鬼の規律の追加-sidestory-


「天霧、今日は仕事を休む」
 風間がこのような事を口走る時には必ず千鶴に関係がある。
 普段、風間がこのような事を言う時の天霧の態度は冷めている。
「何を勝手な事を言っているのですか。さっさと用意をして下さい」
 そう言って支度を急がせると、仕事に行くのを渋る風間を無理やりに引っ張って行くのだ。しかし、長年共にいたせいだろうか。天霧は風間の口調だけで、仕事に行かせるか行かせまいかの判断ができるようになっていた。
「ああ、今日は急ぎの仕事もありませんし、休んでも構いませんよ」
 昨日から月のものが訪れたらしい千鶴のそれはかなり酷いもので、起き上がる事も儘ならないらしい。
 いつも夜遅くに就寝をする天霧は昨夜、二人の寝室の明かりが夜明けまで点いていたのを思い出して、風間が仕事を休みたいという理由が分かったのだ。
 天霧の許しを得た風間の顔が安堵の色を浮かばせる。そして千鶴が月のもので苦しんでいるであろう寝室に姿を消して行った。
 千鶴を妻に娶った風間は以前と比べて変わった――
 天霧は風間の後ろ姿を見てそう感じていた。
「物腰が柔らかくなったというか…… とげとげしいところがなくなったというか……」
 独り言を放ちながら廊下を歩いて行くと、前方から湯呑などを乗せた盆を手に持っている相模がこちらに向かって早足で歩いてきた。
「相模さま、どうされたのです?」
 天霧の横を急いで通り過ぎようとする相模に向かって声を掛けると、今ようやく天霧の姿に気が付いたのか、いきなり立ち止まると凝視してきた。
「ここで何をしているのです?」
「何をとは…… 風間が今日は仕事を休むと言うので、重要なそれも今日はありませんから、仕事を休んでもいいと今しがた伝えたところです」
 天霧が先ほどの風間とのやり取りの事を伝えると、相模が大きな溜め息を吐き出した。
「男が仕事をしないでどうするのです? 今すぐに千景をあの部屋から追い出さなければ……」
「しかし、千鶴さまは今、あれでしょう? この時期の時にはいつも休んでいるのですよ」
 今までの相模ならば追い出す事はしていなかったと考えながら答えると、相模は更に大きな溜め息を吐き出した。
「千鶴さまのお気持ちも分かりなさい」
「はっ……?」
「ゆっくりとお休みになる事ができないでしょうが……」
「えっ……?」
 相模の言っている事が理解できない天霧が首を傾げた時、風間と千鶴の部屋から悲痛な声音が聞こえてきた。それを聞いた瞬間、相模の表情に歪みが走る。
「ほら、御覧なさい……」
「はあ……?」
 未だに理由が分かっていない天霧など放ってしまった相模が、無遠慮にその部屋の襖を押し広げた。
「千景! 外に出なさい!」
 年老いて小さくなった相模の背後に立った天霧が部屋の中を覗いた途端に両目を見開く。
 天霧の視界の中には、確実に寝不足であろう―― 両目の下に濃いくまを作り上げた千鶴が、風間からの執拗な愛撫を受けている姿が映し出されていた。
「腹のどこら辺が痛むのだ?」
 痛む腹を撫でまわしてなどいない。風間の手はしっかりと千鶴の胸の上に乗せられている。
「だ、だから…… もう大丈夫ですから、千景さんは仕事に行って下さい」
「お前がこのようだから仕事を休んだのだ。存分に甘えるがいい」
 風間は千鶴の耳元で囁くような仕草を見せながらも、首筋辺りに熱い口付けを落としている。
「良い香りがするな……」
 甘えているのはどちらだ――
 全く、厭らしい感情を持った放蕩大名のようだ。
 天霧は目の前の風間の姿を見て呆れた溜め息を吐き出し、相模の言う事を聞く事にした。
「風間、私の気が変わりました。今から仕事に行ってもらいます」
 天霧の言葉に風間が鋭い視線を向ける。
「お前は先ほど、急ぐ仕事もないから休んでもいいと言ったはずだ。鬼は約束を守るものだろう?」
 そう、鬼は約束を守るものだ。しかし例外もある事を忘れてもらっては困る。
 千鶴は今や、この西の里の頭領である風間の妻。その千鶴の困り果てている姿を見ると、仲間として助けてやりたいという衝動に駆られてしまう。
 天霧の言葉をも無視しようとする風間に対し、盆を持った相模が風間の腰を小さな足で一蹴りした。
「ほら、九寿もこう言っているのですから、さっさと部屋から出て行きなさい!」
 すると、天霧に向けていた睨みを相模に移す風間。
「相模…… 頭領であるこの俺を蹴るとは……」
 しかし、風間を幼い頃から育ててきた相模は恐れもしない。盆を畳の上に置くと、風間が抱いている千鶴を自分の方へと引き離した。
「千鶴さまは寝不足で千景の相手もできない程に疲れているんですよ! それくらい察して部屋から出て行きなさい!」
「だから今、この俺が寝かせてやろうとしているのだ」
「寝かせる? いい加減になさい。千鶴さまの身体中を触りまくって…… それでは身体を休めようにもできないではありませんか」
 相模はそう言うと、天霧に風間を部屋から連れ出すよう指示をし、自分の方に引き寄せた千鶴を布団の上へゆっくりと横たわらせた。
「さあ、この薬草は痛みを和らげる効能を持っていますからね。少し苦いですが、ゆっくりと飲んで、そして休んで下さい」
「く、薬ですか……」
 千鶴は薬が苦手である。それを道中に知った風間が天霧の手を振り払って再び部屋の中へと入ってきた。
「千鶴は薬が苦手なのだ。よって俺が飲ませてやろう」
 しかしよっぽど身体を休めたかったのだろう。千鶴は布団の上から慌てて上体を起こすと、苦手としているその薬草を口の中に含ませた。
「の、飲みました……」
 その態度を最後まで見ていた風間が怒りに震え始める。
「お前は苦手な薬を無理やりに飲むほどに、この俺といたくはないのか?」
「い、いえ…… そういうわけではなくって…… ただ……」
 身体をゆっくり休めたいだけだと伝えたい千鶴だが、風間の次の言葉でそれが喉奥に引っ込んでしまう。
「夫婦になって数年。倦怠期というものがいずれはやって来ると聞いてはいたが、果たしてそうなのか?」
「だ、だから……」
「男としての全てを兼ね備えたこの俺に飽きたとは言わせまい」
 相手の話もよく聞かずに、思い込みの激しい風間を目の前にして、千鶴と相模、そして天霧が大きな溜め息を吐き出した。
「別に、千景に飽きたなど誰も言ってはいませんよ。ただ、あなたの千鶴さまに対する愛情が深すぎて疲れているだけです」
「千景さん、今日だけは休ませて下さい。それにこの月のものに関しては、男性である千景さんよりも相模さんの方が頼りやすいんです」
「愛情も程々にという事ですよ、風間……」
 それでも風間は怒りを放ち続ける。
「それを倦怠期と言わずに何と言うのだ!」
 どうにかして風間を部屋から連れ出そうとする天霧。そして千鶴を休ませようとする相模ではあったが、結局は千鶴の最後の言葉によって、その場が丸く収まる。
「あの…… 分かりました…… 千景さん、ここにいて下さい」
 その言葉に風間が満足げな笑みを浮かべ、相模と天霧は思い切り渋い表情を浮かばせていた――。


 その数日後、仕事場で風間が書簡などに署名をする所作を行っている時、相模と天霧の企みは行われた。
「何故に、このようにたくさんの署名をせねばならんのだ」
「仕事ですから仕方がありません」
「ふん、この書簡の内容は全て把握しているのだろうな?」
「勿論、ですから、風間は署名をしてくれるだけで結構です」
「ならば、そうさせてもらおう」
 大量に積まれた書簡に次々と署名をしていく風間。中身も確認せずにそれをしたが為に、相模と天霧が仕組んだある一枚の紙にも気づきはしなかった。
 そこにはこう書かれていた。


 鬼の規律の追加
 女鬼の月のものの時、男鬼が部屋に入る事を一切禁ずる――



 その後、それを見せつけられた風間は、自分が確認もせずに署名してしまった規律に関して文句を言う事ができなかったのである――。


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