西国街道-瀬川宿→昆陽宿→西宮宿→大蔵谷宿
朝、千鶴よりも早くに目覚めた風間が窓の欄干に腰を下ろして外に視線を向ける。
東海道を経て、到着した京に十日間ほどの滞在。そして今、二人は更に西を目指して歩き続けている。
船で水俣港まで行けば西の里にはすぐに着く。しかし風間はそれをしなかった。
千鶴が船酔いをしやすいという理由もあったのだが、江戸にいた頃に風間は西の里までのんびりと旅をしたいと考えていたのだ。
千鶴とは京から蝦夷まで共に旅をしながら過ごしてはきた。しかし、それだけで二人は互いに深く知り合ったわけではない。あの時の風間は新選組を追う事、そして千鶴は新選組に追いつきたいという、目的は同じであったが、全く異なる思いを胸に抱いていた。
あの時、風間と千鶴は蝦夷だけに目を向けていたのだ。しかし、今回の旅は違う。
千鶴は風間の妻になる為に共について来ている。風間に恋愛感情がなかったならば、千鶴が船酔いをしようと構わずに船に乗って、早々に西の里へと到着していただろう。
風間は外に向けていた視線を部屋の中央に敷かれている布団の方へと移す。そこにはまだ、深い眠りに入ったままの千鶴の寝顔があった。
子を作るような行為はしていないが、昨夜からの愛撫の嵐で、千鶴の寝間着の襟元が弛みを見せている。その個所には、風間が開け放した窓から差し込む朝日の光が当たり、雪のように真っ白な肌を輝かせていて、その光景を見た風間の喉が小さな唸りを起こした。
「京での最後の夜にやっておけば良かったか……」
京滞在十日目の夜、千鶴は風間に抱いて欲しいと懇願をしてきた。しかし、風間はそれを拒絶したのだ。
鬼は約束を守る――
鬼たるもの、約束は決して破ってはいけない。その強い理念が風間の暴走しそうになっていた本能を抑え込んだのだ。
あの時を後悔するような溜め息を吐き出した風間が再び外の景色に視線を移して見つめていると、布団の方から千鶴が目覚めた気配を感じた。
「ふわっ! よく寝た…… 千景さん、もう起きていたんですか?」
千鶴に名を呼ばれて再度、部屋の中に視線を投じた風間は、またまた喉から小さな唸りを起こしてしまう。
布団の上に足を崩して座っている千鶴。裾は太腿辺りまで大きな乱れを見せていて、上体を起こした時にずれたのか、襟元の片方が落ちていて、片胸が見えるか見えないかの個所で引っかかって止まっている。千鶴はそれに気づいていないのか、それとも恥ずかしいとも思っていないのかその崩れを直そうともしない。今までなら千鶴のそのような姿を見ても動じなかったが、この西国街道を旅するようになってからの風間の感情は落ち着きをなくしていた。それはきっと――
「ああ……長い事やっていないからな……」
千鶴の姿から目を逸らした風間が呟くと、千鶴はその乱れた格好のままで首を傾げる。逸らそうとしたその目の端にその姿がちらりと映り、喉奥の唸りが収まらない。
「千景さん、何を言ってるんですか?」
全く、今の己の姿を確認しろ――
風間は心の中でそう思いながら、傍に畳まれて置いてあった千鶴の着物を掴んで投げつけた。
「早く着替えろ」
そこでようやく自分の乱れた姿に気づいた千鶴は、顔を真っ赤にさせて投げつけられた着物で全身を覆い隠す。
「約束を守るとは言ったが、そのように俺を誘惑するような事をしていると、約束を破棄するぞ」
風間はそう言い放った後、千鶴が着替え終わるまで窓の外に顔を向けたままでいた――。
瀬川宿を出立した二人は昆陽宿に向かって歩みを進め、昼過ぎには昆陽宿に足を踏み入れていた。
この昆陽宿も酒蔵が多くあり、風間にとってはとても嬉しい場所のようである。西に向かって行くうちに、何となくだが千鶴までもがホッとしてしまう。それは恐らく、風間と見知りの者も数多く存在しているからに違いない。それに気づいたのは、京から西へ向かって歩いている途中で、風間は見も知らずの男や女たちから会釈を受けていた。そしてその者たちは皆、風間の隣りを歩く千鶴にも笑顔で会釈をしてくれていたのだ。それを不思議に思った千鶴が風間に問いかけてみると、
「あれは皆、俺たちの同胞だ」
と、それだけではあったが、千鶴はその時に、この西国の鬼の中での風間がどれほどに名の知れた男であるかという事を理解したのであった。
この昆陽宿では、伊丹氏が伊丹城を築城したのだが、その後は荒木村重により落城させられ、伊丹城は織田信長により有岡城と改名させられ、村重の居城とし堅固で有名だったのだそうだ。しかし、この城も、今度は村重が謀反を起こして信長に刃向かい、敗れてしまったという事だ。
東海道と同じく、千鶴が風間の話しを聞きながら共に西に向かって歩いて行く。自分が話している途中でそれを折る事もせず、素直に耳を傾けている千鶴に対して機嫌の良い風間は饒舌になっているようだった。
二人は師直塚の前を通り過ぎた。高師直は足利家の武将であり、観応二年、この地において滅ぼされたが、足利家の執事として楠木正成を敗死させるなどの功績があった人物だったそうだ。
「そういえば、昨日は【楠木公父子決別の地】を通りましたよね?」
千鶴が思い出したように言うと、風間はあの時の話を蒸し返したくないのか、
「そうだな……」
という返事だけをしていた。そして、二人はそのままそこを通り過ぎ、再び歩き始めていた。
この昆陽宿には僧行基によって開祖された【昆陽寺】がある。そして毎年四月の初めには行基の徳を偲んで【行基さん祭り】が開かれ多くの人々が参詣するらしい。
その当時の昆陽一帯は【猪名野・笹原】といわれ、田畑や原野 が広がってたが、大雨が降る度に洪水の被害を受けており、行基は自分が勉強した中国や朝鮮から伝わった土木技術と、中国や朝鮮からきた技術者の協力でこの地域を整備し、昆陽池を作り、また近くには小さな小屋を作り、旅で困った人達や病気の人達の為に救済活動を行ったそうだ。
千鶴が行基の行いに感動して、本堂に手を合わせて祈り続ける。それを見ながら風間は大きな欠伸をしていた。人間が作り出した神々やそれに関わる神社などには全く興味がないのもあったのだが、自分の里に近付くにつれ少し緊張も解れているようだった。やはり、暮らし慣れた里は風間のような性格の男でも安心できるものなのだろう。しかし、西へ向かう風間はかなりのんびりとした歩みで、今日はこの昆陽宿に泊まるなどと言い始める。
「まだ日は高いところにあるんですから、先を急ぎましょうよ」
「いや、今日はここまでだ」
「何でですか? 千景さんは西の里に早く帰りたいと思わないんですか?」
その問いかけの返事は即座に戻ってきた。
「帰郷は遅ければ遅いほどいい」
「へっ……?」
風間のその返事に千鶴は唖然とした。西の里へ戻り、子を百人は生んでもらうなどと口にしていた男、それに西の鬼の頭領としての言葉とは思えない。既に約束は先延ばしになってしまったが、西の里の桜を見せてくれるとも風間は言ってくれたのだ。もう少し先を急げば、桜の散る前には西の里に到着できるかもしれないとも千鶴は考えていた。風間もその約束を重要視していなくとも覚えていたようだ。
「西の里の桜はもう散り落ちる。急いでも間に合わん」
と、言葉はそれだけだった。しかし、西の里の留守番をしている天霧は、自分たちの帰りが遅いのに苛立ちながら待っているはずだ。
「天霧さんに怒られますよ」
と伝えてみるものの、風間は動じる事もなくニヤリと笑ってきた。
「ふん、俺たちを西の里に連れ戻したくとも、西の里から離れる事ができない天霧は足掻く事しかできんのだ。勝手に苛立たせておけばいい」
などと、勝手な事ばかりを言いながら、今日宿泊するのだろう、昆陽宿の宿の中へと千鶴を引っ張り込んで行った――。
まだ明るい日差しが差し込む宿の一室で、風間が千鶴を抱きしめている。
「千景さんは、西の里に帰るのが嫌なんですか?」
西の里へ戻るのをあまりにも渋る風間に愛撫を受けている千鶴が尋ねてみる。すると、千鶴の項に唇を吸い付けていた風間はこの箇所に唇を当てたままぼそりと呟いた。
「この旅はのんびりとしたものにすると考えていたのだ……」
「のんびりとしたもの……?」
「ああ……」
何故――? とその理由を聞こうとしたが、風間はそれを言いたくないようで、項に当てていた唇で強くその個所を吸い付いてきた。
千鶴の口元から小さな喘ぎ声が一つだけ漏れる。
風間が与えてくる口付けは毒のように千鶴の全身を縛り付け、思考を鈍らせる。そして何も言えなくさせるのだ。現に今、千鶴の口元からは言葉は出ない。漏れ出るのは風間の口付けによって放たれる喘ぎ声だけであった。
昆陽宿での千鶴の一日はずっと風間に抱きしめられ、夜もまた布団の中で深く執拗な愛撫を受け続けていた。
翌朝、昆陽宿を出立した二人は山崎街道から西国街道と名前の変わる西宮宿を目指して歩き始めた。
西宮宿は西宮戎神社があり、その門前町的な事も理由であったせいか、またこの地が西国街道と大坂道に分かれる分岐点であった為、かなり賑わいのある宿場であった。江戸時代には参勤交代の大通行が絶えなかったと言われるくらいである。
風間と千鶴は西宮戎神社に立ち寄る。中に入ると広大な緑濃い敷地を有し、周囲を練壁に囲まれた内部は外側の賑やかな喧騒から隔絶された別世界のように穏やかな場所であった。ここ、西宮神社は福の神・恵比寿の総本社である。この神社を町民たちは親しみを込めて【えべっさん】と呼んでいるらしい。それは美しい朱塗りと唐破風の本殿は煌びやかで豪奢な建物である。その本殿に千鶴が両手を静かに合わせた。
鬼の里に福が沢山訪れますように――
それと、これは場違いな願いかもしれませんが、どうか、私の後ろにいる男からのからかいや意地悪から逃れられますように――
手を合わせている時間がかなり長い。また余計な願い事までしているのだろうと大体の予想が付いた風間だったが、そのような事には気にもせずに、両手を下ろした千鶴を本殿の前にある池の横の茶屋に連れて行った。
池を眺めながら茶と団子を頼んだ千鶴は、先ほど本殿で願っていた内容も忘れて幸せそうな表情を浮かべる。
「千景さん、池に亀がいますよ!」
と、はしゃぎながら池を見つめる千鶴がいきなり無言になった。
「どうしたのだ?」
風間がいきなり静かになった千鶴の方を見てみると、団子を咥えたまま池の方をじっと見つめている為、風間も同じく池の方に視線を移すと、驚きのあまりに両目を見開いてしまう。
「これはまた……大量だな……」
二人の目の前の池から次々と顔を覗かせる亀、亀、亀の頭――。
「鶴は千年、亀は万年と言うからな」
最初は驚いたものの、徐々に見慣れてきたのか、数多の亀の頭を見ながら手にある盃を何度も口元に運び始めた。しかし千鶴はその光景になかなか慣れないようで、鉱物の団子も食べずに亀の頭を凝視したままである。
「……にしても多すぎません?」
盃を片手に持ったままで千鶴の傍にある団子に手を伸ばした風間。しかし、食べ物に関しては、奪われるという気配を感じるのだろうか。その伸ばした手は、千鶴の片掌によって見事に叩かれていた。
団子を阻止したものの、千鶴の視線は未だに池の中の亀の頭に向けられている。風間はそのような千鶴の横顔を睨みつけながら次の言葉を紡ぐ。
「亀の数が多いのはこの池の環境がいいからだろう。生き物には適した場所というものがあるからな」
少しだけ機嫌を悪くした風間は再度、団子を奪う事を試んでみる。風間の言葉でようやく納得をした千鶴が咥えた団子を取り上げ、自分の口の中に放り込んでしまう。
「ああ! 私の団子が……」
油断をした――
千鶴の表情にはそのような色がありありと浮かんで見える。それを見つめていた風間は、してやったりというように意地悪く笑った。
「気を弛ませておったらこうなるのだ。色気よりも大事な団子を取られたくなければ、俺に隙を与えるな」
「ひ、酷い……」
団子を取られてしまった千鶴は、本殿であれ程お願いをしたのにと神を恨みながらも風間に奪われたのが桜色の団子だった為に、再び茶屋の主人に食べる事のできなかったその色の団子を一本頼んでいた。
西宮戎神社を出立した二人は、そのままのんびりと先を歩いて行った。暫く歩いて行くと、【花松首地蔵】という、首だけの地蔵をまつったお堂があった。この首地蔵は、首から上の病気に霊験あらたかと言われている。
「首から上って……頭の病気でしょうか?」
「さあな……顔の部分もあるのではないか?」
「千景さんの頭の中なら治して欲しいんですが……」
「俺頭の中身は正常だから案ずるな。しかしお前は治してもらった方がいいかもな」
風間の意地の悪い言葉に千鶴が首地蔵から視線を外して、風間を睨みつけてきた。
「私よりも千景さんの方が治療を必要とします!」
「俺は必要ない。この完璧な頭脳のどこを治すと言うのだ?」
「全部ですっ!」
「それはお前だ!」
二人は首地蔵の前で治療の必要性の言い合いを始め、目の前の首地蔵は何となく迷惑そうな顔付きになっていた。そして、言い合いがやっと終わった二人は、一応形だけ仲直りをすると、大蔵谷宿へと向かって進んで行った。
西宮から大蔵谷宿への道は松並木が続いている。京を出立してからは、雨も降らなければ寒さも緩んでいて長閑な旅路であった。
二人が歩き続けて行くと。大蔵谷宿の途中で生田神社の末社で三宮神社が姿を現した。先程お参りをした西宮神社を目にしてきた千鶴にとって、その神社はとても小さくて頼りなげに見えてしまったが、小さくともこの末社、一宮から八宮まであるのだとか――。風間に言わせれば、
「どれだけ同じような神社を造れば人間は気が済むのだ」
と、何となく千鶴も納得するような台詞であった。
大蔵谷宿に入った二人は、【はし本や右衛門】という旅籠で泊まる事になった。この旅籠には女中として鬼の忍びが入っているという。
「女の忍びはこういう事をするんですか?」
千鶴の問いかけに、風間が呆れたような表情を顔に浮かべる。
「今更何を暢気な質問をするのだ。千姫に仕えている君菊とて島原で芸者をしていたではないか」
「あっ、そうだった……」
忍びという者が芸者や女中、そして宿主などに扮しているのは、このように客の往来の多い所の方が情報が得やすいからであった。
この大蔵谷宿は明石城を建築した際に城下町への吸収が図られ、その町並みは美しくて賑やかだった。そして、大蔵谷の産土神として古くから信仰を集めている【稲爪神社】を参拝する風間と千鶴。ここは歴史ある神社だけに独特の神事も多く、鉄人伝説と関係のある牛乗り、そして江戸時代の揺い物の流れを汲む囃口流しや獅子舞などが有名である。
さて、この鉄人伝説であるが、風間の話しによると、創建は推古天皇の治世であった頃、鉄人(異国人)八千が塀を率い攻めてきたそうだ。朝廷は伊予の越智益躬に討伐を命じ、益躬は降伏すると偽って鉄人を油断させ明石の地まで導く。ここで雷鳴・稲妻とともに伊予の三嶋大明神が現れ益躬を助け給い、たちまちに鉄人は討たれた。そして益躬は討ったこの地に三嶋大明神を祀る。それが稲爪神社であり、稲爪は稲妻から稲爪へと変化したものと伝わる。ちなみに大蔵谷の地名も三嶋大明神が現れる際に空が暗くなったことにちなんだ大暗谷が変化したと言われているのだそうだ。
「千景さん! やっぱり神さまって凄いんですって!」
風間の話を聞いた千鶴が興奮しながらその神社の本殿で手を合わせる。
「たかだか言い伝えごときに振り回されるとは……お前は単純な女だな」
大袈裟な溜め息を吐き出した風間を睨んだ千鶴は、紙風船のように頬を大きく膨らませた。
「新選組の皆も助け合って生きてきてたんです。やっぱり、助け合いって必要なんですよ!」
その言葉の中に新選組の名が出た為に、機嫌を損ねた風間は、
「鬼は助け合いは好まんからな」
と、ぶっきら棒に言い放った。
「何故ですか? そう言えば……私が千景さんたちに出会った頃も単独行動が多かったですよね?」
「人間はすぐに群れたがる。全く、自分の意思ではなく、上の命令によって動かされてばかりだ。個性的ではないな」
その言葉を聞いた千鶴は、ああ――と心の中で唸って考えた。
自ら鬼と名乗る前の風間、天霧、不知火に初めて会った時、三人三様、個性的な服装だった事を思い出した。そして、協力し合って戦っていなかったようにも見えたのだが、それは事実だったのだ。
そう―― 一人一人が個人で戦いに挑んでいた。しかし、過去の風間たちが起こした行動で、今でも不思議に思う事がある。
「では、個性的な千景さん。以前に私を奪いに来た時はいつも三人一緒でしたよね? 群れたがらない鬼が集団行動をしていたじゃないですか」
千鶴のその問いかけに、風間は晴れ渡る空を見上げながら言葉を返してきた。
「ふん……あの奴らからお前を奪うには、一人では力が及ばん。一対一ならば簡単だったのだがな。あのように集団で来られては鬼とてやられてしまうかもしれん」
「……って事は、千景さんは新選組の皆さんが強い事を認めてくれてたんですか?」
千鶴が両目を大きく開けながら、少し上擦った声で風間に質問をすると、
不味い事を言った――
風間は顔を顰めて舌打ちをしながら、この話は終いだと言って先を歩き始めた。
「ねえ……教えて下さいよ。認めてくれていたんですか?」
背後から投げ掛けてくる千鶴の声は嬉しそうに弾んでいる。
「別に何とも思っておらんし、強いと認めてもおらん」
風間はそう言い放つと、千鶴の腕をグッと強く掴んだ。
「あまりしつこいと、あの約束を破棄するぞ」
風間のいきなり宣言に、千鶴の顔がみるみる真っ赤に染まる。自分にとって都合の悪い話題になった時には千鶴を動揺させればいいのだ。
「な、何を急に言い出すんですか! 先程の話と全然違います!」
風間の思惑通り、千鶴は先ほどの風間の失言を既に頭の中から放り出してしまっている。
「ふん……俺をからかおうとするのは十年も二十年も……いや、百年も早いという事だ」
先ほどから損ねていた機嫌を直した風間は、今宵泊まる旅籠へと千鶴を連れて入った。
旅籠の中へ入った時、鬼の忍びとも思われる女中が風間に目配せをした。忍びの者が女中として働いていると聞いていたのだが、既に忘れてしまっていた千鶴が嫉妬心を露わにした視線をその女に向けた。
あの艶のある視線は何なんですか……」
今度は千鶴の機嫌が一気に悪くなるが、その女中は一向に気にしない様子で風間に近付いてきた。そして、何かを耳元で囁くと千鶴に向かってニッコリと美しい笑みを残して消え去って行く。その光景を一部始終見ていた千鶴の嫉妬が頂点に達し、宿の者に部屋への案内を頼むと、大きな足音を立てて自分たちの泊まる部屋へと入って行った。
「全く……分かりやすい女だ……」
風間はニンマリと笑いながら、千鶴の後を追って部屋へ入って行った。
夕食も終わり風呂にも入った二人だが、千鶴の機嫌は直りそうにもない。千鶴の脳裏には先程の女中が風間の耳元に口を近付けて囁く光景が振り払っても振り払っても消えてはくれなかったのである。
千景さんがもてるって事は分かりましたよ! あの忍びの鬼だって仕事だと言っても、きっと千景さんに会うのが嬉しいって感じだったもの!
掛け布団にぼすぼすと拳を当てながらぶつぶつと文句を垂れる千鶴を、宿主が持って来た酒を飲みながら面白そうに目を細めて見ていた風間。
「何を嫉妬しているのだ? ああ、先程の事が気になるのか?」
先ほどの女の事に触れた瞬間、千鶴の拳が先ほどよりも深い窪みを掛け布団の中央に作り上げた。
「いいえっ! 別に気になっていません!」
自分が女と少しの絡みを見せただけで妬く千鶴の表情を見るのは真に愉快なものだ。風間は更に笑みを濃くさせると、千鶴が更に嫉妬を深めるような言い方をした。
「お前の機嫌が悪くなったのはあの時からだろう?」
あの時とは、この宿に女中としている鬼の忍びの女の事。
「私の機嫌はとってもよろしいですから!」
機嫌悪くして機嫌よろしくのように布団に数多の窪みを作り続ける千鶴に、
「ほう……では、あの女と話でもして来るか……」
酒を飲んでいた風間がスッとその場に立ち上がると、千鶴は驚いた顔をこちらに見せ付けてきた。
「何しに行くんですか?」
立ち上がった自分を見上げる千鶴の嫉妬に満ちた眼差しはなかなかのものだ――
風間は心の中でそう思いながらも、意地悪い言葉を投げつけた
「決まっておる。あの女に会いに行くのだ」
「どうせ、誘惑をしに来たんでしょ? 何で会いに行く必要があるんですか?」
嫉妬が激しくて、この宿に忍びの女がいると伝えた事をすっかり忘れてしまっているようだ。風間は大袈裟に溜め息を吐き出すと、
「今のお前に何を言っても無駄なようだ」
千鶴にその言葉を投げ付けると、部屋を出て行ってしまった。
「最低! ……もう、何なのよ……」
ここまで来て、また女の事で悩まされるのか?
部屋に一人残された千鶴は布団を頭から被ってしまうと、その中で涙を零し始めていた。
「あのように怒らせてしまっていいのですか?」
風間が襖を開けた時に部屋の前で待機していた女の忍びが申し訳なさそうに伝えてくる。しかし、風間は楽しそうに上機嫌な笑みで頷いた。
「あのコロコロと変わる態度が面白くてからかっているのだから放っておけ。それよりも情報とは何だ?」
風間の笑みの表情が、引き締めのある頭領のものとなり、目の前の女の忍びも咄嗟に姿勢を正した。
「いえ……大した事ではないのですが……実は、非常に機嫌の悪い方からの伝言でございます」
「……天霧か?」
風間の予想が的中したようで、目の前の女が静かに頷いた。
「帰郷が遅いとかなりご立腹のご様子。早めにお帰りくださいませ」
女からの伝言があまりにも仕様もなく、風間は大きく鼻を鳴らした。
「女を連れているのだから遅くなって当然だろう?」
「しかし、ここまで月日がかかるとは思えないと…… 頭領にしかできない仕事が山積みだそうで……」
風間が大きな溜め息を吐く。千鶴を迎えに行ってから三、四ヶ月が経とうとしているのだ。
戸隠の事や、千鶴の怪我で動けなかった日数は許されるとして、京での滞在が少し長引いてしまったり、少し歩いては泊まりを繰り返していたのがまずかったのか――
風間はその女に礼を言うと、自分の部屋へと戻って行った。
部屋に戻ると、泣き疲れた千鶴が眠ってしまっていて、起きている気配は全くしない。
風間は千鶴の横に入り込み、すぐ目の前にある寝顔を見つめると、涙の乾いた後が細い道のように白い跡を残していた。
「お前も俺と同じように嫉妬深い女だったのだな……」
寝た者を無理矢理起そうとは思わないが、嫉妬の炎を燃やしている千鶴の姿を思い起こした風間の身体の芯が疼きを始めた。そして、堪らないというように千鶴の頬の涙の跡を舐め取ると、その後に口付けをゆっくりと何回も施す。
「里へ戻れば、あの山のような仕事とご対面というわけか……」
西の里の仕事部屋の今の有様を想像した風間は、億劫そうな欠伸を一つ起こすと、千鶴を強く抱き締めながら深い眠りに落ちていった――。
何か布団の柔らかさとは違う――
千鶴が眠りの中で違和感を感じ始めた。誰かが自分を名を呼んで起こそうとしているが、昨日に風間の目の前で見っとも無い姿を曝け出してしまった千鶴は正直なところ目覚めたくはなかった。
「千鶴……いい加減に起きろ……」
しかし、風間の一声によってパッと目が覚めてしまう千鶴は、何やら目の周りが腫れぼったいと感じ、その理由は昨夜は泣いて寝てしまったからだと思い出しながら起き上がろうとした時、両掌を当てた個所を凝視して叫んだ。
「な……何でこうなってるんですか!?」
千鶴の身体は仰向けに寝ている風間の上に乗っていた。かなりの長時間上で寝ていたようで、風間も限界がきていたらしく、顔を顰めていた。
「早く退け。流石に重い……」
「ご、ごめんなさい!」
謝った千鶴が慌てて風間の上から降りようとした時にそのまま回転してしまい、今度は風間に乗り掛かれたような状態になってしまう。
「千景さん……起きますから退いて下さい」
しかし、風間は千鶴のを布団の上に押し付けるように跨ったまま退こうとはしない。
「昨夜は、俺が部屋に戻ってくるまでに寝てしまっていたな? そのお蔭で夜恒例の口付けができなかったではないか」
風間の顔が距離を狭めてきて、千鶴はそれを両掌で押し返した。
「あ、あれは、千景さんがあの女中の所に会いに行くって言って出て行ったからじゃないですか!」
両肘が直角に曲がっていき、風間の口元に当てていた両掌の甲が千鶴のぷっくりとした唇に押し付けられた。
「待っておれば良かったのだ」
「何で女に会いに行くあなたを待たないといけないんですか!?」
いつ帰って来たのかも分からない。あの女と何をしていたのだろうと、あまり気持ちの良くない想像をしながら叫んだ千鶴に、
「嫉妬に燃えるお前の表情も悪くはない」
と、風間は嬉しそうに目を細めると、千鶴の両手首を掴むと唇を浚いに顔を近付けてきた。至近距離まで近づいた唇から逃れようと顔を必死に逸らす千鶴は、
「もうっ! 私は怒っているんですから、止めて下さい!」
必死になって風間の胸を押し返すが、風間の力は流石は鬼のもの。ビクともせずに千鶴の身体を布団の上へと更に強く押し付けてくる。そして、とうとう千鶴の唇は風間のそれによって塞がれてしまった。
長くて呼吸をするのも困難な口付けに、我慢ができなくなった千鶴の目尻から涙が滲み出てきたその時、何かの気配に気づいたらしい風間が二人の顔の間に距離を作り上げた。
「お取り込みの途中申し訳ありませんが……」
昨夜、風間と接触したらしい女中が襖を開けて頭を下げていた。千鶴は驚いて顔を真っ赤にさせるが、風間は口付けの前の時と同じ体勢のまま、その女に問い掛けた。
「何だ?」
「早急に出立をお願いいたします。天霧の怒りが酷くならないうちに……」
「何の事ですか?」
と千鶴が首を傾げていると、風間はムスッとしながら千鶴の身体から離れ、着替えを始めた。先程まで頭を下げて言葉を紡いでいた女中の姿は消えており、襖もしっかりと閉められていた。
「天霧さんが怒ってらっしゃるんですか?」
着替えている途中の風間に尋ねると、
「ああ、予想していたよりも長い旅路になったのでな。業を煮やしておるらしい。あやつが怒ると大変なのだ」
と言いながら、腰紐を器用に結びあげた。
「あんなに物静かなのに……」
「物静かな者ほど、怒った時は恐ろしいのだぞ」
そうして、出かける用意ができた二人は大蔵谷宿を出立して行った――。
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