京滞在記:10【京滞在記:完結】
口付けだけではあったが甘い夜を過ごした二人は、京滞在最後の清々しい朝を迎えた。はずだったのだが――
不機嫌な顔で睨み付ける風間の目の前で、千姫が嬉々揚々と喋り立てる。この京に滞在している間、千鶴とは二人きりになれる時間が少なかった為に、今日こそはのんびりと―― 風間はそう思っていたのだが、翌日の早朝にはこの京を出立する風間と千鶴に暫しの別れの挨拶をしに朝から千姫と薫が宿を訪れたのだが、何故か風間への説教から始まり、今では談笑の時間に変わっていた。
「千鶴ちゃんの嫁入り道具も送ったし、義姉としては安心したわぁ!」
「まだ祝言も挙げておらんのに何が義姉だ」
「あら、もうすぐなるわよ」
「ふん、薫がお前を嫁にするなどと口にしているのを聞いた事がないわ」
口うるさい説教の上に千姫の独擅場となるのが許せないのか、風間は千姫の言葉の合間合間に嫌味の言葉を放つと、薫が皆を驚かせるような言葉を部屋の中へ響かせた。
「風間、これからは義兄弟になるんだね……」
その言葉に皆の視線が一斉に薫の方へと注がれる。その中でも一番に驚いているのは風間であり、いつもならばやられっぱなしの薫にとって、かなり気分が良くなった。そしてもう一人―― 目に涙を浮かべて驚いている千姫が、隣に座る千鶴の肩を激しく揺さぶる。
「ね、ねえ…… 千鶴ちゃんも今、薫が言った言葉を聞いたわよね? ちゃんと聞いていたわよねっ! 何を言ったかしっかりと覚えてくれてるわよねっ!」
「き、聞いていたから…… お千ちゃん…… お願い、肩を揺らすのはもう止めて……」
千鶴の視界に映る光景が回転を繰り返す中、千姫はその仕草をなかなか止めようとはしてくれず、最後には君菊に叱られながら制止されていた。
「俺と千姫が夫婦になったら、義兄さまと呼んでくれて構わないんだよ」
薫が風間に向かって口端を吊り上げると、それを見た風間が口元を歪めて即答をした。
「年下のお前を義兄とは、口が裂けても一生言わん」
昨日の昼まで風間と酒を飲み、その後はこの部屋で風間と追いかけっこを始めた為に追い出されたままの不知火は長州の家へ戻ったらしい。不知火にも祝言話が持ち上がっていたそうなのだが、まだ伴侶を持つつもりはない、それに面倒臭いと言ってなかなか故郷に近寄らなかった。しかしとうとう故郷から古老たちがやって来て、風間と別れた後に八瀬の里に立ち寄っていた不知火を無理矢理に連れ帰ってしまったらしい。
「あやつは遊び回ってばかりだからな。古老たちも痺れを切らしたのだろう」
自業自得だと偉そうに言いながらも少々退屈そうなのは気のせいなのだろうか? 風間は酒を飲む相手はやはり不知火の方がいいらしい。薫の顔を見ながら、
「飲む気がせん……」
そう言って、手に持っていた杯を遠くに押しやっていた。
「でもさ、あとは不知火と天霧だけなのよねぇ」
不知火家の古老たちに、里に帰る事を拒んでいた不知火の姿を思い出した千姫が深いため息を吐き出す。すると、風間が君菊の方に指を差して、
「天霧の嫁は決まっておる」
と言い出した為に、千姫がその言葉に食い掛かった。
「ちょっとぉ! 勝手に決めないでくれるかしら? 君菊はね、私にとっては大切な……」
「いなくては何もできずに困るから天霧の嫁になど行かせんとは、お前も厄介な主に仕えてしまったものだな」
くっと喉奥を鳴らす笑み声を放った風間が君菊の顔を見ると、天霧の嫁になる事には異存がないような雰囲気を醸し出している。それに満足をした風間が君菊に問うた。
「お前はどうしたいのだ?」
風間の問い掛けに君菊が顔を上げる。美しく大人の香りを放つ君菊の頬には、ある種の恥じらいの色が浮かび上がっていた。
「わ、私は…… 姫さまをお守りする立場にございますから……」
やはり以前と同じで、言葉を選びながら曖昧な返事ばかりをする。しかし、君菊の顔には、天霧の嫁になりたいと言わんばかりに描かれてあった。そのような君菊を見つめていた千姫が不安を露わにした悲しそうな笑みを浮かべた。
「確かに、君菊を私の傍で縛り続けるのもどうかとは考えているわ。でも……」
もう少しだけ傍にいて欲しいの――
小さくそう呟いた千姫の姿がとても頼りげない。君菊は優しい笑みを浮かべながら、千姫の前で軽く頭を下げた。
「勿論、姫さまが要らないとおっしゃる時までこの君菊、お傍で仕えさせて頂きますわ」
君菊の家系は代々、八瀬の姫の護衛を任されている。君菊は今、天霧と文のやり取りをする仲ではあるが、もしも夫婦になったとしても常に寄り添え合える場所にはいる事ができない事を考えていた。それに相手はあの天霧。風間とは違って物分かりのいい男である。君菊が無理を言っても、それについてしっかりと説明をすれば納得をしてくれるはず。
「風間……」
君菊が風間に声を掛けた。
「私にはまだやるべき事がございます。だから、そのお話はまたの時に……」
「ふん、そう言うと思ったわ。天霧もそのような事を俺に伝えてきたからな」
風間が了解したとでも言うように片掌を君菊に上げて見せると、君菊はそれに向かって深く頭を下げた。それを号令とでもするかのように、
「じゃあ、俺たちは失礼するよ」
薫と千姫が急に立ち上がると、お茶を淹れ直していた千鶴が驚いて、立ち上がった二人を見上げた。
「もう帰るの?」
「ええ、今日は京での最後の日でしょ? それなのに朝から私たちがここにお邪魔していたから風間はかなり苛々しているのよ。それに、今日はその捻くれ者を相手する不知火もいないし、薫だったら二人で嫌味ばかりの会話になりそうだしね。私たちは退散するわ。あ、それとこれ、不知火から千鶴ちゃんにって預かってたのよ」
千姫はそう言うと、千鶴に不知火からの文を手渡した後、薫の背中を押して部屋を出て行こうとした。すると、背中を押されていた薫が千鶴の方に振り向いた。
「千鶴、俺はいつでもお前を苛めに薩摩に行くからね。楽しみに待っててよ」
いえいえ、苛めに来るなら来ないで下さい――
千鶴は心の中でそう呟きながら、表面上は引き攣り笑顔で一応一般の挨拶をする。
「また、遊びに来て下さいね」
そのような千鶴の後ろに立っていた風間は眉を顰めながら、さっさと出て行けと言うように、
「二度と顔を見せるな」
そう言ってフンッと鼻を鳴らしていた。
二人がいなくなった後、風間が出掛けるぞと言って立ち上がる。
「どこへ行くんですか?」
と千鶴が問い掛けても黙ったままだ。だから仕方なく、千鶴は出かける用意を始め、風間と共に宿を出たのであった。
「あ、ここのお団子はとても美味しかったですよ! それと、あそこのお餅も柔らかくって……!」
京の町中を歩きながら千鶴があちこちの店を指差しながら風間に説明をする。その店の全てが甘味関係であった。
「お前と千姫は食い物の店しか行っておらんのか?」
「ええ、殆どがそうです。私が京に来るまでに色々と調べてくれてたみたいで、新選組にいた時によく買いに行った【いわとや】もあって嬉しかったんですよ!」
女という生き物は食べ物―― 特に甘い物には目がないのだろうか? 千姫と千鶴の会話の中には食べ物の話でよく盛り上がっていたのを思い出した風間が呆れ果てるような表情を作り上げたが、何も言わずに前を向いて歩き続けた。
黙ったままの風間は京の町の中心部から離れた場所へと歩いて行く。目的地を知らされずに不安になった千鶴は、風間の袖を引っ張りながら質問をした。
「どこへ行くんですか?」
「行けばお前も分かる……」
風間はそう言うと再び黙ったまま歩き続けて行く。景色がどんどん変わる中、千鶴は、周りに広がっている光景を徐々に思い出し始めていた。
ここは――
千鶴が新選組と逸れた後に淀城に向かう途中の山道だった。そして、目の前には千鶴が襲われそうになった場所がある。千鶴はここで風間に助けられたのだ。
「これから行くのは、俺とお前の運命が決まった場所だ」
風間はそう言うと、再び山道を登り始める。
行き先はもう分かった――
千鶴も黙って風間の袖を掴んだまま共に登って行った。
辿り着いた所は【鳥羽・伏見の戦い】の時に、紅蓮の森と化した京の町を見下ろした高台であった。
今、その場所から見る京の町は活気に溢れ、穏やかな時が流れている。縦横に広がる盆地に美しい町並みがまるで錦絵のように千鶴の瞳に焼き付いた。
あの時も今も千鶴の隣には風間がいる。あの時の風間は千鶴にとって恐ろしい存在でしかなかった。しかし、今は愛しい存在として千鶴の隣に立っている。
心の変化というものは何と不思議なものだろう。今の千鶴であれば、あの時の京の町を見下ろしたとして、悲しいとは思っても不安な気持ちは一切起こさないであろう。
「懐かしいですね。この高台に登る途中で千景さんに助けられて、世情の実態をここで見せ付けられました」
「あの時のお前は何を言っても聞かんかったからな。真実を見せねば無理だと思ったのだ。全く、今もだが強情な女だ」
何故か風間の言葉にも腹が立たない。千鶴はクスクスと笑いながら風間に弁解のような言葉を放った。
「あの時の私は本当に子供でしたもの。世情がどうなっているのか……私の頭の中は新選組の皆さんの無事だけでしたから……」
そう言いながら千鶴は遠くを見つめながら、
このままどうか平穏な日々を送れますように――
あのような惨劇は二度と起こらないように――
そう願っていた時、千鶴の肩に風間の片手が触れた。
「どうしたんですか?」
千鶴が風間に顔を向けると、風間の片手は肩から千鶴の色艶のいい頬に移動をした。
「いや、あの時と比べて表情が穏やかになったと思っただけだ。時というものは国も鬼も人間も変えていくのだなと感じたのだ」
風間の言葉に千鶴がふんわりと笑う。
ああ、この笑みがある限り自分は幸せになれるのだ――
風間がそう感じた時には千鶴を強く抱き締めていた。
「千景さん……?」
新選組という壁がなくなった今、千鶴は自分のものになった。愛しい存在がこの腕の中にいる。風間は千鶴の頬に両手を添えると、そのまま唇を重ねた。そして風間が唇を離そうとした瞬間、千鶴の両腕によって首を固定され、再び濃厚な口付けが繰り返されたのであった――。
夕日が西の山の背後に沈みかけている。その時でもまだ、二人は高台の場所で寄り添っていた。
「あの、千景さん……」
千鶴が夕日から視線を逸らして、風間の顔を見つめてくる。
「何だ?」
静かで短い返事をした風間の耳元で千鶴が囁いた。その時の風間は今までに浮かべた事もなかった幸福な笑みを浮かべる。しかし、千鶴に向かって首を左右にゆっくりと振った後に言葉を紡いだ。
「あれは約束だからな。だから、祝言を挙げるまではせん」
「でも…… また浮気をされちゃ困ります」
千鶴が一昨日の光景を思い出しながら口を尖らせると、風間がその唇に親指を当ててなぞった。
「お前は俺に浮気をされたくなくて抱いて欲しいのか?」
「ち、違います! でも……」
感情を持つ生き物とは、肉体的な接触がないとやはり不安が生じるものであるらしい。何度も千鶴と男女の行為をしたいとも思った。いっそ、約束を破ってしまい、やってしまおうかとも考えた時もあった。しかし、その約束が風間の暴走しようとするのを止めてくれ、鬼が最も重んじる格式を思い起こさせてくれた。
夕日が沈みゆくにつれて、二人の寄り添っている高台には冷ややかな風が吹き始めた。
「そろそろ、宿に戻るとするか」
「そうですね……」
風間と千鶴の運命の道は、今ここにいる高台から始まった。二人は高台から元来た道に足を進めながら、何度も背後を振り返っていた――。
共に一つの布団に入り込んでいる二人の口付けの音が部屋中に響き渡る。喜びによる興奮を感じるかのように激しく、それでいて甘い。唇を、そして口内を貪るように食い尽くしてくる風間を千鶴は素直に受け入れていた。
この道中で幾度も口付けを交わしたが、今宵のような意味のある口付けは今まで感じた事がない。
あの高台で千鶴が囁いた言葉。今は実現する事がないが、風間の中にある欲心を一瞬にして満たし切っていた。
今宵、抱いて欲しい――
二人の運命は全てがこの京から始まった。風間と千鶴は明日から西の里に向かい、そしてその場所でこれからの人生の道を共に歩んで行く。鳥羽・伏見の戦の時のように、この場所こそが二人にとっての出発地点である。
風間の唇が千鶴の口元から離れて耳朶に甘噛みを始める。歯を立てるが優しく遠慮がちに―― そして時折流れてくる風間の温かい吐息が千鶴の神経を揺さぶった。そのような唇が首筋に滑り出して舐め回していくと、千鶴の美しい喘ぎの旋律が流れ出した。
所々に吸い付いていった後には、これからこの日の本中をその色に染め尽くすだろう。見事な桜色の花弁のような痕が可憐に舞い踊っている。その花弁が首筋を散らし、少しずつ肌蹴させていった胸元に舞い降りていく。千鶴という大木に春の色が鮮やかに咲き乱れていった。
最初は鬼の血筋を絶やさない為に千鶴を自分のものにしようと考えていた。そしてより強い鬼の子孫を残す為に千鶴をあの新選組の元から浚おうとも考えていた。しかしいつからだろう?
風間は自分に問うた。
俺は未だ、千鶴に純血を求め続けているのだろうか?
いや、今考えてみると、千鶴が純血でなくとも良かったのだ。恐らく風間は千鶴が純血の鬼であろうとなかろうと千鶴自身を愛していたのだろう。
愛がなければ、風間は千鶴の身体をすぐに抱いていたはず。しかしそれがあったからこそ、今でも約束を守ろうとする自分がここにいる。風間は口付けの雨を千鶴の身体に降らせた後、その身体を強く抱き締めて深い眠りに就いた――。
「あ……そういえば……」
風間と共に眠りに就いていた千鶴が重い瞼を擦りながら押し上げた。隣の風間に視線を向けると、深い眠りに入っているのか起きる気配はない。
「不知火さんから文を頂いていたんだった」
千鶴は布団から静かに抜け出すと、不知火の文を手に取り、障子窓に差し込む月明かりを頼りに読み始めた。
その文にはこう書かれていた。
手鏡を割ってしまった事の詫び、それに風間と仲良くするようにとの内容が最初に。そして、同じものではないが、手鏡を買って風間に渡してもらえるように頼んだ事であった。そして追伸には――
喧嘩をしたら不知火の里に逃げて来るようにと、不知火の里の情景を思い起こさせるような内容の文面が綴られていた。
「え、手鏡……?」
不知火が買った手鏡は山茶花の模様が彫られていると書かれている。その花の象徴の言葉もまた書き添えられていた。
「さ、山茶花…… 千景さんが私にくれたのは錨草だったはず……」
千鶴は首を傾げながら、風間の着物などが畳まれてある場所を手探りで探し始めた。すると、袂の箇所に何かがあるのに気付き、それを取り出した千鶴は、眠っている風間の方を見つめながら、可笑しいとでも言うような笑みを作り上げていた――。
「おい、千鶴……それは……」
京を出立する日の早朝。風間は、目覚めてから既に旅支度の用意をしている千鶴の手の中の手鏡の花の模様を見た瞬間に驚きを露わにさせる。
「あ、これですか? 山茶花の手鏡なんです。可愛らしいでしょう?」
「それはどこにあったのだ?」
「さあ……?」
風間が慌てて自分の着物の袂に手を突っ込んで弄る。が、そこにあの手鏡がない事に気づき、再び千鶴の方に視線を向けた。そこで風間は思い出した。
まさか、昨日の不知火の文に何かが書かれていたのか?
その文の内容が知りたい風間ではあったが、それは無理。その文は千鶴の手によって昨夜の中に燃やされて形をなくしていた。
「不知火め……余計な事をしおって……」
風間がギリギリと歯ぎしりを起こす中、千鶴は山茶花の手鏡を見つめながら独りごちた。
「喧嘩をしたら不知火に逃げて来いって…… それって、俺の所に嫁に来いっていう事じゃない?」
この十日間の京滞在で、少しばかりではあるが、女の鋭い勘を持ち始めた千鶴であった――。
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