西国街道-岡山宿→間の宿矢坂→板倉宿→河辺宿→矢掛宿→間の宿今市



 朝風呂をしてさっぱりとした風間と、またまた大きな握り飯の入った竹の皮の包みを抱いた千鶴が岡山宿の旅籠を出立する。


 握りたてなのであろうか、包みを抱いた千鶴の身体はほんのりと温かみを増していた。


 暫く歩いて三門(みかど)という地で足が止まった二人は、そこの茶屋で休憩を取った。まだ、朝餉を食べてから少しの時間しか経っていなかった為、流石の千鶴も団子を頼む事はなかった。


 この休憩の時に、風間が気になっていた事を千鶴に訊ねる。


「月のものはまだ来んのか?」


 風間の言葉に千鶴がハッと顔を上げた。


 そう言えば、旅を始めて最初の月のものが来て以来、千鶴の身体にそれが来る兆しがなかった。いつもなら正確にひと月に一度は来ていたはずなのに急に狂い出していたのだ。


「まさか、俺以外の男と通じているわけではあるまいな?」


 風間の疑わしげな視線に、千鶴は慌てて否定の言葉を返した。


「ま、まさか! この道中で千景さんと離れた事は一度もなかったじゃありませんか! それなのに、どうやって他の男の方と通じる事ができるんですか!」


 すると、風間は鼻を大きく鳴らしながら、ますます疑わしげに両目を細めた。


「俺が寝ている夜の間にでも部屋を抜けられるだろう?」
「布団から抜け出す事ができない程に強く抱きしめて眠るくせに! それに私が少し動いただけでもすぐに目を覚ます千景さんから器用に部屋から抜け出せるとでも思っているんですか!」


 すると、風間は意地悪い笑みを浮かべた。


「この道中、俺が目覚めた時にお前が起きていた事が幾度かあったろう?」
「ま、まさか…… 本気で言っているんじゃないでしょうね?」


 その言葉に千鶴が両肩を小刻みに震わすと、風間は呆れたように肩を竦めた。


「ふん、お前に器用な恋愛沙汰をする事ができない事くらい承知の上だ。全く、冗談も通じんのか」
「その顔で言われたら、誰だって冗談だとは思いませんよ!」


 月のものが来ないのは恐らく、近い間に千鶴が鬼の頭領である風間の妻になるという重責感からくるものであるようだが、それに重ねて、鬼の血を絶やさない為に女鬼の子供を生まなければならないというそれもあった。


 風間の話によると、鬼の中で女鬼が生まれる確率は五人に一人。鬼の世界の中で女鬼を生むことが如何に困難か、それを知らされている千鶴にとって、日の本中の鬼たちの好奇の眼差しには辛いものがあった。


「西の里に到着して祝言を挙げたら、すぐにでもみごもらなければならないんでしょうか?」


 千鶴の不安の言葉を聞いていた風間が歩みを止めて千鶴の方に振り返った。


「以前にも言ったはずだ。俺はまだ子は欲しくないとな……。周りが何を言ってこようと気にするな。それにお前は頭領の妻ではない。風間千景という男の妻なのだから、堂々としていればいい」


 千鶴の心中を見抜き、気遣い、そして心配はしてくれているのだろうが、風間の言葉には怒りも含んでおらず、至って普通で落ち着いていた。


 茶屋を出た二人は長い上り坂を歩いて行く。先程の場所に茶屋があるのは、この急な上り坂を控えている為に設けたものらしい。


 坂を上り切り、次は坂を下り、間の宿、矢坂という地に入って行った。笹瀬川を渡り、西に向かって黙々と歩いて行き、再び中川という川を渡って行った。そして、【吉備津彦神社】に辿り着いた二人の目の前には大きな【安政の大石灯籠】が聳え立っていた。この灯籠、千六百七十余名の寄附で五千六百七十六両の浄財が寄せられて造られたらしい。この神社の本殿は桧皮葺の荘厳な建物であり、備前一宮の風格を醸し出す神社である。


 二人は更に西に進み、鳥の囀りを聞きながら【吉備津神社】の参道の【吉備津の松並木】を歩いて行く。


 吉備津神社の本殿である拝殿は、比翼入母屋造り又は吉備津造りと呼ばれる独創的様式の大建築物である。二人の目の前には鮮やかな朱色を施した建物が鎮座していた。


 この地には【最上稲荷】があり、その稲荷は伏見、豊川と並んで三大稲荷の一つと言われている。


 風間は千鶴をある高台に連れて行った。その場所は高松城水攻めをした豊臣秀吉の本陣があった所らしい。天然の要害を逆手にとって水攻めを起こし、この高松城の城主清水宗治は、敵味方が見守る中で切腹を果たしたのだそうだ。


「本能寺の変、清水宗治の自刃、中国大返し、山崎の合戦…… 秀吉の驚異的な迅速で劇的な天下取りの場所だ。災害や秀吉にとって上手い具合に事が運び、あの男は天下を取る事ができた。強運を持った男だったのだな」


 風間は高台から高松城を見下ろして言葉を紡ぎ、千鶴はその静かに紡がれる言葉に耳を傾けていた。そして、二人は高台を下りて西に向かい、板倉宿へと足を踏み込んで行った。


 この宿場、【町屋七八丁ありて茶屋宿屋多し。例の藝子遊女もありとぞ】らしい。


「芸子…… 遊女……」


 千鶴が少し不機嫌な様子を出し始め、風間はこれぞとばかりにからかい始める。


「芸子に遊女か…… これは楽しみだ。」
「全然楽しみなんかじゃありませんよ!」


 そのからかいに怒りを剥き出しにする千鶴だが、そのような千鶴の姿を見つめている風間は喉奥を鳴らしながら笑う。


「この宿場の遊女の中には鬼の忍びもいる。遊女の格好をした女鬼は美しいぞ」


 忍びの女鬼が大層美しいのは、君菊や他の宿場でその女たちを見ている為に知っている。そして千鶴がその女たちに美しさだけは敵わない事も―― ただし、芸子や旅籠の女将などの姿の女は見た事はあるが、遊女の格好をした女だけは見た事がなかった。芸子や女将の格好をしているだけでも、女鬼は美しいのだ。ならば、遊女の格好をした女鬼は更に美しいのだろうと考えた千鶴は一層、機嫌を悪くさせていた。


「見たんですか?」


 風間を横目で睨みながら、端的な問いかけをする千鶴に風間は深く頷いた。


「勿論…… そう言えば、お前も島原で芸者の格好をしていたが、あの時と今では姿も少し変わっているからな。一度遊女の格好でもしてみるか?」
「私があのように艶やかな格好をしても変わり映えしませんから結構です」
「それもそうだな……」
「どういう意味ですか…… それ……」


 風間は千鶴の全身を隈なく見つめると、フフンと鼻を鳴らして笑いながら先を歩いて行った。


「ちょっと、千景さん! 待って下さいよ! さっきの返事とその笑みが気になるんですけど!」


 自分自身が言った言葉を否定せずに肯定的に受け止めた風間に少し苛立ちを覚えた千鶴はその理由を詳しく説明をしてもらおうと、風間の後ろを追いかけて行った。


 長さ二十間ばかりの板橋が架かっている足守川を渡った二人は矢部という集落に入って行った。


 この地には【鯉喰神社】があり、この神社の奇妙な名前の由来を風間が教えてくれた。


 吉備津彦の命が吉備の国平定の為に来た時に、この地方の賊温羅(うら)が村人を苦しめていた為、この賊と戦ったがなかなか勝負がつかなかった。その時天より声がして、命がそれに従うと賊は力尽き自分の血で染まった川に鯉になって逃れたが、命は鵜になって、鯉に変身した温羅をこの場所で捕食したそうだ。それを祭る為、村人はここに鯉喰神社を建立したと言われている。この伝説は【桃太郎伝説】とも関係があると言われているらしい。


「桃太郎伝説は鬼と闘ったんですよね?」
「賊は【鬼】とも思われていたが、我ら純粋な鬼と同等に見られていてはかなり腹立たしいものだ。しかし、鯉になったり、鵜になったり…… あり得ん話しばかりを人間は作り上げる」


 古代吉備国桃太郎伝説には、悪事を働いて人々を困らせていた温羅という鬼を、朝廷から派遣された吉備津彦命が犬飼部の犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)、鳥飼部の留玉臣命(とめたまみのみこと)猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)という三人の部下を率いて退治したという神話が残っているらしいが、神話は神話であり現実の話ではないから面白くないと、風間は言い切っていた。


 風間の現実的な考え方の意見にも慣れた千鶴は、


 夢物語も面白いのに――


 と思いつつ、風間の言葉を聞きながら、鯉喰神社の鳥居の両脇にある備前焼の狛犬を優しく撫で上げていた。


 少し歩くと【国分寺】があり、そこには立派な五重塔が聳え立っている。そこで二人は、昨日宿泊した旅籠の女将からもらった握り飯を頬張っていた。


 この板倉宿は街道沿いに蔵造りの大きな家が建ち並んでおり、その間を昼休憩を済ませた風間と千鶴が通り過ぎて行く。


 二人が歩いて行った先に【御崎神社】が備前焼の狛犬の奥の鬱蒼とした森に包まれていた。


 南の松並木道は馬場といって大宰府に至る当時日の本で唯一の大路・古代中国道で、津坂駅(つざかえき)があった場所である。ここには窪屋郡司の娘黒日女(くろひめ)と仁徳天皇の恋愛伝説が残る。天皇が黒日女を慕って行幸されたとき交わされた二人の歌も残っているそうだ。境内には仁徳天皇を仁徳大神として、黒日女を黒姫大神として祭る石殿須賀神社が祀られている。


「私も、このような恋をしてみたい……」


 千鶴が夢見心地に呟くと、その隣では風間が睨み下ろしていた。


「このように完璧で素晴らしい相手がお前の隣にいるではないか?」
「完璧とか素晴らしいとか、そういう事を望むのではなくて、恋の歌を送ったり、甘い愛の囁きとか…… 千景さんには期待しませんけど、そういうのもあっていいかなって思っただけです」


 千鶴の言葉に何やら考え込むようにして黙ったまま歩き続ける風間。このような時の風間は何を話し掛けても返事はしない為、千鶴は風間の後ろを静かに付いて行く。


 奇妙な雰囲気を醸し出している二人は、四方を緑の山に囲まれ、春の穏やかな川の水面に、青空と川の中に茂る低木の深緑を映した大きな高梁川を渡し舟で渡って行き、対岸の川辺宿へと進んで行った。


 川辺宿に入った途端、左右に蔵造り、虫籠窓、なまこ壁などの家々が街道に沿って列を並べて建っている。この川辺宿は、高梁川の氾濫の時はしばしば川留めがある為、賑わいのある宿場であった。


 川辺本陣の先を歩いて行くと、右手に【艮御崎(うしとらおんざき)神社(宮)】があり、その神社は、吉備津神社本殿の丑寅(東北)の方向に艮宮があり、温羅(うら)が祭られ、たたりの神として恐れられている。


「温羅って先程の鯉喰神社でも名前が挙げられましたよね?」
「ああ、鬼の神社みたいなものだろう。何故かは分からんが、親近感が湧くな」
「わ、湧きませんよ!」


 入り口から奥までは長く真っ直ぐな参道が延びていて、その奥から何かが出てきそうな雰囲気を感じ取った千鶴が、少し震える声で風間に囁く。


「千景さん…… 先を急ぎましょうよ」
「何を言っている。今宵はこの川辺宿で泊まる」
「お、鬼が出るかもしれないじゃないですか!」
「お前は阿呆か? 俺たちも鬼ではないか」


 風間が呆れ果てたような声音で千鶴を説得して、この宿場で一泊するつもりではいたのだが、怯え切っている千鶴の意思は固いようで、どうしてもこの宿場だけは嫌だと言い張っている。風間は仕方なく次の矢掛宿で宿泊する事に決め、二人は急いで次の宿場へと歩いて行った。


 この川辺宿には【吉備寺】があり、右大臣吉備真備公の菩提所である。


 吉備真備は奈良時代、備中の下道郡の豪族下道圀勝の子で、若くして阿倍仲麻呂らとともに遣唐留学生に選ばれ、十九年間長安にいた。帰国に伴い当時最高水準だった唐の学問や文化をもたらした。囲碁の請来やカタカナの発明も真備によると言われているらしい。その後、再度唐に渡り、鑑真らとともに帰国、国政の重鎮となり、晩年は右大臣まで上り詰めたそうだ。


「とても立派な方だったんですね」
「この地は、吉備真備の縁の場所が沢山残っている。一つ一つ見ていけば、いつになっても矢掛宿には着かんから、さっさと進むぞ」


 そして、風間と千鶴は足早に先を進め、矢掛宿の中へと入って行った。


 矢掛宿の旅籠に到着した後も、風間は黙座したまま何かを考えているようで、そのような時は何を話しかけても必ずと言っていいほど返事はない。千鶴も風間同様、黙止したまま部屋を出て、沐浴をしに風呂場へと向かって行った。


 風間はこの道中の事を考えている。先ほど千鶴に言われた言葉。


 完璧とか素晴らしいとか、そういう事を望むのではなくて、恋の歌を送ったり、甘い愛の囁きとか…… 千景さんには期待しませんけど、そういうのもあっていいかなって思っただけです――


「恋の歌に甘い愛の囁きだと? そんな七面倒な事をこの俺に…… いや、待て…… 千鶴は俺には期待していないと言っていたな…… それはそれで楽だが、俺にはそれができないと思われている事も何故か癪に障る……」


 千鶴の一語一語を反芻しながら御託を並べ立てる風間の背後から、様子を窺うような声が聞こえてきた。


「あの…… まだ考え事をしているんですか?」
「……何も考えてなどいない」
「でも……」


 自分の考え事の原因が目の前にいる千鶴だというのに、当の本人は風呂にも入り、さっぱりとした様子でこちらを不思議そうに見つめている。風間はできるだけ平常心を装う為にゆったりと無何有(むかう)の表情を千鶴に向けた。


「月のものが来る兆しはないのか?」
「千景さん、それを考えていたんですか?」


 風間のその一声に千鶴は勘違いをしたのだろうが、風間は今自分が考えている事を悟られたくはなかった為、それはそれで構わない。よくよく考えてみれば、風間に愛などの囁きや歌などを千鶴に与えるのは到底無理だと感じていたからだった。


 千鶴から出された返事は、身体にもそれが来る兆候がないという事だった為、風間はそれ以上何も言わずに風呂場へと足を運んで行った。


 今まで月のものが来なかった事はなかったのに――
 少しの不安で体調に変化が出てしまうとは、未来の頭領の妻として私は頼りなさすぎる――


 と、一人部屋に残された千鶴は考える。


 風間は今、千鶴を自分の妻として相応しくないと思っているのだろうか?


 精神的に弱い女鬼などは頭領の妻として務まらないと――


「私は…… 千景さんに迷惑…… かけてしまっている」


 鬼は誇り高く格式と古き伝統を重んじる――
 祝言をあげるまでは手を出さん――


 新選組を追っていた頃に風間にそう言われた事がある。そしてその言葉通り、風間は男女の交わりの一歩手前のところまでしか手を出してはいない。


 格式と古き伝統――
 身分や家柄を重んじ、鬼の中で古くから受け伝えられてきたしきたりや風習、考え方の中に祝言を挙げるまでは身体に触れないような規律があるのだろうと千鶴は考えた。


 規律、規則や掟、秩序――
 それらは鬼であろうと人間であろうと窮屈で邪魔な存在でもある。その厳しい鬼の世界の中で生きてきた風間にとって、今の千鶴び精神状態は鬼たちの普段の考えでは、とても軟な存在に見えるのかもしれない。


「私が弱い女鬼だと知ったら、千景さんはきっと……」


 風間のあの性格ではきっと、


「私をすぐに捨ててしまうかも……」


 悪い方向ばかりに考えてしまう上に、広い部屋の中に一人残された事で不安も大きくなった千鶴の頬からは、大きな涙の粒が次から次へと零れ落ちていた――。






 風間が風呂場から帰って来ると、先程と同じ場所に座り込んで落涙している千鶴が目に触れた。


「どうした、何を泣いている?」


 千鶴の隣りに座った風間が顔を覗き込むが、一瞬にして千鶴の顔が反対側へと背けられた。


「おかしな女だ……」


 風間が千鶴をそっと抱き締めると、千鶴の身体が瞬間強張りを見せる。


 何かに怯えてるような、悲しんでいるような――


 この道中にはなかった千鶴の態度が風間を混乱させた。


「何もせん、心配するな」


 落ち着きを取り戻した風間が静かに言葉を紡ぐと、千鶴の心の中が、


 違う!


 と叫び出すのだが、その言葉は喉から先には出て来てくれず、出るのはただただ大きな瞳から零れ落ちる涙ばかりだった。


 初めてだ――
 愛する者を失うかもしれないという事がこんなにも怖くて不安なものだとは知らなかった――


 新選組と逸れてしまった時も、育ての父であった網道が命を落とした時にも悲しみはしたが、ここまで酷くはなかったような気がする。全ての者に対して同じような悲しみが付き纏うものだと思っていた千鶴は、風間に突き放されてしまうかもしれないと考えるだけで身を引き裂かれるような思いをしながら、落涙しているのを不思議がりながらもしっかりと抱き締めてくれている風間の胸に顔を押し付けていた。






「千鶴、いつものように団子を食わんのか?」


 矢掛宿を出た二人が西へと進んでいくが、千鶴の歩く速度がかなり遅い為に、どこかで休ませようと思った風間は、天保元年から創業している【佐藤玉雲堂】で足を止める。


「いえ…… 今日は食欲がないのでいいです」
「今朝も食が進んでいなかったな。お前が食べぬとは信じられんが……」


 普段はいつも鱈腹食べ続けている千鶴を見ていた風間にとっては天から槍やら雹が降ってくるのではないかと言うくらい驚かなければならないのだが、よく思い出してみると朝の食事もかなりの量を残しており、昨夜も眠れなかったのに気付いていた風間が千鶴の顔色を見ると血の気がなくなっている。


「具合が悪いのか?」
「い、いえ…… 大丈夫です。先を急ぎましょう」


 目覚めてから目眩と吐き気が身体中を苦しみを与え続けている為、千鶴は立っているだけで精一杯だったが、風間に心配を掛けたくない一心でできる限り、普通の素振りを装ってはいた。しかし、そのような稚拙なやり方で風間を誤魔化す事はできるわけもない。


 風間の気を逸らそうと先を急がせる千鶴だったが、立っているだけが限界だった千鶴が足を一歩前に踏み出した時、足元がかなりふらついていたようだ。不意に身体が宙を舞うように浮かび上がった。


「な、何するんです? 降ろして下さい」
「降ろしてもいいが、その先は歩けるのか?」
「うっ……」
「今日は先に進めそうにもないな。ここに留まり、お前を医者に診せねばならん」
「い、医者は結構です。」
「何故だ?」
「身体は至って健康です!」
「馬鹿が…… そのように顔色も悪く身体も襤褸衣のような状態のお前が至って健康だと? 今の言葉が冗談なら笑えん」


 千鶴を抱き上げたままの風間は矢掛川の徒歩渡りをすると、いきなり速度を上げて人けのない所を飛ぶように進んで行き、間の宿、今市に入って行き、目の前の場所は鬼の担っている旅籠なのだろう。風間は迷いもなくそこへ入って行こうとした。


 このままだと医者に診せられる――
 精神的に参っているなど言われたら――
 私は千景さんに棄てられる――


 先を予想した千鶴が風間の腕の中で抗いを見せた。


「わ、私は大丈夫なんです…… だから降ろして…… そして、先を急ぎましょう……」


 嘘を吐きながら強情に訴える千鶴が風間の顔を見上げると、至極怒りを表した表情が視界に飛び込んできて、千鶴の身体を纏っている風間の両腕には宛がわれている箇所が苦しい痺れを起こす程の力が込められ始めた。


「い、痛い…… 千景さん痛いから……」
「力を弛めて……」


 千鶴が先の言葉を続けようとすると、更にその腕に力が入り、何も伝える事が出来ず、そこで千鶴が理解したのは、風間が激怒していて抗うのは無理である事。そしてここは黙ったまま風間の腕に身を任せるしかないという事であった。


 旅籠に入った風間と千鶴の姿を見た主が血相を変えて二人に走り寄ってくる。そして、風間からの詳細を聞いたその主は、二人を部屋に通すと急いで医者を呼びに走って行った。


 その間、千鶴の身体は微熱のような火照りを起こし始めて、眩暈も頭痛も激しくなる。そして、胸のむかつきが外へと吐き出され、次第に下腹に鈍痛が疼き始めた。


「何故、このようになるまで黙っていたのだ?」


 風間の静かだが、怒りを含む低い声が千鶴の内耳に突き刺さるように真っ直ぐに入り込んで来る。背中に風間の大きく優しい掌の感触とは反対に喉を通る気持ちの悪い物体に苦しめられ、激しい頭痛に眩暈を起こし、全身にだるさを感じながら止め処もなく涙が零れ落ちた。


 千鶴の吐き気が少しずつ治まりを見せ始めた時、階下から慌しい足音が聞こえ、二人の部屋に近付いて来ていた――。






「全く…… 皆に迷惑を掛けおって……」


 風間の胡坐の上で腰を支えてもらっている千鶴が頻繁に生じる激痛に顔を歪ませている。


 医者が千鶴を診察して下した結果は、予想通りの過度の緊張による精神的なものであった。


 戸隠の事件以来、疲れが取れ切れず、慣れたと思っていた旅路も新しい地へ足を踏み入れる度に不安が生じた事によって月のものに悪い影響を与えていたらしい。その診察が終わった後、千鶴の身体にしっかりと月のものが現れた為、今こうして風間が千鶴の痛みを和らげようとしているのである。


「だって…… 千景さんの妻になるのに私は果たして相応しいのか、風間の一族でもない私が仲間たちに信頼されるのかと考えると不安になっていたんですもの」
「そのような事で月のものが遅れる程に悩んでいたのか」


 風間はそう言った後に千鶴の顔を覗き込んできた。


「な、何ですか……?」


 風間の燃えるような緋色の瞳は、まるで心の中を見透かしているよう――
 千鶴はそれから思わず視線を逸らした。


 すると、やはり風間は千鶴の心中を見抜いていた。


「お前…… 俺に棄てられると思っていたのだろう?」
「あ……」
「己が果たして頭領の妻としてやっていけるのだろうか? 風間の一族から信頼されるのだろうか? もしされなければ、この俺がお前を用無しだと考えるかもしれないと思ったのではないか?」


 心音と共に攻め入ってくる鈍痛に耐えながらも、風間の言葉に顔を朱顔させて黙り込む千鶴の身体を、風間は強く抱きしめた。


「お前は全く…… 鬼であるはずなのに、それらしくない女だ……」
「そうだからこそ、千景さんに相応しくないと考えて、不安になって…… 挙句の果てには棄てられると思ったんです…… でも、私は……」


 千景さんと離れるのは嫌――


 と、風間の胸に顔を押し付けると、くぐもった声音で本音を漏らす。


 心に溜まっていた言葉を吐き出した千鶴をずっと黙視していた風間が更に強く抱き締めてきた。その強さは苦しくもあったが、何故か先程からの不安な気持ちを一転させるように安堵させる温かさをも感じる。


「そのようなつまらぬ事で悩んでおったのか」


 声音は普段通りではあるが、千鶴の見えないところで、風間の表情はかなり柔らかいものとなっていた。


「つまらないって…… 愛している男(ひと)に棄てられるって事がどんなに辛いか……」
「そんなに俺に棄てられるのは辛いか?」


 千鶴の本音を聞いていた風間の心の中に温かい灯が宿る。


「…… 辛いです」


 月のものがそうさせているのか、今夜の千鶴は飼い慣らした仔犬のように素直であった。


 全く自尊心とは邪魔なもので、自分も愛しているという言葉を紡ぎたい風間ではあったが、それがなかなかできないでいる。


 棄てられると不安になった理由の一つには、恐らく風間がその愛の言葉をこの道中、一言も発していないせいもあるのだろう。しかし、風間はこの旅を終えるまでは決して、愛の言葉を紡がない事にしていた。


 だから今は言えない――


 その代わりに、風間は心中で何度も何度も愛の言葉を紡ぐ。


 千鶴、愛していると――


 早く鬼の秩序やしきたりを超えて、千鶴と深い交わりをしたいと欲しているもう一人の自分が風間の中で疼きを起こしている。


 少しでも気を緩ませると無我愛に溺れてしまう。


 愛というものに縁が少なかった風間は今、千鶴から愛の言葉を囁かれて心が満たされている。しかしその雰囲気を外に醸し出してはならない。風間はゆったりとした態度で千鶴を見下ろした。緋色の瞳の中を何も読み取る事はできないない。風間の得意技の一つ、己を隠す術である。


「ここまできてようやくお前も俺の魅力に気づいたようだな」


 本当ならば素直に喜びたいのだが、それを決して表面には表さずに平常心を保ち続けるという、至妙な技を千鶴に見せる風間。


「もう、私ばかりに恥ずかしい事を言わせて…… 千景さんは狡いです」


 拗ねながら文句を放っていた千鶴は風間の胸に埋めていた顔をいきなり上げて問いかけた。


「ところで千景さん、何か考え込んでいるようでしたけど、あれは何だったんですか?」


 その問いかけに、風間は聞いてもらいたくない質問がきたと溜め息を吐き出す。


 あの時の考え事は、千鶴が以前に言っていた恋の歌や愛の囁きについてであった。まさか、これらについて真剣に考え込んでいたなど、千鶴には口が裂けてでも伝えたくない。だから、風間はこう答える。


「何も考えてはおらん」


 しかし、千鶴も昔とは違って、少しずつではあるが勘が良くなり始めていた。


「嘘…… 絶対に何か考えていました」
「考えてなどおらん」
「考えていましたって」
「考えていないと言ったら、考えていないのだ」


 静かな部屋の中で、二人の間にちょっとした言い合いが始まる。しかし、それはすぐに終焉を迎えるのだ。何故ならば――


「腹が痛いのならば少しは黙れ」


 千鶴の上下に動く唇を自分のそれで塞ぐ風間。深くて濃厚な口付けは、先ほどまでの千鶴の思考を吹き飛ばしてしまい、真っ新な更地にしてしまう。そして、この口付けで千鶴は何度も気づく。


 風間が千鶴を愛している事を――
 言葉ではなく、態度で千鶴への愛の深さを伝えてくる。が、やはり千鶴は風間の形良い口元から、魅力ある低い声音で愛の囁きを紡いで欲しいと願う。


 二人の唇の距離が一度だけ離れると、千鶴が頬を膨らませながら文句の一言を放つ。


「狡い……」


 風間はそれに対して意地悪な笑みで返すと、再び二人の唇の距離は狭まった。


 夢見心地な優しい口付けから、溺れるような激しいそれに変化した時、千鶴の下腹部を襲い続けていた鈍痛が少し和らいだような気がした。しかしそれはその時だけで、今回の月のものは数ヵ月なかった分、幾度も打ち寄せる波のように痛みも出血も酷く、千鶴は数日間床に伏せっていた――。




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