噂をされるとくしゃみが出る?



 長老たちが集まっている中、主が不在でその代わりとして天霧が顔を出した。


「皆さま、お忙しい中、お集まりいただき有難うございます」


 敬うべき男たちに向かって深々と頭を下げる天霧に、長老の一人が尋ねてきた。


「千景はまだ戻らんのか?」


 その質問に対して、天霧は丁寧な言葉を述べた。


「実は、千鶴さまが船酔いをする体質であったらしく、本当は大坂港から水俣港まで船で移動する予定でありましたが、急遽取りやめになり、徒歩でこちらに向かっているのだそうです」


 全く、風間の我儘にも困ったものだ――
 言葉では風間を庇うような言い方をする天霧ではあったが、心の中では文句の言葉の嵐が起こっていた。それを知ってか知らずか、長老たちは風間と天霧の幼い頃の話を始めた。


 まず、一人の長老が片目を細めて天霧を見据える。


「今では図体もでかくなり、肝の据わったような雰囲気を出しておるが、儂たちから見れば、お前たちはまだまだひょろっこいのぉ」


 豊かに蓄えた白い髭を撫でながら言葉を紡ぐ長老の顔を静かに見つめる天霧。目の前の男たちは皆、自分たち若い鬼が敬うべき者たちである。だから、決して逆らう事はしない。それにまだ若いと言われるのも無理はない。何故ならば、風間や天霧とこの長老たちの歳の差は百にも近いものがあったからだ。


「長老方に認められる男鬼になれるよう、これからもまだまだ精進をするつもりでございます」


 風間ならば、ここで鼻を鳴らしてそっぽを向くだろう。しかし、天霧は再び静かに頭を下げたその時、今まで何も口を開かなかった一人の長老が天霧に声を掛けた。


「明日から、うちのもんが風間家に準備をしに行くと言っていたが、お前はそれで良いのか?」


 うちのもん――
 それはあの女の事を指す。天霧はその長老に深い頷きを見せた。


「ええ、準備は早いに越した事はございませんから、明日からよろしくお願い致します」
 すると、長老たちの間から口々に言葉が投げ出される形で会話が始まった。
「しっかし、あの千景がとうとう嫁をもらうとは…… 何やら信じられん」
「全くだ。出羽とて、喜びながらも千景の妻になる女が可哀想だと呟いておった」


 そして、久々に思い出話に耽る長老たちに黙ってお辞儀をした天霧は、静かに部屋を出て行ったのであった――。




 風間の屋敷に戻った天霧。すると、屋敷の中が何やら騒然としている。何事かと思った天霧がその根源の広間に足を運ぶと、そこには前相模であった出羽の姿があった。


「出羽さま、こちらにいらっしゃるのは明日だと聞いておりましたが…… 出羽さま、一体何をされているのですか?」


 天霧が出羽の奇妙な行動を凝視する。目の前の出羽が広間に敷き詰めてある畳の一枚を軽々と外した為であった。


 天霧の呼びかけに振り向いた出羽が笑って手招きをしてきた。


「あら、丁度いいところに来てくれたわ。畳を外すのを手伝ってちょうだいな。やっぱり歳を取ったのかしらねぇ…… なかなか手際よくいかないわ」


 いやいや、百歳近くになるのにその力は―― といいたいところではあるが、女に向かってそのような失礼な事を言ってはならない。天霧は黙ったまま出羽の近くにまで歩み寄ると、畳を外すのを手伝った。


「長年取り替えていないでしょ? だからささくれ立ってしまって…… もうすぐ千景が千鶴さんだったかしら? その方を連れて帰って来るというのに、この有様じゃいけませんよ」


 もうすぐすると畳職人が新しい畳を持ってやって来ると出羽は言って、天霧の力をあまり借りずに何十枚もの畳を外していく。出羽よりもかなりの若年である天霧が外した畳はたったの十枚程であった。


「さて、全部外せた事だし、後は新しい畳を敷いてもらうだけね」


 ずっと屈みっぱなしであったせいか、立ち上がった出羽が背を上に思い切り伸ばす。


「出羽さま、このような事は畳職人にやらせれば良かったのでは……?」


 と、天霧が問いかけると、出羽が少しだけ怒りを含ませた表情を浮かばせた。


「九寿、風間家の家老になってからろくに働いていないのですか? 何でも効率よく動く為には先を読まなければなりませんよ」


 出羽はそう言うと、自分よりも背の高い天霧を見上げた。


「身体だけはこんなに大きくなって、見た目も貫禄はついているけれど…… これが五歳までおねしょをしていた男だと思うとねぇ……」


 自分の過去の汚点を指摘された天霧の顔が真っ赤に染まる。


「い、出羽さま! それだけはどうか……」


 風間や天霧が長老たちに逆らえないのは、自分たちの過去の失態劇を知っている者たちばかりだからでもある。特に説教を食らう時には必ず過去の話が飛び出して、何も言えなくなってしまうのであった。


「千景も今じゃあのように高慢ちきになっているけれど、幼い頃は私に添い寝をしてもらわないと眠れない子だったしね。ほら、九寿も覚えているでしょう。千景はねぇ、寝る時に布団の中で強く抱き付いてくる子で…… あの癖はまだ直っていないのかしら? そうだとしたら千鶴さんは辛いでしょうねぇ……」


 幼い頃の風間に抱き癖があったのは知っているが、この歳になってまでもそれを把握している天霧ではなく、出羽に曖昧な笑みを浮かべて見せた。


「風間も立派な大人になりましたし、そのような事はもうないでしょう」


 天霧はそう言った後に、自分にはまだ残っている仕事がたくさんあると伝えて広間から早々に退散をした。大きな背中を見送っていた出羽が縁側に腰を下ろす。


 若い頃は風間一族の中でも絶世の美女だともてはやされた出羽も、今では顔に無数の皺が作られていた。風間の父親である亡き頭領に愛の言葉を何度も囁かれた事もあった。しかし、出羽は今の夫である長老の一人と恋に落ちて夫婦になったのだ。そのような古い記憶もまた懐かしい―― 出羽は亡き頭領とその妻の間にできた風間の赤子の頃からの記憶を脳裏の奥深くから蘇らせていた――。




 亡き頭領の妻の教育係であった出羽は、風間が生まれる時には、産婆としてこの屋敷に務めていた。


 亡き頭領と妻の間には深い愛情がなかったと聞く。ただ、自分の血を絶やさないようにと子を孕ませる行為はしたものの、風間が生まれた後に二人の間ではそれが全く途絶えてしまったのだとも――。


 風間の母親は、いつも悲しそうな顔をしていた。風間が生まれた直後も疲れ切った表情を出羽に見せていたのを思い出す。そして、風間には決して伝えていない事も出羽の中にはあった。


 風間の母親は、自分が生んだ我が子を可愛くないと言ったのだ。それを聞いた出羽には、彼女に不憫さを感じながらも怒りを先に出してしまった。


 出羽には子がなかった。夫とは一族の中でも一番仲がいいと言われる程の夫婦であったのに、願っても願っても子はできなかった。だから、亡き頭領の妻があのような言葉を吐いた時、出羽はこう伝えた。



 では、私にこの子を下さい…… 血が繋がっていても愛を託せないあなたよりも、血は繋がってはいなくとも、この子を可愛らしく思う私の方がこの子の為に良いと思います――


 それを聞いた亡き頭領の妻はどう思ったのだろうか?
 風間を何度か抱きはしたものの、愛を与える事なく自ら命を絶った亡き頭領の妻に、あの時の心中を聞けず仕舞いであった。


「私があなたの傍に行く事になれば、あの時の事をお話ししてくれますか?」
 出羽が空に向かって呟く。すると、西の方角から柔らかな風が出羽の頬を撫でていった。それを感じた出羽は頬を軽く綻ばせる。


「あなたの息子は立派に育ちましたよ…… 私の育て方が悪かったのか、頑固なところもありますし、高慢ちきですし、それに自分勝手な男に成長しましたけどね…… あの時に偉そうな言葉を投げつけてしまいましたけど、私も子育てはあまり得意ではなかったようですわ。でも、これだけは言えます……」


 出羽は空に向かって大きく胸を反らして深呼吸を起こしながら両目を閉じる。
 先ほどの柔らかな風は止まり、静かな時間が流れ始める。それはまるで、出羽の次に出す言葉を待っているかのように感じられた。


 閉じていた両目を開き、高い空に向かって微笑みを飛ばす。


「あなたが生涯持つ事のなかった愛する感情は、この私がしっかりと育て上げました…… もうすぐお嫁さんを連れてこの里に帰って来るんです。あなたのところまで届いているかしら? 二人の仲はとてもいいという噂が日の本の鬼の中で広まっているんですよ……」


 母親に拒絶されていた風間は、毎夜、出羽の布団の中で眠っていた。そして出羽が宿下がりをする時には必ずくっ付いてきたものだ。しかし、この屋敷から風間を出して良かったと今は思う。


 出羽の家での風間はよく笑っていた。悪戯もして出羽の夫に怒られた事もあったし、出羽自身も風間を叱る時はあった。


「あなたは愛だけではなくて、あの子に普通の暮らしをさせる術をも教えなかったのですからね……」


 四歳にもなろうとする風間は、箸の持ち方も着物の着方も知らなかった。母親が教えもせず、我が子との時間も持とうともしなかった為に、風間の身の回りの世話は全て、使用人の女たちがやっていたのだという。我が息子があまりにも何もできないのを知った亡き頭領が、出羽の所にやってきて、一から教育をしてほしいと願い出てきたのだ。


「ご飯の時に、大きな口を開けて、食べ物が入って来るのを待っていたあの顔といったら…… 正直、可笑しいというよりも呆れてしまいました」


 風間は出羽によく懐いていた。しかし、やはり子は実の母親が大好きなのだ。


「あなたが亡くなったと聞いた時、あの子は初めて涙を流しましたよ…… やはり私は、あの子の本当の母親にはなれませんでした……」


 出羽の中で昔の記憶が走馬灯のように映り続ける。それを一つずつ手繰り寄せては空に向かって言葉を紡いでいた――。




 今、千鶴の隣りでは風間が連続でくしゃみを起こしている。


「千景さん、風邪でも引かれたんですか?」
「分からん…… しかし、鼻が痒い……」


 千鶴を背後から抱きしめながら、顔を目の前の小さな背中に埋めて何度もくぐもったくしゃみを起こす。


「誰かが俺の噂でもしているのだろうか?」


 少しだけくしゃみが収まった時、千鶴を強く抱きしめながら呟く風間。


「噂って、誰がするんですか?」
「それは勿論、俺の事を好いている女たちであろう」


 そして更に抱きしめる力を強める風間に、


「ちょ、ちょっと、痛いです!」


 と、嫉妬をしながらも、強く絡ませてくる腕を振りほどこうとする千鶴。


「もう、昼間からこんな事ばっかりするんだから……」
「こうしていると安心するのだ」
「何か、千景さんって子供みたいですね」


 そのような会話を続ける二人の間に、何度も風間のくしゃみが起こる。

 まさか、皺くちゃのお婆さんが空に解き放っている噂だとも知らずに、風間は、自分の噂をしている女の姿形を想像して脳裏に思い浮かべるのであった――。


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