西国街道-間の宿今市→七日市宿→高屋宿→神辺宿→今津宿→尾道宿
千鶴を苦しめていた月のものも去り、西国街道を再び歩く事が可能になった。
この今市での滞在中に、天霧からの書状が風間の元へ届いた。風間は読み始めは舌打ちをしながら、
「情報が早いな……」
と顔を顰めていたが、最後の方になると少しだけ柔らかな笑みを浮かび上がらせるが、再び顔を顰めるという繰り返し。
「天霧さんは何を書いてきたんですか?」
元気になった千鶴だが、風間の強引さに負けて布団の上でコロコロと寝転がりながら風間の手許にある文に興味を示していた。
「ああ、お前の体調を心配してくれたらしい」
「初めは機嫌悪そうでしたけど、今はそうではないのですね。あれ、また機嫌が悪くなってます?」
風間の変わり行く表情をしっかりと観察している千鶴は、その内容だけでは物足りなくて尋ねる。
「風間や天霧の一族は心の狭い鬼ではない。だから安心して里に来るよう書いてある。そして無理のないように旅を続ける事と、最後に嫌味だな…… 俺の仕事は山のように積まれてあると書かれている」
「天霧さんに私の不調の要因を事細かく知らせたんですか?」
「ふん! 俺があやつに知らせるわけがなかろう。大方、忍びの鬼がお前の体調を詳しく伝えたのだろう」
自分の事が全ての鬼に筒抜けに知られていると分かった千鶴が顔を真っ赤にさせてあわあわと口を動かすが、言葉が喉の奥で引っ掛かってしまい音となって出て来ない。そのような千鶴を見た風間がニンマリと笑い、布団の中で横たわっていた千鶴をいきなり抱き上げた。
「しかし、嫌味は別として、無理のない旅をするようにとは…… 急いで帰る必要もないという事か。天霧もかなり軟質になったものだ。いつもなら目を吊り上げて説教をしてきたものを……」
風間が千鶴の首筋に唇を押し付ける。最初は軽く柔らかい吸い付きが、徐々に重く強い吸い付きに変化していき、何度も同じ箇所を少しずつずらしながら攻め続けた。
「ん…… ぁ……」
攻め続けられている同じ箇所は首筋の中で千鶴が一番弱いとしている所であり、そこは既に湿気を含む熱を起こす。暫くの間、甘い余韻に浸っていた千鶴は先程の風間の言葉を思い出し、その余韻から抜け出すように身体を起こした。
「さっきの言葉を思い出したんですけど、いつもなら説教をしてきたって……?」
「鬼の格式と伝統に従わなかった時に決まっているだろう? 格式や伝統といっても、身体を重ねる事だけではない。色々と規律があるのだ」
「例えば……?」
すると、風間が自分の両手で幅を作りながら返事をする。
「鬼がどのようにあるべきかについては、これくらいの厚さのある書物に隙間なく書かれている。ざっと数えたところで百以上はあるが、それから例えを抜粋するのは困難だ。だからといって全てを教えれば、夜通しは必須だ。それでも知りたいか?」
「そ、そんなにもあるんですか? でも、あちらの里で生活をするのなら、この道中で少しずつ教えてもらえれば有難いんですけれど……」
一度に全てを教えて欲しいわけではない。それにそうされたとしても、千鶴の頭がそれらをすぐに理解できるわけでもない。しかし、百以上もの規律があるのならば、この道中から少しずつ覚えていった方が合理的ではないかという考えを伝えるが、風間は呑気なもので、
「里に着いてからゆっくりと覚えれば良い」
などと返事をしてくる為、千鶴は、
「私は千景さんじゃないんだから……」
と、大きな溜め息を吐いていた。そして翌日、風間と元気になり食欲旺盛に拍車を掛けた千鶴は間の宿である今市を出立した。
二人は歩き続け、芳井川(小田川)を人足による歩き渡りを終え、七日市宿へと入って行った。
歩きながら、疑問に思った事をもう一度聞いてみようと千鶴が言葉を紡ぐ。千鶴はまだ、鬼の事については詳しくは知らない。その上に風間は隠し事が多すぎる。何でもはぐらかされ続けている千鶴にとっては悔しいの一言でしかない。
「あの、鬼の遊女の事なんですけど……」
「何だ?」
「会った事があるんですよね? 確かに君菊さんも美しかったですけど、そんなに女鬼って誰でも美しいんですか?」
千鶴のいきなりの質問が遊女に関しての事だったが、これに関して風間は普通に説明をしてくれる。
「鬼の殆どは眉目秀麗だ。それに鬼の寿命は長いという事は、年を取るのが遅いのだ。その為、美しさが長く保たれる」
「質問を間違えました。何で会ったんですか?」
「忍びの鬼だ。情報を得る為に決まっておるだろう? それ以外に何の意味がある」
「情報を得るだけの為に会うんですか? だって店に行くんですよね? 布団とか敷いてある部屋にも行くんですよね? 何もないっておかしくありません?」
千鶴が息継ぎもせずに質問を並べ立て、風間に言葉を選ぶ暇も与えさせない。
「お前…… 何が言いたいのだ?」
少しの苛立ちを見せた風間が千鶴にグイッと詰め寄ってくる。これは質問して欲しくなかったのかと千鶴は思い、繰り返し同じ質問を続けると、風間は口元を歪ませながら千鶴に言葉を投げつけた。
「それに俺が答えなければいかんのか?」
「はい……」
「お前には関係のない事だろう?」
「今は関係あります。私は千景さんの妻になるんでしょう? 過去の事も知っておきたいですし……」
「知っていい事と知らなくともいい事があると思うのだが……?」
「千景さんの事は全部知っておきたいです」
カクンと風間の身体が折れてしまう。自分の過去には知られたくない事も幾つかあり、それを知った千鶴の反応がどうなるのかも不安である。それだからこそ、西の里に到着し、祝言を挙げてからじっくりと自分の事を知り、理解してもらおうと思っている風間には酷な質問であった。
「身体は重ねてはおらん。あちらの鬼も規律は守るからな。遊びならするだろうが…… お前が島原に潜入していた時もそうであったろう?」
「えっ? でも、とても顔が近かったような……」
「あれぐらいの事は誰でもするだろう?」
「千景さんも愛の歌や囁きするんですか?」
話を変えて次々に質問をしてくる千鶴が、風間にとって一番痛い所を突いてくる。どうも風間にそのような言葉を言わせたいらしい。
風間は、大きな大きな溜め息を吐きながら呆れ果てた表情を千鶴に見せた。
「島原でお前にいったであろう。『我が妻に相応しい』と……」
千鶴がポカンと風間を見つめる。その姿が可笑しくもあったが、表情を崩さずに腕を組み、背筋を伸ばして自分より背の低い千鶴を見下ろす。
二人の間には暫くの間、切なさを感じる風が舞い踊った。
「あ、あれが…… 千景さん流の愛の歌であり囁きなんですか?」
「そうだ。何か文句でもあるのか?」
先ほどからの千鶴の連続質問を聞きながら、島原で自分が言った事を思い出した風間は機転を出したが、間抜け面で素っ頓狂な声を出す千鶴に風間の両肩が震えそうになる。
「お前が不可解な質問をしている間に高屋宿に来てしまったではないか」
風間と千鶴の前には狭い道幅の両側に家並みが続く宿場が見えてきていた。
「遊びだったらするんですか?」
「しつこい! 口ばかり動かさんとさっさと歩け!」
高屋宿に入っても千鶴の質問の言葉が次々と放たれたが、風間はそれを見事に跳ね返して歩いた。
二人は高屋宿を過ぎた辺りで【福山城】を見に行った。
この福山城は福島正則改易の後、譜代大名の水野勝成が元和五年に備後十万石の領主として入府し、築いた城だ。それまでは神辺にあった城を廃してここに新築した。歴代の藩主は、水野氏五代、松平氏一代、阿部氏十代と続き幕末を迎えたが、幕末の老中を勤めた阿部正弘も城主だった。そして、風間と千鶴は神辺宿へと足を運んで行った。その途中で【八丈岩】と書かれた道標がある。
この八丈岩には鬼伝説があるらしく、風間がその伝説を千鶴に話しながら歩いて行った。
御領山と権現山の鬼が高さをめぐってけんかをして、御領山の八丈岩の鬼は栗を、権現山の鬼は岩を投げ合ったので、御領山は岩だらけ、権現山は栗山になり、御領山は、岩の分だけ高くなったそうだ。
「これは、御領山の鬼が勝ったんですよね?」
「岩の分だけ高くなったのだからな。しかし、どちらが得となったのか不思議ではないか?」
「千景さんが、伝説で貶さなかったの初めてです…… 雨が降るんじゃないですか?」
千鶴が空を見上げてみると、やはり――
重みのありそうな灰色の雲がゆっくりと広がりを見せている。
「今日は今朝から雨のはずだったのだ。少し遅れて雲がやってきたのだな」
「雨が降るって分かるんですか?」
千鶴が不思議に思って尋ねると、風間がクンッと顔を上に上げて匂いを嗅ぐ仕草をしていた。
「雨の匂いがするのだ。普通の鬼ならば分かる事よ…… 人間も雨が降る気配は感じるらしいが…… まさか、お前は分からないとでも言うのか?」
風間に言われた千鶴が、先ほどの風間の真似をして鼻を動かしてみるが匂わない。
「匂いません……」
「お前という女は、鬼としても人間としても鈍感の部類に入るのだろうな……」
「ひ、酷すぎます……」
風間がせせら笑いながら千鶴を貶している間に、頭上からポツポツと小さな涙粒が零れ落ちてきていた。
雨の中、二人は少し先を急ぎ【日吉八幡宮】の脇の木陰に身を隠していた。
「長くて高い石段ですね」
両脇は鬱蒼とした木立に囲まれ、下段には大きな鳥居が聳え立ち、その鳥居を潜ったすぐ目の前から石段が続いている。
「雨、止みませんね……」
乾いた手拭を出した千鶴が自身を軽く拭いた後、風間の濡れた髪の毛を優しく撫で上げるように拭いていく。その感触が風間の胸にチクリと針を刺すかのように何かを感じさせた。
この時に風間は知った。
この胸の痛みこそ恋であり愛であるのだと――
暫くの間、向かい合いながら千鶴の両手だけが静かに動いていたが、その両手首を風間が優しく掴む。
人気もなく、木の葉に当たる雨音だけが響く中、二人の身体は温め合うかのように隙間を埋め、静かで長い貪りが続いていた――。
やっと小雨になった頃、相も変わらず余裕の表情を浮かばせる風間と、先程の甘い貪りで照れているのか、ほんのりと頬を紅に染め上げている千鶴が木立から抜け出し、そのまま黒松の松並木の間を歩き続け、神辺宿へと入って行った。
神辺宿に入り暫く歩くと、【荒神信仰】の拝殿があった。この荒神は囲炉裏や竈に祀られる火伏せの神の事だそうだ。
「人間はどこにでも神がいると信じておるのか?」
自分で千鶴に説明をしながらも馬鹿にしたような言い方をする風間に、千鶴は一言を放つ。
「人間はどんな小さな物にも神がいると信じて感謝しているんですよ」
高屋川の渡しの場所へ来た二人は、この雨にも関わらず、渡しが出来ると聞き、すぐに高屋川を越えて行った。二人はぎりぎりのところでこの川を渡れる事ができたが、その後は流れが急に早くなったという事で、西側からと東側の旅人は足止めを食らってしまっていた。
「渡れて良かったですね」
「これでまた遅れると、天霧が雷を落とすかもしれんな」
「え、でも無理のない旅をするようにって、文に書いてあったじゃありませんか」
「あの後の嫌味の言葉をもう忘れたのか? 俺の仕事は山のように積まれていると…… あれはできれば早く帰って来いという催促だ」
あの優しそうな天霧さんが――
千鶴が天霧の顔を思い浮かべていると、少し機嫌を損ねたような声が耳に入ってきた。
「俺の前で他の男の姿を思い浮かべるな」
「他の男って…… 私が思い浮かべていたのは天霧さんですよ?」
「天霧も男だ……」
表情は拗ねたような、怒っているような感じである。
嫉妬してくれているのだろう――
先程の甘い歌や囁きも欲しい千鶴だが、口に出さずとも自分の気持ちを分かってくれている。それに、愛の歌や囁きのように抱き締めてくれ、風間自身で愛を与えてくれている。今はそれで十分満たされているではないかと思い始めるのだった。
先を進んで行くと、二人は【天別豊姫(あまわけとよひめ)神社】に突き当たった。
この神社は民たちに【あまわけさん】と呼ばれているらしい。麓に銀杏の大木があり、高い石段を上った山の中腹にそれはあった。
この上の山は黄葉山と呼ばれ、かつての神辺城跡だ。建武二年に備後国守護朝山條就が築城し、以後、戦国時代まで山名氏など歴代の守護の居城となっていた。元和八年、水野勝成が福山城を築城し、神辺城は廃城となった。なお、この山はもともと紅葉山と呼ばれていたそうだが、天保十四年、福山藩主阿部正弘が老中に就いた際、江戸城内の紅葉山に対し憚りありとして黄葉山に改名したそうだ。
この後から雨が再び激しく振り出し、風間は今日はこの宿場で泊まると千鶴に伝えると、既に行き先は決まっている旅籠へと向かって行った。
旅籠に着いた二人は、用意してもらった風呂に入り身体を温めた後、温かい夕餉を出してもらった。
春とは雖もまだ夜は肌寒い。明日の準備を整えた千鶴が既に布団の中に入っている風間の横へいそいそと滑り込んでいく。布団の中は、風間が先に入っていてくれたお陰でふんわりとした温もりがあった。
風間が千鶴の頭に軽く口付けを落とし、徐々に顔へと移動してくる。その動きに抗う事なく素直に受け入れる千鶴――。
額、瞼、頬…―― そして唇を優しく塞がれていく。そして唾液の交わる音が響く長い口付けの後に耳朶に歯を当て、千鶴を鳴かせ続ける。
雨が旅籠の屋根や壁を打ち付けるように激しく地へ降り注いでいる。そのような中、風間と千鶴の静穏で甘やかな夜がゆっくりと時を刻んでいった――。
翌日、昨夜の大雨が嘘だったかのように晴天に恵まれた。二人は旅籠を出立して、次の宿場。今津宿へと向かって行った。
神辺宿を歩き終えた二人が先に進んで行くと、左手に【夜泣き地蔵尊】がある。この地蔵には悲しい伝説があると風間が話し出した。
お寺の松が夜中に赤ん坊の泣き声で泣くので、村人が寺の和尚に相談すると、お腹がすいて乳を欲しがっていると言う。村人が相談して女の人から乳を集めてお祈りをしながら松の根に流すと夜泣きはぴたりとおさまった。村人は不思議がったが、たった一人、寺男だけがそのわけを知っていた。
昔、九州の殿様がここを通るとき、奥方が突然産気づいて子供を生んだが、双子だった為、争いのもとになると、殿様の命令で、一人をさらって埋めた家来がその寺男で、ここに住みついて墓守をしていたという。寺男は、
「村の人たちが拝んで下さるのでもう安心して死ねる」
と静かに息を引き取ったという。
「双子だと争いが起こるんですか?」
「両方が男だとすれば争いは起こるだろうな。これが男と女であれば上手くいくのだ。お前と南雲薫のようにな。ただ、鬼と人間は違う。鬼の世界では双子が男と女だとしても争いは起こるやもしれん」
「薫は女に生まれたかったんでしょうか?」
「過去には思ったかもしれん。しかし、今はそうとも思ってはおらんだろう」
千姫がいるからな――
風間は少し表情を緩めると、千鶴に先に行く事を促すように手を握り締めてきた。その手に応えるかのように千鶴も握り返すと、二人は芦田川を舟渡しで対岸に渡って行った。朝から暖かさを感じさせる太陽が地面をすっかり乾かしてしまっている。二人は芦田川の近くの土手で、先程の旅籠の主人から持たせてもらった握り飯を食べる事にした。
「千鶴…… 今、何個目を食べている?」
「今でひゅか(今ですか)? しゃん個目でひゅかね(三個目ですかね)」
旅籠の主が持たせてくれたのは、千鶴の両手を覆う程の大きさの握り飯である。それをパクッパクッと大きな口を開けて二、三口程で食べ切っていく。
千鶴の口の周りには米粒が数粒こびり付いていた為、風間がそれを丁寧に取ってやるのだが、再び膝の上に置かれていた竹の皮の上の握り飯を頬張り出した千鶴の口元には米粒が少しずつこびり付き出していた。
取るのが面倒臭くなった風間が、取る事を止めてその米粒を放ったらかしにする。千鶴はそれに全く気付かずに、次に休憩をした茶屋で初めて店の女に指摘されて手鏡を出して覗き込んだ後、身体を固まらせたまま動けなくなってしまっていた。
千鶴の横では笑っているのだろう。顔を反対側に向けて肩を震わせている風間がいる。
「千景さん…… 全部取ってくれなかったんですか?」
パリパリに乾いてしまった米粒を一つずつ丁寧に取りながら風間の方を睨み付ける千鶴に、一通りの笑いを終えた風間は、それがどうした? と言うような顔付きで千鶴の方を睨み返してきた。
「お前に女としての自覚を持たせてやっているのだ。俺がいつまでもあのように取って世話をしてやっていては成長せんからな。これで分かったろう? 飯を食った後にはしっかりと手鏡で己の顔を見る事だな」
「うううぅ!」
その後、甘いたれの掛かった団子を食べ終えた千鶴がしっかりと手鏡を見たのは言うまでもなかった――。
今日は天気も良く、二人の足取りも快調に前へと進み続けている。速度も落とさずに歩いて行くと、【神村八幡神社】の前に到着した。
この場所は山伏と人目を忍ぶ仲となって鋸引きの刑に処せられた八重という神辺城主の側室の悲しい伝説があるらしい。
「忍ぶ仲ですか? 身震いがしますね。もし、私が違う男の方と恋仲になったら、千景さんはどうします?」
風間が何か言ってくれるのではないか? とワクワクしながら返事を待つ千鶴に恐ろしい一言が返ってきた。
「妻になるお前がそのような事をすれば、俺の面子が形無しだ。よって、俺の愛刀であの世に送ってやる……」
蛇のように目を細めながら千鶴を睨み付け、低く感情のない声で言いながら歩いている。
風間の殺気の漂わす声音と言葉に恐ろしい程の悪寒を感じた千鶴が必死になって弁解をした。
「じょ、冗談ですよ…… 私がそんな事をする訳がないじゃないですか……」
怯えきっている表情もまたそそられるな――
風間は先程の表情を崩さないまま千鶴に向けると、
「お前がそのような事をする訳がないに決まっておるだろう。全てを兼ね備えた俺が夫になるのだからな。満足をしない訳がない」
と、自信満々に言葉を出して千鶴の耳元に顔を近付けると、温かい息を一吹きした。
「こちらも冗談で言ったのだが…… お前は本当に斬られると思ったのか?」
先程の態度と言葉が冗談ならば、恐ろしい冗談である。この男は本気で怒れば迷いもなく斬るだろう――。
千鶴は、目の前で緋色の瞳の中にからかいの笑みの色を宿す男を見つめながら、引き攣った笑いしかする事が出来なかった。
そのような二人は本郷川の渡しを越えて、今津宿へと足を踏み入れた。そして、今津宿の宿場内を歩き続けた二人は、藤井川の渡しを超え、難所峠の一つ、【防地峠】の長い上り坂を上り、次に長い下り坂を下って尾道宿に入って行った。
一気に峠を越えた千鶴は息を切らせてぐったりとしている。
「今宵はこの尾道で泊まるぞ」
風間が千鶴を軽々と横抱きすると、そのまま尾道宿の旅人が行きかう中を縫うように歩いて行った。途中、通り過ぎる旅人たちの振り返って見つめてくる視線の矢が痛い程に刺さる。
「千景さん、歩けますから降ろして下さい」
千鶴が小さな声で頼んでみるが、風間は周りも何も気にしない様子で大股でどんどん先を進んで行く。
「構わん。見たい奴には見せおけば良いのだ」
風間は堂々と宿場内を歩き続け、泊まる旅籠の中に入って行くと、そこの主人はニッコリとこちらを向いて笑って頭を下げてきた。
「おやおや、仲のおよろしい噂は本当だったんですね。ささ、部屋を用意してありますから、どうぞごゆっくり……」
両手を大きく開かせて二人を歓迎した後に、部屋へ案内をしてくれる旅籠の主人に、千鶴は苦笑いをするしかなかった。
天霧からの書状が届いてから風間の行動は前よりも大胆なものとなっている。それは、西の里の風間と天霧の一族が千鶴を頭領である風間の妻として認めたからに違いなかった。
既に夫気取りの風間は、西へ進む道中でも人目を気にせずに色々と何かをしてくる。その時は周りの旅人たちの視線が一気にこちらに向き、千鶴は朱顔させてしまうのだが、風間は寧ろそれを楽しむかのように執拗に千鶴をからかうのであった。
二人が通された部屋には既に布団が敷かれている。
「ほう…… 主は気の利いた男だな」
風間は抱き続けている千鶴に顔を向け、悪戯っ子のようなあどけない微笑みを見せた為、千鶴の身体には異様な心音が激しく鳴り響く。
「な、何を言っているんですか!? まだ明るいのに!」
「明るければお前の鳴く姿もよく見える。楽しみだ」
「な、何が楽しみです! ちょっ…… ちょっとぉぉぉぉ!」
「約束通り、最後まではせん」
「でも、その寸前までするじゃないですか!」
風間に抱かれている千鶴は抵抗するものの、男の力には到底及ばず、そのまま布団へと連れて行かれてしまった――。
布団の中で執拗な愛撫を受けて怒る千鶴と、それを楽しそうに見つめている風間の部屋にはなかなか夕食を持って来てはくれない。
「もしかして、今日は夕食抜きなんじゃないでしょうね?」
千鶴の腹が惨めな鳴き声を上げて御飯を催促し始めている。あまりの空腹に腹と背中がくっ付きそうである。しかし風間は、夕食がこの部屋に持ち込まれない事を既に知っていたようだ。腰を下ろしていた場所からいきなり立ち上がると、
「今宵は会合があるのだ。この尾道は大きな宿場だからな。鬼たちも多く会合を開きやすいのだ。行くぞ」
と千鶴に声を掛けてきた。
「えっ? 私も行くんですか?」
前の会合の時は千鶴の事を想ってくれた風間が、気分転換にと連れて行ってくれた。だから、千鶴が鬼の会合に顔を出すのは今回で二度目となる。しかし本当は、あのような所へ千鶴を連れて行くのをあまり好まないようにも感じた。
「ああ、お前に美しい鬼の遊女を見せてやる」
「ええっ?」
「今宵の会合は、そういう場所で行われるのだ」
今までそのような場所には連れて行ってくれなかった風間がご機嫌な笑みをこちらに向けて誘ってくれている。千鶴は用意を終えると、風間に付いてその店へと向かって行った。
「いらっしゃいませ」
店の中に入ると、鬼たちが集合している部屋へと案内される。そして、風間と千鶴がその部屋に入るなり、多数の鬼の中からどよめきが起こり、一斉にこちらに目を向けてきた。
「な…… 何……?」
千鶴が驚いていると、風間に挨拶をする鬼たちが千鶴にも丁寧に挨拶をしてきてくれる。
「あれ、千鶴…… 来てたんだ?」
聞き慣れた声が背後から投げ付けられ千鶴がその声の方に振り向くと、前の会合以来の薫がニッコリと笑いながら立っていた。
気のせいだろうか? 表情が柔らかいものとなり、言い方は相変わらずだが刺々しくはなくなっている。
「薫、久し振り…… お千ちゃんは元気にしてる?」
「ん…… 相変わらず煩いけどね」
返事も素っ気無いが、千姫の話しをしても顔を顰める事がなくなっており、少しだけ照れたような雰囲気を千鶴に見せた。
「しかし、お前も変わったんじゃないの?」
「えっ…… 私が?」
「さっきの鬼たちの反応を見たかい? 驚いていたみたいだよ。俺の隣の男なんて、お前が美しいって連呼してたしさ」
「私が綺麗?」
と千鶴が驚く。風間には言われた事もない為、自分自身を綺麗だとは思った事はなかった。
「よう! 雪村の姫さん。久し振りだな…… って…… お前…… ちっと雰囲気が変わったな?」
遠くから薫と千鶴を見つけた不知火がこちらへ歩み寄って来て挨拶をしてくれたが、驚いたように千鶴を見つめてきて、
「ふうん…… 鬼同士がしっかりと愛し合うとこうなるのか……」
と、訳の分からない事も呟いていた。
今回は会合とはいっても形だけのもののようで、早速宴会が開かれ始め、襖の向こうから遊女らしき鬼が入って来た。
「綺麗……」
艶やかな衣装を纏った女鬼は、遊女の姿でありながらどこか品が漂っている。その姿を千鶴がうっとりと眺めていると、遊女たちは迷いもなく風間の方へ歩いて行った。
「えっ…… 何で?」
千鶴の眉間に皺が寄る。隣に座っていた不知火が面白そうに顔を歪め、薫も楽しそうに千鶴の観察をしている。
「ちょ、ちょっと不知火さん…… あれは一体どういう事ですか?」
風間の傍に群がる遊女たちに指を差した千鶴が不知火に問いかける。
「知らねえよ。しかし、風間は黙ってりゃ鬼の中ではピカ一だからな。もてて当たりめえだろ」
「で、でも…… 私がここにいるんですけど!」
遊女は風間の隣に座ると、風間の手の中にある杯に並々と酒を入れ出した。
「千鶴……お前、顔が怖いぞ。頭領の妻になるんだろう? あれくらいの事で払建ててないでにこやかに笑っておけよ」
薫が覗き込むように千鶴の顔を見つめて注意を促してくるが、目の前の光景を見て呑気に笑っていられるわけがない。
苛々が身体の奥深くから湧き起こり、どうしたものかと唇を噛み締めていると、背後から突かれる感触を受けて咄嗟に振り向いた。するとそこには、千姫が人差し指を唇に当てて手招きをしていた。そして千姫の所に近寄って行くと、いきなり手を引っ張られて違う部屋へと連れて行かれてしまった。
「お千ちゃんも来てたのね。うわぁ! 君菊さんも!」
千鶴が嬉しそうに千姫に言葉を掛けると、
「挨拶は後よ……」
と言いながら、目の前にある着物を広げている。
「ねえ、今からちょっとこれに着替えてくれない?」
「えっ、これに着替えるの? でも、これって……」
どう見ても、風間に群がっていた女たちが身に纏っている着物だ。千鶴がその着物を前にして躊躇っていると、千姫はいきなり意地悪い笑みを浮かべた。
「いいからいいから! 風間を驚かせるの! 薫と不知火も知っているのよ」
そして、千鶴は千姫と君菊によって、目の前の着物を無理矢理に着替えさせられていた。
地方の鬼たちと会話をしていた風間が周りを見回し、この部屋の中に千鶴の姿がない事に気が付くと、不知火と薫の傍へ歩み寄って行く。
「おい、千鶴を知らんか?」
「へっ…… 千鶴か!? あんれ、さっきまで俺らの隣りにいたんだけどなぁ…… どこへ行ったんだぁ?」
わざとらしい――
風間が顔を顰めながら薫の方に振り向くと、薫もまた不知火のように知らないの一点張り。
「俺も知らないよ。他の女鬼とでも喋ってんじゃないの?」
こちらは性格上、心中を読み取りにくく、何を考えているのかも分からない。
風間が二人の様子をじっと睨み続けていると、いきなり奥の襖が開き、一人の美しい遊女が千姫に連れられて入って来た。
「うおっ! 別嬪な遊女だな! 上玉だぜ!」
不知火が徳利を片手に持ちながら褒め言葉を出すと、薫は目を見開いたままその遊女の方を見つめ続けている。
「あんなに変わるものなのか……!?」
その部屋の多くの男鬼が感嘆の言葉を出しながら美しい遊女の傍に歩み寄って行き、その遊女を口説き始めている。一気に男たちが近寄って来た為に、顔の表面に驚きを見せる遊女と千姫が困り顔になり始めていた。
そこに風間がいきなり動いた――
着物の裾など気にせずに、大股でずかずかと多くの男たちの間に割り込んで行く。
「やっと気付いたか…… 変なところで気付くのが遅い鈍感男なんだよな」
徳利の酒を呑みながら不知火が毒づくと、薫は力が抜けたようにペシャンとその場に座り込んだ。
「……やっぱり俺の妹は美しいな……」
「お前なぁ…… いい加減に妹惚気を止めろ! 気色悪ぃ……」
初めは奥から入って来た遊女が誰なのかも分からずに、風間も見惚れてしまっていた。しかし、瞬時に見せた困惑顔で千鶴だと気づいたのである。千姫と君菊は見事に千鶴を化かせていたのだ。
周りの男共を蹴散らすように解散させ、遊女に扮した千鶴に歩み寄って行った風間は、ようやく千鶴の前に辿り着いたかと思うと、いきなり抱き上げて部屋から出て行こうとした。
「頭領! その女は遊女だろ!? 頭領には雪村の女鬼がいるではないか!」
多数の鬼たちが口々に叫ぶ中、風間の片足が殺気だった空気を部屋中に充満させるかのように壁を強く蹴破ると、一気に部屋の中が張り詰めた空気と化してしまった。
「何かあるとは思っていたが…… 千姫…… 悪い冗談は止せ。鬼たちの理性を壊乱させる事が分かっていて我が妻になる千鶴にこのような格好をさせたのか?」
静かすぎる風間の声音――
このような時の風間は、相当怒っていると考えていい。
「ま…… まさかこんな事になるとは思わなかったのよ。千鶴ちゃんがこんなに綺麗になったから風間を驚かせられると思って私も得意になってしまって……」
風間との喧嘩慣れをしている千姫でさえも、今の風間には逆らえないと思ったのか、恐怖の表情の色を出していると、薫が千姫の前へと進んで行った。
「この悪戯は俺たちが考えた。少し度が過ぎたみたいだね……謝るよ」
と、静かに頭を下げる。その姿を見た千鶴は、やはり薫は変わったと感じ、薫の後ろで守られている千姫の瞳には潤いが生じていた。
「な、何だ…… あの遊女の格好をしてるのは雪村の女鬼だったのか……」
鬼たちがざわめく中、風間の表情は依然、不機嫌さを醸し出したまま、
「会合の途中で悪いが俺たちは帰る……」
千鶴を抱き上げたまま部屋を出て行ってしまい、その後、暫くの間は静かな宴会が続いていたが、
「風間も頭領である前に、一人の女を愛する男だったという事か……」
と、途中からは、風間の意外な行動に驚いた話題で盛り上がりを見せていた――。
暗闇の中の帰り道、千鶴が風間の顔色を窺うと、不機嫌極まりない色を放っている。
「千景さん…… 私歩きますから…… 下ろしてくれませんか?」
恐る恐る言葉に出してみると、鋭い睨みを頂戴する上に、よく考えてみると下履きも履いていない為、仕方なく大人しく抱かれ続けていると、
「なかなか美しいではないか」
いきなり吐き出された言葉に千鶴が驚いた表情を浮かばせ、近くにある風間の顔を見つめた。
「この俺が美しいと言っているのだ。自信を持つがいい。しかし…… 俺の前以外では二度とこのような姿は許さん、分かったな……?」
壁を蹴破るほど激怒した風間を初めて見た千鶴の心は、恐怖どころか激しく燃え上がる程の熱が込み上げている。
旅籠に戻り、部屋に入った風間は千鶴を布団の上に寝かせると、いきなり自分の着物を肌蹴させ始める。
「さて…… 遊女とやらと遊ばせてもらうとするか。遊女ならば何をしても構わんだろう?」
その言葉に千鶴が否定の返事をしながら、布団の上から上体を起こそうとした。
「私は遊女じゃありません!」
しかし、目の前の風間はとても楽しそうな笑みを浮かべて、
「遊女の姿をしているのだから遊女だ」
と言い放つと、起こした千鶴の上体を再び布団の上に押し付けるようにして倒した。
「あ、あれはしないっていう約束ですからねっ!」
風間の悪だくみに気づいた千鶴がまだ自由の残っている両足でもがくと、
「あれは千鶴との約束だ。今は遊女とするのだからな。別に最後までやっても誰も文句は言うまい」
千鶴のもがく両足の間に自分の両膝をつき、左右に開いた。
足掻こうにも千鶴の着ている衣装がかなり重たくて自由に動く事ができない。
「……諦めろ……」
風間が一言その囁くと、口を塞いできてそのまま――
と言いたいところではあったのだが――
「この着物は何なのだ? 全く、千姫め…… 脱がしにくいように着付けをさせたのだな!」
遊女の服は脱ぎやすいものなのらしいが、千鶴の身に纏っている着物は結ぶところはしっかりと結ばれていて先に進む事ができない。
そう、風間と千鶴の道中の約束事を知っている千姫と君菊は、千鶴のこの姿を見た風間が理性を失くして暴走しないようにと、優しい心遣い? を施してくれていた――。
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