……」
欄干に腰を下ろしている風間の傍まで歩み寄って礼の言葉を紡ぐと、いきなり風間の片腕が千鶴の腰を捉えて抱き寄せてきた。
「千景さん……?」
抱き寄せられて、向かい合わせになるように風間の膝の上に座った千鶴が風間の名を静かに呼ぶ。この手鏡の花の模様は風間が選んでくれたのだ。しかし、以前に千鶴が持っていたそれは桜の模様が彫られていた。それなのに何故、錨草なのだろう? それを疑問に思っている千鶴の心の中を風間は読み取ったようだ。柔らかな笑みを浮かべながら、
「その錨草を象徴とした言葉を知っているか?」
と聞いてきた為に、
「いいえ、知りません。一体どのような意味合いの言葉がつけられているのですか?」
千鶴が尋ねると、風間の口元からは驚くような発言が飛び出していた。
「それの象徴とした言葉はな……」
千鶴の腰に絡まる風間の片腕に力がこもる。そして、自分の唇を千鶴のそれに近寄せた。
「お前を捕らえる、お前をつかまえる」
その風間の言葉に千鶴が恥ずかしそうに笑んだ。
「もう、千景さんに捕えられているし、つかまってるじゃありませんか」
自由になっている風間のもう片方の手が、千鶴の後頭部に添えられる。そして、風間の唇が千鶴のそれを塞ぎ、暫くは濃厚な口付けが続いた。
ようやくそれが一時だけ止んだ後に、風間は千鶴の耳元で小さな声音で囁いた。
「この錨草を象徴とする言葉はもう一つある……」
「もう一つ…… それは何ですか?」
暫くの間、千鶴の耳元に擽りが続いた。それが終わりを告げるにつれて、千鶴の顔全体に綻びが作り上げられた。それは【愛する】という言葉と同じくらいに重くて、胸が飛び跳ねるようなもの――。
お前を離さない――
風間のその囁きを内耳に流し込んだ千鶴は自ずから風間の唇に自分のそれを重ね合わせる。
ただの口づけだけの行為ではあったが、二人の熱く燃え上がる時間はその時から夕食の前までずっと、町中のざわめきが微かに聞こえる欄干の上で行われていたのであった――。
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