西国街道-京都(東寺)→山崎宿
道中の約束を継続したまま、二人は西国街道を進む事になった。
「ふあっ……眠い……」
昨夜は少しだけ遅い時間に眠りに就いた千鶴。風間は多少寝ずとも何ともないようだったが、千鶴はそうはいかなかった。歩いている間中大欠伸の連続である。
「間抜けな顔をしおって……」
朝も風間が千鶴を起こしてくれた。それもお決まりの方法で――。
「だって、寝てないんですよ。寝ていないのに元気な千景さんの方がおかしいですよ」
昨夜の長くて執拗で、そして甘い口付けを思い出してしまった千鶴はまともに風間の顔を見る事ができない。千鶴の唇は今、昨夜の口付けと今朝のそれで火照りを生じている。風間の薄く形良い唇を見てしまうと、今でもその個所に自分の唇を触れさせたいと思ってしまう為、千鶴は風間の顔から目を逸らしながら文句を垂れた。それを見た風間は面白そうに目を細めると、千鶴をからかい始めた。
「あれだけの行為であのように鳴き声を上げられては、先が思いやられるな」
風間の唇が首筋に、そして胸に触れた時、千鶴の口元からは連続的な喘ぎ声が吐き出されていた。その声音を思い出した千鶴が風間を睨み付ける。
「なっ、何を言い出すんですか!? そもそもあれは、千景さんがですねぇ……」
あれは約束を守っているとは言い難いと伝えたかった千鶴であったが、そのような事を風間に言っても無駄。すぐに、
「俺から何度も口付けをしたいとは言ってはおらん。お前があのように懇願するような視線を向けてくるのが悪いのだ。俺は悪くはない」
と即答をしてくる上に、
「大体、お前のその両腕が俺の頭を首筋やら胸やらに誘(いざな)うのが悪いのだ。だからその手を恨め」
などと意味難解な言葉を投げかけてくる為に、
「ううぅぅっ!」
千鶴は悔しそうに唸る事しかできなかった。しかし、確かに風間の言う通りである。風間は無理矢理千鶴に口付けをしたいともやるとも言ってはいない。自然の流れで行ったと言えばそうであるかもしれないが、きっと自分がそのような視線や仕草を風間に送り、起こしていたのであろう。身体中に刻み込むような口づけの行為を一度経験してしまった千鶴には、どうしても数度のそれらだけでは止められなかったのだ。頭の中ではこれで終い―― そう思うのだが、身体が勝手に風間を求め出していた。
これからが怖いなぁ――
何度も繰り返して行った口付けのお陰で、千鶴の下半身には疼きが生じている。それを知ってか、風間の表情は千鶴をずっとからかっていたいような様子だった。
「そのように案ずるな。毎夜口付けだけで満足させてやる」
「ま、毎夜なんて! そ、そんな事、昨夜だけで今は思っていません!」
「ほう……お前はそう思っていたのか……」
「あっ……!」
心の中を見透かされてしまい、千鶴がプイッと真っ赤にさせた顔を逸らしながら歩き、それを見ながら風間は後ろの方でククッと忍び笑いを始める。
「も、もう! 本当に思っていないんですから……からかわないで下さい」
「からかってはおらん。お前が毎夜して欲しいがそれを言葉でいい表す事ができなさそうだったからこそ、俺が代弁をしてやったのだ。有難く思え」
余裕綽々の風間と、風間によって心を掻き乱されている千鶴は、西国街道への道を進んで行った。
早く薩摩の地に着きたいのであれば船を使えば良いのだが、以前に千鶴が二度も船酔いをしており、その船ではかなりの時間乗っていなければならない為、風間は西国街道への選択をした。
この西国街道は、京の羅城門(東寺口)から下関の赤間関に至る道として律令時代の大路が再整備されたものである。幕府は、江戸を中心とした五街道に重点を置く街道整備政策を行ったが、その延長線上に西国街道は脇街道に位置付けられる事となった。この街道は参勤交代制の確立の為にも重要な街道であったのだ。ただし、京から西宮までの街道を『山崎街道』と呼ばれ、西宮から赤間関までを『西国街道』と呼ばれているそうだ。
東寺で西国街道の旅の安全を祈る千鶴の隣では、風間が退屈そうにしながら背を向けている。風間の人間の神を信じないという態度は以前のままであった。
東寺を出発して九条通りを歩いて行くと、二人の右手には羅城門の跡地である広場があった。
ここは平安京の頃に都の中央を貫通する朱雀大路と九条通りとの交じ合う場所であり、平安京の正面玄関として羅城門が建てられた。しかし平安時代の中後期に右京の衰えや国の乱れと共に次第に荒廃をしていった。そして弘仁七年の嵐によって倒壊した後に再建されたのだが、天元三年の暴風雨で再び倒壊したのちは再建される事はなく、今は標石だけが残されている。
そして羅城門跡を入った左側に【矢取地蔵尊】があった。そこは清和天皇の時代。つまり天長元年に旱魃(かんばつ)が起こり、朝廷から守敏(しゅびん)と空海の二人に雨乞いの勅命が下った。その結果、空海の術が守敏に勝った為に、守敏は空海を恨んで矢で空海を射たのだが、その時に地蔵が現れて空海に代わってその矢を受けたのだそうだ。その地蔵の背には傷があったのだそうだ。
「空海は神に見込まれていたのですね……」
千鶴が感嘆したような言葉を紡ぐと、隣にいた風間が真面目な表情で呟いた。
「お前も鬼の神に見込まれて、空海と同様に守られるだろう」
「えっ、私がですか?」
自分は神に守られるほどの女鬼だろうか――?
すると、真面目な表情から一変、風間が厭らしい笑みを浮かべた。
「何せ、この素晴らしい俺との子をたくさん生まねばならんのだからな」
風間と初めて出会った時から伝えられてきた言葉ではあるが、この時の千鶴は何故かしら気分を害する事がなかった。それはきっと、風間が本気で言っていないと分かったから――。千鶴は風間に向かって柔らかな笑みを放つと、
「鬼の神に見込まれる程の女鬼である自分を誇らしく思います」
そう言って西に爪先を向けて歩き始める。千鶴の態度を観察するように見つめていた風間は、
「ふん、動揺せんとはつまらん」
と呟くと、千鶴の背を追うようにして自分も西へと爪先を向けていた。
風間と千鶴は京から山崎街道を歩き、西国街道に続く西宮を目指して歩く。二人は最初の宿場、山崎宿へと向かって歩いて行った。この山崎宿は、西国街道の摂津国と山城国の境に位置した宿場である。その途中に祭神として学問の神、菅原道真を祭っている吉祥院天満宮に立ち寄った。
そこで千鶴が何やらブツブツと願い事をしている。風間が隣で耳を澄ませながら聞いていると、字がどうのこうのと言っているようだ。
「お前は字が上手くなりたいのか?」
「……」
黙ったままの千鶴を見つめていた風間が、
ああ、そう言えば――
と思い出す。江戸での最後の夜、約束事を書いた時に、千鶴の字が読めなかった事を――。下手と言う訳ではないのだが、癖のある字で、風間には理解するのが不可能だったのである。
「字が上手くなりたいのならば、俺が手取り足取り教えてやる」
風間が千鶴の耳元で囁くと、
「本当ですか!?」
嬉しそうに顔を振り向かせてくる。その顔を見つめていた風間がニヤリと笑って再び耳元で囁いた。
「ああ、手取り足取りじっくりとな……」
その風間の意味ありげな笑顔を見た千鶴の脳裏には何となく不吉な風が通り過ぎて行く。
「や、やっぱり、菅原公にお願いして自分で練習します!」
だから、断りの言葉を放ったのだが、
「ふん……遠慮する事はない。見えん者に縋らんでも、目の前にいるこの俺が教えてやると言うのだ」
と、半ば強制的な意味合いを含んだ返事をしてくる。
違う、そういう事ではない!
と千鶴の顔色は青ざめた。この男は絶対に何かを企んでいる。それならば、見えない者に縋った方がましだ。しつこく迫って来る風間に千鶴は必死になって首を横に振り、遠慮という形を見せていた。
桂川の渡しを無事に超えた、西に向かって伸びる美しい町並みを眺めながら二人は歩いて行った。
「何か雰囲気が違いますよね」
幕末の動乱の時期を思い出していた千鶴が穏やかな街並みを見渡しながらホウッと溜め息を吐き出すと、隣を歩く風間も静かに頷いた。
「時間がゆっくりと進んでいるようだな。のんびりとして良いではないか」
その言葉を聞いた千鶴が風間の方を見つめた。その視線に気付いた風間が千鶴に問いかける。
「何だ?」
すると、千鶴は首を左右に激しく振って視線を前に向ける。
「いえいえ、何でもありません。言ったらまたその目を吊り上げて怒られそうなので……」
「気に食わんな。今、お前の中で考えていた事を吐き出せ」
「嫌です……」
「今宵、覚えておれ。鳴かせる上に吐かせてやる」
風間がそう言うと冗談には聞こえない。結局は、言わないと言い張っていた千鶴は口を割ることになってしまっていた。
「東海道の旅の時にも同じ事を言って、機嫌が悪くなった時があったので言わないでおこうと思ったのに……」
つまりは、風間の口からゆっくりやらのんびりという言葉が出ると、似合わないと言いたかったらしい。
やはり東海道と同じく、風間の機嫌は頗る悪いものとなってしまっていた。そして、またまた菅原道真を神として祭っている長岡天満宮に遭遇した千鶴は、一体どちらを信じて願えば良いか分からず、その後ろでは、
「それ見ろ。見えん者に願ってばかりだからこうなるのだ」
などと嫌味を連続で投げ付けてくる偉そうな態度の風間がおり、結局は西に着いてから風間に字を習う事にした千鶴であった。
長岡天満宮を見納めた二人が歩いて行くと、下川原という所に差し掛かった。ここは豊臣秀吉が小畑川の流路を西に移し、道路を拡張すると同時に堤防を築いた場所である。
更に先を進んで行くと、『一門橋』という場所に辿り着く。此処は室町時代頃に造られた有料の橋だったそうで、大雨の度に流され、その架け替え費用の為に通行人から一文を取り始めたのが橋名の由来だそうだ。しかし、風間と千鶴がその橋を渡る時には一文を取られる事はなかった。
歩き続けた二人は山崎宿へと足を踏み入れる。
この山崎には『楠木公父子決別の地』があり、正成、正行(まさつら)親子の決別の地、桜井駅跡がある場所である。
延元元年、西国から京に向かう足利尊氏の軍を兵庫に迎え撃つために、西へ行く途中にすでに死を覚悟していた正成は我が子正行を桜井の駅に呼び寄せ、今後の生き方など遺訓を与え、河内の国に帰らせたそうだ。
楠木正行はその後四条畷にある飯森山で討ち死にしている。
「何て立派な父親なんでしょう。親という者は、死ぬと分かっていても最後まで我が子の事を考えるんですね」
まだ子供を持っていない千鶴が、自分にも子供が生まれたら同じような事をするのだろうかと考えていると、
「俺も我が子であればそのようにするな」
風間が珍しく肯定的な言葉を発してきた為に、
「本当ですか?」
と、思わず問いかけると、風間は口元を歪めて千鶴を睨みつけてきた。
「何故だ?」
「何か、千景さんだったら――共に戦わんのか? 逃げるとは情けない。お前は虫けら以下の弱虫な男だったのか? ――とか言いそうで……」
風間が喋り続ける千鶴を更に睨み付ける。まずい言葉を出したとも思わない千鶴が話を先に進めた。
「千景さんて、我が子にも容赦なさそうですものね。あっ! でも、女の子供ならその無表情な顔もにやけるんでしょうか? ねぇ……千景……さ……あっ!」
千鶴が慌てて口を両手で押さえたがもう遅い。その両手は風間の両手によって妨げられていた。
「じょっ、冗談ですって!」
「ほう……先程の言葉が冗談であれば、俺が笑って許すとでも思ったか?」
唇が触れ合う程の近さまで顔が寄せられる。次の行為を予想した千鶴が強く目を瞑る。が、何も起こらない為に千鶴がそっと目を開けると、ニンマリと笑う風間の顔がそこにあった。
「何をされると思ったのだ?」
「えっ……? 何をされるって……」
千鶴は昨夜にした濃厚な口付けの記憶を脳裏に甦らせていた。
「口付けをされるとでも思って期待していたのか?」
風間の言葉は的中しており、千鶴の頬が一気に朱色と化していく。その個所は頬紅を付けている訳ではないのに美しい色合いを醸し出していた。
「そ、そんな事ないですっ!」
「その慌てようでは少し期待していたようだな」
「し、していませんって!」
「いや、していた…… お前が期待をしていた口付けはこのようなものであったか」
風間はそう言うが早いか千鶴の唇を奪っていた。身体の奥底で燻りを続けていた炎がちろちろと燃え出すような感覚が湧き起こってくる。そう感じたのを見計らってか、風間が唇を離すと、物足りなさを感じている炎が再び燻りに戻っていた。
「期待にも応えてやった事だし、そろそろ行くか」
風間はフフンと笑うと、濃厚な口付けで戸惑っている千鶴の手を握り締めて芥川宿へと歩き出していた。
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