西国街道-尾道宿→三原宿→間の宿宿田万理→西条宿→四日市宿→海田市宿→広島宿→筑波宿



 翌朝、昨夜からの機嫌が直らない風間と、昨日は二度も襲われそうになりながらも、その二度目は千姫や君菊のお陰で危機を逃れられて安堵している千鶴が尾道宿の旅籠を出立した。


 昨夜は二人が旅籠に戻ってからの一悶着後、千姫が君菊に連れられながら謝りに来て、千鶴の着物を脱がせてくれたのだが、その間の千姫の顔は意地悪くにやけていた。


「千鶴ちゃん、風間はあなたの着物を脱がせようとしたでしょ?」
「何でそれを知っているの?」


 千姫は機嫌の悪い男の方をチラリと見ると、クスクスと笑い出した。


「あの風間の事よ。道中の約束事は千鶴ちゃんだから守っている。でも、遊女の格好をしているのは千鶴ちゃんじゃないから約束事など知らないとでも言ったんじゃない? あの男ならそういう口実でやろうとするかもと思ったから脱がせられないようにしたのよ。謝りに来たのも口実。これは私と君菊しか脱がせられないようにしているの。いい気味……」


 千鶴の目の前の可愛らしい少女は反省も何もしておらず、あの潤った瞳も騙していたのだろうか。着物を脱がせてもらっていた千鶴は、千姫の中にある黒い影に少しの恐怖を覚えていた。


 この尾道宿は町人の町である。色々な歴史もあり、西国街道の中でもこの宿場はかなり重要な町でもあるのだ。


 建武三年、船団で兵庫へ行く途中の足利尊氏は、浄土寺へ必勝祈願、三十三首の和歌を奉納。


 康応元年、足利義満は厳島参詣に名を借りた諸大名への示威として讃岐周防へ航海した岐路、尾道で守護山名氏に出迎えられ天寧寺に宿泊。


 朝鮮使節も応永二十六年に往復尾道に立ち寄り、天寧寺ほか五寺を歴訪。


 遣明船も尾道で、守護山名氏の船も加わって、領国の備前、備後、美作から算出銅や日本刀を積んだ。


 北前船の出入りで賑わい、苗字帯刀の豪商が多数存在。


 この尾道では富籤(とみくじ)も行われており、慶應元年には年四回、一枚二分、一等千両で、【上は大坂、下は馬関】から買い手が来て【喧騒雑踏足の踏み場もない】ほど賑わうらしい。


 先を歩いていると、尾道の中でも有名な【住吉神社】がある。この神社はもともと浄土寺にあったのだが、尾道の町奉行に着任した奉行平山角左衛門が、寛保元年に住吉浜を修築した際、港の守護と繁栄を願って、この場所に移設したのだそうだ。この平山奉行の功績を称える為と、住吉浜の海産物の旦那衆が商売の繁盛と海上交通の安全を願って、江戸中期頃から【西の両国花火】と言われる程の華やかな花火祭りを行うようになったという。


「千景さん…… なかなか辛い坂ですね……」


 尾道は坂の町であり、旅籠を出立してからそんなに歩いてはいないのに千鶴の息が上がり始めている。それを風間が黙って見つめ、


「俺は今日頗る機嫌が悪い、文句を言わずに黙って歩け」


 口調もつっけんどん。昨夜の事が余程気に入らなかったのか、兎に角執念深い男である。


 千鶴は昨夜の慣れない遊女姿に疲れ切っていた。


「前みたいに、人気のない所を抱いて走ってくれたら次の宿場に早く着くのに……」
「あれはお前の体調が悪かった為に仕方なくした事だ。今は元気であろう、己の丈夫な足でしっかりと大地を踏み締めて歩け」


 尾道の急坂で息切れが酷くなっている千鶴は、風間の腰紐を掴みながら何とか必死に足を前に踏み出していた。


「ここに立ち寄るぞ」


 歩みを進めていた風間がいきなり立ち止まり、顎をしゃくりながら千鶴に伝える。茶屋かと思った千鶴が額の汗を拭いながらその建物の方に期待の目を向けたが、徐々に残念そうな表情に変わっていった。


 そこは勿論、風間の大好きな酒屋である。【吉源】という名の酒屋で、風間はここの【寿齢】という銘柄が気に入っているのだそうだ。


「お酒なんて私いりませんよぉ…… 私は茶屋に行きたいです」


 酒の麹の鼻の奥を刺激する匂いに思わず顔に歪みが走る。


「俺は必要だ。良い香りがするな」


 千鶴の事などどうでもいいかのように風間はそう言うと酒を買い、再び歩き出す。先程と同じく風間の腰紐を掴みながら千鶴が緩慢な歩みで後ろを付いて行くと、目の前には【大人峠(福地峠)】と呼ばれる峠が見えてきた。


「駄目っ…… どこかで休ませて下さい……」


 峠を目の前にしてその場に座り込んでしまった千鶴を呆れ果てたような表情で見下ろす風間が、何かを思いついたように千鶴の前にしゃがみ込んだ。


「ここからは人気も少ない。抱いて行ってやらん事もない」
「ほ、本当ですか!?」
「ただし条件付だ」
「えっ!?」


 目の前の男の表情をしっかりと見つめた千鶴の顔色がどんどん青ざめていく。


「だ、大丈夫です! 歩きましょう!」


 千鶴が歩くと伝えたにも関わらず、風間は軽々と抱き上げると、そのまま全速力で木々の間を飛ぶように走って行く。


「じょ、条件って何なんですか!?」


 向かって来る風に頬を打たれている千鶴に風間は息も荒げずに走り続ける。


「昨夜は千姫の策略で邪魔をされたが、今宵はそうはさせんからな……」


 やはりそうだったか――


 千鶴は大きな溜め息を吐くと、諦めたように大人しくなり、千鶴を抱いた風間はそのまま三原宿へと走り込んで行った。


 旅籠に向かう途中で左の方に【三原城】の大きな濠と石垣が見えてきた。


 この城は、戦国時代に小早川隆景が築き、海に向かった名城で、満潮時は海に浮かんでいるように見える為『浮城』とも呼ばれている。江戸時代、福島氏、浅野氏の支城になったのだが、一国一城の時代にも取り壊される事なく認められた城である。


 濠の中の水が日の光りを反射して美しく輝いている。


「綺麗ですね……」


 戦国時代には敵からの攻撃を回避させる為の濠ではあったが、今ではそのような事もなかったかのように穏やかな姿を映し出している。暫くの間、風間に抱かれている千鶴が三原城を見つめ続ける。


「さて、行くか……」


 と先を急ごうとする風間が抱いている千鶴に先程より重みが増している。


「まさか……」


 覗き込んでみると、風間の胸に頬を摺り寄せ、笑みを浮かべながら目を閉じている千鶴の寝顔がそこにあった――。


 翌日、眠っている間に三原宿の旅籠に連れて行かれた千鶴はさっぱりとした表情で目覚め、朝餉もしっかりと腹に収めている。一方、風間は昨日の朝と同じく―― いや更に輪をかけて機嫌が悪くなっていた。


 三原宿を過ぎ、本郷宿に入っても風間の機嫌は一向に直らない。承諾はしてはいないが、条件付で大人峠から三原宿の旅籠まで千鶴を抱いて来てくれた為、そのお礼と謝罪をずっと続けているのだが、その度にフンッと鼻を鳴らされて無視をされてしまう。


 気まずい雰囲気を持ったまま、二人は追分を通り過ぎ、蝮が生息するという道を歩き、瓦坂峠に向かって行った。


 瓦坂峠の緩やかな上り坂を歩き、その先は緩やかな林間の下り坂を歩いて行く。その間も二人はだんまりのままだった。


 葛子川を渡って歩いて行くと、石垣が何層にも続いている景色が見えてきた。その先を更に進んで行くと、両脇の竹林が美しい場所に辿り着いた。鬱蒼と茂る竹林の間に大きな鳥居が聳え立つ【水ヶ谷神社】が視界に映った。そして、依然黙ったままの二人は田万里川沿いを歩いて行くが、長閑な風景の中、二人の雰囲気は非常に良くはない。


 風間が本日最初で最後に千鶴に伝えた言葉はというと……


「今日はこの間の宿田万里に泊まる、明日は松子山峠を超えねばならんからな。」


 のそれだけだった――。




 翌日も二人は黙ったまま松子山峠を越え、西条宿へと入って行った。


 ここまで無視をされると、流石の千鶴にも怒りが生じてしまう。自分が悪い事をしたと反省までして謝っていると言うのに、風間はそれに応えてくれないからである。


「千景さん、いい加減にして下さい。これ以上無視されてしまったら私だって怒りますよ!」
「……忘れたのだ……」


 風間の声を久し振りに聞いたような気がする千鶴だが、少し気を落としているような―― 何か物悲しそうな声音をしていた。


「な、何を忘れたんですか?」
「吉源の樹齢の酒を旅籠に忘れて来たのだ…… 全てお前のせいだ」


 風間が言うには、あの時に寝てしまった千鶴を無理矢理起こそうと頑張ってみたらしいのだがなかなか起きなかった為、風間も買った酒も呑まずに寝てしまったらしい。そして、朝は前夜の事で腹立ちが収まらなかった風間は、一度も呑んでいないその酒を床の間に置きっぱなしにして出立をしたという事だった。


 光りを失ったようにどんよりとした瞳を千鶴に向け睨み付けてくる。


「あれは、俺の気に入りの酒なんだぞ。どうしてくれる?」
「どうしてくれるって言われても、私は知りませんよ。取りに戻ります?」
「阿呆! ここからどれだけの距離があると思っている。今戻れば、天霧に説教をされるではないか」
「じゃあ、忍びの方にお願いしてみては……?」


 酒などの為に利用するのは気が引けるが、このままだと一生根に持たれそうだと感じた千鶴のさり気なく口にした言葉に、ハッと何かに気付いた風間の表情は輝き出していた。


「お前…… なかなか良いところに気付いたな。そうだった、忍びの者に頼めば良かったのだ」
「千景さん、怒ってたんじゃないんですか?」
「ん…… 何の事だ?」
「いえいえ、何でもありません」


 怒っているなら怒っている表情、拗ねているなら拗ねている表情を使い分けて欲しいと思っている千鶴を見つめながら、数日前の出来事をゆっくりと脳裏に思い浮かばせていく風間の表情が再び曇り顔のように変わっていく。


「そうであった…… あの酒を忘れたそもそもの原因がお前であったな……」


 今宵は絶対に寝かさん! と豪語しながらも、先を歩きながら溜め息を吐いている千鶴の背後にはねちねちと文句の言葉を投げ付けていた。


 変なところで抜けている風間と一応機転を利かせたものの、全ての原因を自分のせいにされ気分を害した千鶴は四日市宿へと入って行った。


 この宿場は、酒好きの者なら飛び上がって喜ぶだろうと思うくらい酒蔵が多く建ち並ぶ場所であり、


 美酒を造る場所には美味い水が湧き出ている


 と言うくらい、酒蔵の近くには湧き水が存在している。


 どれだけ酒好きなのだろうと思うくらい、風間は一軒一軒の酒蔵を覗き込んで行くが、風間はこの場所をよく訪れているのか、入った蔵では杜達が親しく挨拶をして来る。


「ここ辺りにはよく来るんですか?」


 千鶴が問うと、先程から機嫌が良くなりかけている―― いや、完璧に良くなっている風間が自慢げに胸を反らした。


「当たり前だ。ここ辺りの酒たちは俺の一番の気に入りだからな」
「先程の吉源の寿齢が一番のお気に入りじゃなかったんですか?」
「……」


 風間はしまった―― というような表情になり、明後日の方向を向いて黙ってしまった。


「結局、どこのお酒でも良かったって事ですか……」


 千鶴は、この四日市宿に入るまでずっと後ろから風間の投げ放たれる文句に耐えて歩いて来た為、風間のこの変わりように再び気分を害していた。


 少し気まずそうにして背中を丸めながら歩く風間の姿は初めて見るもので、何とも可愛らしく見えるいつ時もからかうばかりで、余裕たっぷりの高慢な男だが、千鶴がそれに対して怒りが湧き起こってもすぐに許してしまっていた。


「今分かったんですけど、千景さんは一つのお酒を気に入いるのではなくて、全てのお酒が一番なんで選ぶ事が出来ないんですよね?」


 千鶴は、そんな風間の手を強く握り締めて微笑みかけると、風間も少し安心したようだ。


「さて、次の酒蔵にも寄って行くぞ」
「も、もういいですよ」


 繋がれた手でしっかりと結ばれた二人は、真っ直ぐな道を左右にくねくねと歩きながら酒蔵を覗き回っていた。


 その中でも一際美しい白牡丹の【延宝蔵】と呼ばれる酒蔵の海鼠壁が見えてきた。


 真っ白な外観は太陽の光りに反射して熱さと共にその美しさを千鶴の瞳に焼き付けてくる。


 その先を歩いて行くと、左手に【社倉】という倉がある。この倉は飢饉に備えた穀物倉なのだそうだ。


「この辺りは飢饉が多かったんですか?」
「恐らく多かったのだろう…… この先にもその飢饉と関係がある坂があるからな」


 風間はそう言って、片手は千鶴の手をしっかりと握り、もう片方の手には何件かの酒造で得た徳利を数本、軽々と肩に引っ掛けて歩き続けていた。


 田園風景に入って行き、そのまま歩き続けていると、上り坂になってきていた。


「飢坂に入るぞ……」


 と風間に伝えられ、ふと横に目をやると祠がある。そして、途中には【中の峠池】と呼ばれる溜池までもが存在していた。千鶴は先程の飢饉に関係する坂の事を思い出し、この坂の名の由来を聞いてみる事にした。


 風間の話では、江戸時代、飢饉の時にここで多くの人が飢えで力尽き亡くなったことからこの地名になったと言われているそうだ。そして、東側では飢饉のときに炊き出しをして人々を救ったと言い伝えられてるらしい。


「飢饉の飢に坂と書いて【かつえざか】と呼ぶのだ。大飢饉があったのだろうな。四日市宿にあった社倉やこの辺りに多く存在する溜池も、その大飢饉の教訓の表れだろう」


 そして、小さな祠は飢饉で亡くなった者たちの霊を慰める為に置かれたと言う。千鶴は静かに手を合わせていた。


 二人は飢坂の溜池の辺で握り飯を食べた。


 昼から酒とは――


 千鶴の横では、四日市宿で手に入れた酒を徳利ごと口に含ませている風間がいる。酒を呑んで更に機嫌が良くなった風間がスッと立ち上がった。


「そろそろ出立せねば峠を越せんぞ」
「ちょ、ちょっと待って下さい! あと一つ残ってるんです」


 ゆったりと時間が流れる中で休憩した二人は、大山峠に向かって早足で進んで行った。


 左右を林に囲まれた道を歩きながら【大山峠】に向かって歩き続ける。


 この峠は思ったより難所ではなかった為、千鶴の足も疲れを知らないかのように前に進んでいた。周りでは鳥の囀りや若葉の香が漂っている。二人にとって快適な峠越えとなった。


「俺達は東からこの峠を越えている為楽なのだ。西から東に向かう旅人にとっては、この先からここまでが難所となる」
「何故ですか?」
「西から上って来る坂を【代官おろし】と呼ぶのだ。これはどのような権威のある者でも駕籠から降りたという難所であった事を意味する。この峠を下りた少し先には憩亭があり、そこで休憩してからこの峠を越えて東に向かうのだ」


 確かに、風間と千鶴が峠を下っていると、急な下り坂となっていて、下りにも関わらず息切れが生じて来る。これでは上りは大変だろうと思うくらいだった。


 この峠、防人、元寇の急変を知らせる早馬や、あの高杉晋作も通ったと言う。


「高杉晋作っていう人は…… 確か長州の……」


 千鶴が呟いていると、不意に背後から聞き慣れた声が聞こえて来た。


「高杉晋作は、俺の親友だよ」


 千鶴が驚いて振り向くと、彼は風間にいきなり徳利を投げ付けてきた。


「おい、俺の大事な酒を投げるな」
「そっちこそ忘れんなよ! 俺がまだあそこに滞在してたから持って来てやれたんだぜ」
「お前になど頼んではおらん。俺は忍びに頼んだのだ」
「全く素直に礼くらい言えねえのかよ?」
「何故お前ごときに礼を言わねばならんのだ」


 初め、二人は礼を言えやら言わんやらで口喧嘩をしていたが、知らない間にその喧嘩は終わっていた。


 千鶴はそんな二人を見ていると、性格は全く異なっていても、やはり仲が良いのだと改めて感じてしまう。何故なら、よく見てみると不知火の手の中には先程持っていた徳利とは違う物を持っており、それが一本だけではなく三本ほど風間から渡されていた。


 あの風間の事だ。嫌っている者には自分の気に入っている酒など一滴もやらないだろう。


「高杉晋作さんって、不知火さんのご友人だったんですか?」
「ああ、そうだよ。あっちに逝っちまったけどな……」


 不知火が寂しそうに空を見上げると、木々の葉の茂る間から美しい青空が広がっていた。


「んじゃっ、俺は先に行くからよ。それとだな…… もうちっと早めに歩いて進めよ。後ろから見てっとちんたらちんたらじゃねぇかよ。天霧にどやされるぜ」
「天霧さんって怒ったら怖いんですか?」
「怖いってもんじゃねぇよ。説教が長々続いて足が痺れるっつーの!んじゃぁな!」


 不知火は高杉晋作の事は詳しく説明せず、いつものように明るく振舞いながら先を行ってしまった。その背を見送っていた風間がポツリと呟く。


「恐らく、墓参りをしに行くのだろう」
「墓参り?」


 風間のその呟きに千鶴は問いかけた。


「不知火はよく高杉晋作の墓に行っているらしい。いい酒も手に入ったから墓の前で呑むのであろうな」
「千景さんは不知火さんの事をよくご存知なんですね」


 千鶴が優しい笑みを浮かべながら風間に言うと、少しばかり照れたような表情を浮かばせて、


「知っているも何も…… あやつとは古い馴染みだからな……」


 そう言うと、さっさと歩くぞと千鶴の手を引っ張って峠を下りて行ったが、その間も照れ隠しだったのか、千鶴の方に振り向く事はなかった。


 二人は瀬野川を渡り、海田市宿へと向かって行き、その宿場で二人は泊まる事になった。




「や…… やっぱりするんですか? 私、眠いんですけど……」
「条件付で抱いて行ってやったのだ。その条件が果たされておらん。今宵こそは果たしてもらうからな」


 暫くの間、風間と千鶴の部屋では、床が抜けるのではないかと思われるくらいの大きい音が鳴り響いていたが、それもいつしか静かになってしまっていた。


 下の階にいた旅籠の主人は、彼の奥方と共に微笑み合い、


「頭領と千鶴さんは仲がよろしいなぁ……。」


 などと、暢気に話していた。


 身体の交わりのない行為――
 ただ口付けの愛撫を受けるだけで、千鶴の意識は遠のいていく――
 長く執拗な愛撫は、東の空が白み始めるまで続いていた――。




 翌日の風間は自分の願いが聞き届けられた為、かなりご機嫌な表情をしながら歩いており、千鶴は昨夜、風間に寝かせてもらえなかったのか、欠伸の連続を繰り返しながら歩いていた。


 そんな二人は海田市宿の中を歩き続け、広島宿へと歩いて行った。


 この広島宿は、主要街道が交差し太田川の水運の利もあり、広島城下の中心地である。この宿場も太田川の増水の時には足止めされる旅人たちで賑わっているらしい。


 広島城を眺めながら茶屋で一休みをする風間と千鶴。


 休憩を終えた二人は、おしゃもじの創始者誓真の墓があるという【浄国寺】の前を通った。


「おしゃもじって、あのおしゃもじの事ですよね?」
「白飯をよそう道具だ。寛政年間宮島にこれといった土産物がない事とに気付き、弁財天の持ち物である楽器の琵琶の形を真似て作ったらしい」


 その時、千鶴の腹から虫が鳴き出した。


「あれ、朝餉は沢山食べたのに……」
「もう腹が減ったのか?」


 千鶴が頷くが、昼餉にはまだ早い時間である。風間はもう少し我慢しろと千鶴に伝えると、そのまま先を急いで歩き始めた。


「餅屋!」


 風間が歩きを止めた目の前には餅屋の店があった。その店の【大石餅】は街道を通る旅人に人気のある餅なのだそうだ。


 風間と千鶴が中に入って餅を頼むと、美味しそうな搗き立ての餅が湯気を立てて出てきた。


「いただきます……」


 千鶴が行儀良く挨拶をしてから餅を口の中に運んでいく。


「美味しい!」


 ニッコリと幸せそうな顔をして風間の方を向くと、風間の表情にも柔らかな笑みが浮かんでいた。


 風間は満腹感を覚えた千鶴を促して、松並木の続く長閑な道のりを歩いて行き、廿日市宿へと入って行った。


 この町屋の場所では、幕末の慶応二年、第二次長州戦争で広島藩士により、長州軍の廿日市通過阻止と士気を高めるため町屋に火が放たれ、町屋は三日間燃え続け、三分の二が焼失したという。


「あの時は色々な所で争いが起こっていたんですね」
「あの頃は混沌とした時代のようなものだからな。初めはどちらに勝利が降って来るのか分からんかったが……」


 義理返しも終え、我ら鬼たちには関係のない時代になった――


 風間はそう呟くと、千鶴の腰に腕を回してくる。


「さて、急ぐとするか……」
「はい……」


 風間の表情で分かる。
 人間など―― と蔑んではいるが、本当は風間こそが人間を好いている鬼なのではないかと――
 頭領という名の地位にいなければ、人間の世界の中に紛れてひっそりと生きていたのではないかとも――。


「どうしたのだ?」


 風間をジッと見つめる視線に気が付き、千鶴の方に振り向いて不思議そうな顔をする。最近は風間の表情にも少しずつ変化が現れてきていた。


「いいえ、何でもありません」
「可笑しな奴だ……」


 柔らかく笑む風間の顔から目を逸らす事ができない千鶴は、風間の誘導によって先を歩き始めた。


 二人は【四郎峠】の道に進んで行った。


 この峠の名の由来が気になる千鶴が風間に聞いてみたところ、推古天皇の頃、天皇からの命令で太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という五人の兄弟が大野村に下って来て、田畑を開いて農業を始めたという言い伝えがあるそうだ。この五人の兄弟を【大野五郎】と呼んでおり、それぞれが開墾したり住んだりした所に地名などが残っているという。


「では、この峠の辺りは四郎さんという方が開墾したり住んだりした所なんでしょうか?」
「そうなるのだろうな」


 言い伝えだから分からんが――


 風間は未だに千鶴の腰に腕を回したまま歩き続けている。恐らく、最近は一日にかなり長い距離を歩いている為、それを気遣ってくれているのだろう。気分の悪い感触ではなく、支えられていると感じる腕の回し方であり、千鶴は安心した気持ちで先を歩き続ける事が出来た。


 その先には、【十郎原川】【十郎原】という名があり、伝説【大野五郎】のうち末弟十郎が開墾したところとして十郎原の名が残っていた。そして、二人は民家の間を通り抜け、大野五郎のうち次郎を祀ったお宮で、地元の人が【新宮さん】といって親しんでいる【新宮神社】で、昼の休憩を取り、握り飯を頬張っていた。


「そのようにがつがつと食うな。喉に詰まるぞ」
「だ、だって…… お腹が空いちゃって……」


 両手に握り飯を持ちながら交互に口に運んでいく千鶴の姿を、風間は呆れ果てたように見つめ続けていた。


 休憩を終えた二人が先を歩いて行くと、【大頭神社】があった。この神社は厳島神社の末社として推古天皇の時代に建てられたらしい。三方を山に囲まれ、静かで荘重な神社である。


 その神社の中には【妹背の滝】の雌滝と雄滝がある。雌滝の方は水量も少なく歌にも歌われているくらいである。


 山姫のたぐる糸とはこれならむ峯よりかけておつる白糸――


 その奥にある雄滝の方は水量も豊富に流れ落ちている。


 たちよりてしばしむすばむひまもなしはげしく散りて落つる滝つ瀬――


「雌滝の方は優しさ、雄滝の方は猛々しさを感じさせますね」
「お前も雌滝のように糸のように細くしなやかな女になれ」
「……なってません?」
「先程の握り飯を食う姿を見ればそうは思えん……」
「あっ…… 桜……」
「おい、話を逸らすな」


 上の方を見上げると、桜の花が満開に近い状態で咲き始めている。


 千鶴の背後にいた風間が、後ろから包み込むように腕を回してくるが、千鶴はそれにも抗わずに素直に受け入れている。


 水の音と鳥の鳴く声、その間にそよぐ優しい風に揺れる葉の擦れあう音しか聞こえない景色の中、一つの影のようになった二人は、暫くの間、その景色の中に入り込んでいた。






 夕暮れも迫って来ている。二人は、足早に【四十八坂】を歩いて行った。この坂は雑木林に囲まれた気持ちのよい道なのだが、少しずつ日が落ち始めており、少しの寒さが肌に突き刺さってきていた。


 くねくねと山道を歩き続けると、【残念社】と呼ばれる祠がある。


 この祠は慶応二年、丹後宮津藩士の依田伴蔵が幕府軍の軍使として和平交渉に向かう途中、長州の遊撃隊員に戦闘員と間違えられて狙撃された。伴蔵は「残念」の言葉を残して死んでいった。村人がこれを哀れんで建てて祀ったと言われている。


「残念…… ですか…… 悲しいですよね……」


 薄暗くなった山道の中、風間にぴったりと寄り添いながら震える声で千鶴が呟く。暗闇になっていく周りが恐ろしくなり始めたのと、日が落ちると、山の空気が一変し肌寒さを起こさせてくる。そんな千鶴を守るかのように、腰に回されていた風間の腕は肩に回されていた。この状態は守ってくれているのもあるが、寒さを回避させてくれてもいるようだった。そして、ようやく坂を下り、そのまま歩き続けて玖波宿の旅籠へと辿り着いた。


 風間と千鶴の到着の遅れを心配してくれていた鬼の仲間が嬉しそうに出迎えてくれ、冷えた身体を温める為に、風呂に先に入らされた二人は身体の芯から温もる事が出来た。


 山の幸料理を出された千鶴が嬉しそうな唸り声を上げ、それを聞いた風間は呆気に取られたような表情を浮かべ、旅籠の主人は可笑しそうに笑う。


「頭領、千鶴さんは面白い奥方になりそうですね」
「……まあな……」


 風間は旅籠の主人と共に、目の前で美味しそうに料理を食べる千鶴の姿を見つめているが、その表情は次第に優しい空気を纏った笑みと変わっていた。


 布団の上で風間の胡坐の上で千鶴が向かい合わせに座り、風間の抱擁に千鶴が身を任せる。しかし、今夜の風間も先に進むような事はせずに音を立てながら千鶴の身体に口付けを落としていくだけ。


 暗闇の中に卑猥ではあるが、愛の篭もった口付けの音が鳴り響く。


 明日の朝、千鶴の胸の辺りには無数の桜の花弁が咲き誇っている事だろう。


 今日、二人が見つけたあの猛々しい雌滝の周りを優しく取り囲むように咲いていた桜のように――。


 水の音と共に聞こえた鳥の囀りのように、千鶴も風間の耳元で小さく囀り続けていた――。




- 132 -

*前次#


ページ: