西国街道-筑波宿→関戸宿→御庄宿→古宿→玖珂宿→高森宿→今市宿→呼坂宿→久保市宿→花岡宿
この筑波宿は、長州戦争により町並みの殆どが消失してしまったそうだ。二人が今まで通って来た宿場に比べると活気が足らないような感じであったが、落ち着いた雰囲気を持つこの宿場は居心地の良い所だった。
翌朝、千鶴は着物の中のほてりが冷めぬまま、風間と共に関戸宿へと向かって行った。
毎夜の風間の口付けは深く、それをした場所に咲く花弁には熱がこもる。そして耳元で同じ言葉を囁かれるのだが、
もっと鳴くがいい――
その言葉を囁かれると、自然に喘ぎ声が喉奥から放たれ、朝に目覚めた時は喉がからからに乾いている程であった。
二人が先を歩き続けて行くと、【苦の坂】と呼ばれる峠に入った。
この【苦の坂峠】は、推古天皇時代、厳島神社の祭神である市杵嶋姫命が筑紫から安芸へ移る時、二歳の嬰児をつれてこの坂に差し掛かった。あまりの急坂で、
えらや苦しやこの苦の坂は 金のちきりも要らぬものを――
と呟き、大切に持っていたちきり(機織りの縦糸を巻く道具)を投げたら、麓の池に飛んで行ったそうだ。後にその池を埋めて社殿を建てたのがちきり池神社であり、坂の名前も【苦の坂】と言われるようになったというらしい。
「ちきり池神社ってどこにあるんですか?」
苦の坂と言われる為、どれほで辛い峠なのかと思いきや、起伏もさほどない平坦な道が続いている。
「この先にある」
二人が苦の坂峠を進んで行くと、前方に木野川(小瀬川)の眺望が広がり下り坂となっていて、下り切った右側に【ちきり池神社】が由緒ある佇まいを見せていた。
この社殿の右側には【汐湧石】があり、六月の半ばに行われる管弦祭の夜にここから汐水が湧き出ると言われている。そして、この坂には長州の戦も関係がある。
慶応二年に幕府と徴集軍が小瀬川を挟んで戦った時、本隊は海岸に布陣し側面隊がこの坂を巡って白兵戦を演じ、これに勝った長州軍が幕府本隊の側面に回って挟み撃ちにした。この戦いで幕府軍は多くの兵を残したまま船で遁走したという事だ。
「多くの兵を残してって…… 酷すぎます。幕府の為に戦っている人たちをそんな簡単に見殺しみたいにできるんですか?」
千鶴の肩は怒りの為か小さく震え続けている。そんな千鶴を見つめながら風間は言葉を続けた。
「仕方あるまい。どの時代になろうと上下関係がある。下の者たちは上の者に仕える【手駒】のようなものだ。例えるならば将棋の歩だな。無理矢理前に進まされ、簡単に捨てられてしまう」
人間とは悲しい生き物だ――
風間はぼそりと呟くと先を歩き始めた。
「鬼の世界でもこのような事があるんですか? 風間さん達のような上階層の鬼が下級の鬼に…… 例えば、あの忍びの鬼の方たちが歩の役割をしているとか……」
その場に立ち止まったままの千鶴が先をゆっくり歩いて行く風間に大きな声で問い掛けた瞬間、風間は歩くのを止めて千鶴の方に振り返った。その顔は怒りが含まれているのが分かるほど険しい表情になっており、喉元から吐き出されるような低く凄みのある声が絞り出された。
「鬼をあのような人間と同じにするな。我ら鬼は仲間を見捨てるような事などはせん」
微かではあるが風間の瞳が黄金色に染まり出している。
これは真の怒りだ――
千鶴に向けてこのような感情を起こした事がない風間。
鬼は伝統や格式を守る――
それは互いに尊重し合うという事だ。鬼の生き方に誇りを持っている風間にとって、同胞である千鶴が放ってきた問いの言葉は、鬼も人間と同じだと言われているようなものだ。風間は踵を返して千鶴の前に進み出ると、再び低く唸るような声を出した。
「忍びの鬼たちは己から進んで仕事をこなしているのだ。我らもその者たちの仕事には敬意を払っている。時には危険な仕事さえもせねばならんのだからな。情報を得て、そして情報を渡す…… 上下など関係なく義を持って生きるのが鬼の世界での常識だ」
鬼の誇りを傷付けるような言葉を発してしまい、風間の迫力ある怒りに押さえ付けられてしまった千鶴は、謝る事さえもできずにその場で顔を俯けてしまった。
そして木野川沿いを歩く二人の間は一定の距離が保たれていた。
風間に謝る機会を失ってしまった千鶴は項垂れるようにして後ろを付いて行き、風間はその距離を気遣いながら一定の速度で歩き、時々振り向いては千鶴の姿の確認をしていた。
どうやって謝ろう――
謝罪しにくい――
千鶴があれこれと思案していると、俯いていた顔の下に大きいが細い指の繋がった掌が静かに現れた。
「あっ……」
千鶴が立ち止まって顔を上げると、無表情だが怒りは収まっている風間の顔がそこにあった。
「離れたまま俯いて歩いていると、逸れてしまうぞ……」
差し出された掌に千鶴がそっと手を乗せた途端に強く握られる。そして風間の顔が千鶴の耳元に近付き何かを囁いた。
「わ、私の方こそ……」
少し涙で潤っている瞳をした千鶴が慌てて謝ろうとすると、風間の指が千鶴の口元にそっと宛がった。
「……何も言うな……」
千鶴は長い時を人間の世界の中で生きて来た。鬼として生きると決意したのも数ヶ月前の事。いきなり鬼を深く理解しろと言うのは無理難題だろうと風間も怒りに任せて出てしまった言葉に反省をしていた。
仲直りの証に強く握られた二つの手は、木野川の渡しまで離れる事なく繋がれ続けていた。
木野川の渡しは、木野村(安芸)と小瀬村(周防)から出された渡し守三人ずつが昼夜三交替、二人一組で両藩が交替して行っている。江戸時代の渡し賃は、武士階級が無料、一般の人は江戸時代初期で米一合、中期から二文、牛馬が四文徴収されていて、今でもその賃金は変わってはいなかった。
この木野川は荒れくれ川で、洪水の度に流れが変わり、周辺の町に流出するという。この数日は天候も良く、木野川は穏やかな流れを見せており、二人は無事に渡しを超える事ができた。
渡しの場所から少し先を歩いた所に茶屋が建ち並んでいる。そこで二人は暫しの休憩を取った。
「千景さん、この桜色の団子差し上げます」
千鶴が串の一番先端に刺されている桜色の団子を風間に差し出す。
「何だ、どういう風の吹き回しだ?」
いつもなら自分の全身を使ってでも団子奪手を阻止する千鶴を見ている為、少し怪訝な表情を浮かべるが、恐らく先程の詫びのつもりだろうと察した風間は、差し出された団子の串を千鶴の口元に押し込んだ。
「気にするでない。しっかり食べておけ」
団子を押し込まれた千鶴は心なしか、いつもの元気さがない。風間は、千鶴の頭を自分の胸に押し付けると上から静かに優しい声音で囁いた。
「いつものお前でいればいいのだ。元気がないとつまらんではないか」
二人が座っている茶屋の席は周りから見れば丁度死角になっており、休憩している旅人たちが二人の姿を見る事はない。格好の隠れ場所で、風間の胸に優しく包み込まれて顔を隠し、静かに肩を震わせながら泣く千鶴であった。
存分に泣いた千鶴は風間の胸から顔を上げると、泣きすぎで腫れぼったくなった目を垂らしてふんわりと笑んだ。
「先を急ぎましょうか」
二人は、この先の【小瀬峠】を超え、【錦帯橋】という橋を渡り、関戸宿へと入って行った。
二人が旅籠に到着した頃からポツポツと雨が降り始めていた。
「木野川を渡っておいて良かったな……」
格子窓から見える雨空を見上げている風間が呟く。
今日は怒ったり落ち込んだり、泣いたりして疲れたのだろうか。千鶴は、風間の肩に凭れ掛かりながら転寝を始めている。
「寝るか……」
この体勢では千鶴も疲れが取れない上に、風間も千鶴の寝顔を見る事ができない。
風間は千鶴を軽々と抱き上げると布団に潜り込み、乱れた髪の毛を整えてやりながらゆっくりと重くなりつつある瞼を下ろしていった――。
昨日からの雨は朝になっても降り続いている。
千鶴が目覚めると、目の前の風間はまだ目を閉じて眠っていた。
十ほども違う歳の差だが、眠っている時の風間の顔は子供のようであどけない。
この雨だと今日の旅は先には進めないだろう。それに、今は風間の寝顔を眺めていたい―― 白く細い指で黄金の髪の毛を優しく梳き上げると、指の流れに逆らうかのようにそれは零れ落ちていく。
暫くの間起きていた千鶴の身体には再び眠気が襲い出し、風間の髪の先を握り締めながら眠ってしまった。
「寝たか……」
千鶴が目覚めた時の動きによって起きていた風間だったが、千鶴のしなやかな指の動きが心地好く、寝た振りをしていた。
今日は出立する事は出来ないな――
風間は、激しい雨音を聞きながらここに留まる事を決定する。
「さて、俺は起きるとするか……」
風間が布団から出ようとした時、髪の毛が引っ張られているような感覚を生じ、それのする方に視線を向ける。
「ん……?」
風間の髪の毛の一部を千鶴が握り締めている。引っ張って抜こうとするが、このままいくと髪の毛がごっそりと抜けてしまいそうだ。
「……仕方あるまい。もう一度寝るとするか……」
風間は千鶴の手から髪の毛を抜く事を諦め、再び布団の中へ潜り込んでいった――。
雨の為に、関戸に数日間留まっていた二人は、ようやく雨の上がった翌朝に出立し、御庄宿に向かって歩き出した。
岩国往来を通り、多田の渡し場から小さな川を渡り、その先の錦川を渡しで超える。
前日まで雨が降っていた為に水嵩は増していたが、この量は渡れる範囲内だった為、二人は無事にいくつもの川を通る事ができた。
御庄宿に到着した二人は、そこにある茶屋の一軒で一休みをして再び歩き出す。
関戸宿で数日間の無駄を取り返すかのように自然と早足になっており、その先の【欽明路峠】に向かって行った。
この【欽明路峠】はかなりの急勾配であり、風間の手を握り締めている千鶴の手は汗でしっとりと湿って、額にも薄っすらと汗が滲み出ていた。
「もう汗を掻いておるのか?」
「あ、暑いですよ……」
「お前は寒さにも弱ければ、暑さにも弱いのか?」
風間の嫌味にも慣れてきた千鶴だが、息切れの為に長い言葉が続かず一言――
「そうなんです」
と言っただけであった。
二人は【中の峠】と呼ばれる場所まで歩き、昼の休憩をする。ここから先は下り坂をひたすら下る。この峠は西国街道の中でも屈指の難所であるらしい。
峠を越えたその先は緩やかな下り道に変わっていった。
古宿(柱野宿)の落ち着いた集落の間を通り過ぎ、玖珂宿へと向かって行った。
先を歩いて行くと川らしき所があるが水が流れていない。
「千景さん…… ここって川、ですよね?」
千鶴が恐る恐る足を前に踏み入れながら川らしき所を渡る。風間はというと、ずんずんと先を歩いていた。
「水無川の水は地の表面を流れず自然と地下に沈着している。地表流となって流れるのは洪水時だけだ」
「へぇ…… 面白いですね……」
水無川を渡った二人は高森宿へと入り、日も暮れかけていた為、今日の旅はここまでとなった。
その夜、千鶴は布団の中で風間に抱き締められながら、この高森宿での悲しい出来事を聞かされた。
享保二年、甚大な旱虫害が発生した時、百姓一揆に参加した人々の処分の申し渡しがあった場所が、この地の東川の下流の河原にあるという。享保五年一月、百姓達は本藩の萩領への編入を訴えたそうなのだが許されず、翌年には斬罪八人、遠島二十一人などの処分が決まったのだそうだ。
「百姓達にとって旱虫害は敵ですものね。年貢もあるでしょうし……。被害に遭っても同じ数の年貢を納めなければならない事もあったんでしょう?」
「お前の家は医者だったから農作物の事はよく分からんだろう。薩摩も土地柄、農作物が育ちにくい」
「何故ですか?」
「薩摩富士という火山があるのだ。薩摩の地はその火山灰の土がほとんどでな。水持ちも悪く土地が貧しい上に、台風や火山噴火などの災害を受けやすい立地であった為に藩政初期から財政は窮迫していたのだ」
「薩摩はどうやって徳川時代を乗り切ってきたのですか?」
「慶長14年に琉球に出兵して琉球王国を服属させ、琉球の石高十二万石を加えられた。奄美群島は琉球と分離され、薩摩藩が直接支配した。薩摩藩の琉球支配は、年貢よりもむしろ琉球王国を窓口にした大陸との貿易が利益をもたらしたのだ。また、薩摩には奄美産の砂糖による利益がもたらされ、その他加増を受けて従来の五十六万石から七十二万石の大藩となった。その後石高の高直しなどにより、表高は七十七万石となったがな。」
話し終えた風間が千鶴の方を見てみると、眠いのか大きな目が半分閉じかかっている。
「寝ろ…… 明日もまた早い」
「千景さん…… とう…… です……」
「何だ?」
「砂糖…… 西に着い…… たら…… さ…… と……」
最後まで言葉を言い切れずに寝てしまった千鶴を自分の方へ引き寄せて、夢の途中まで入り込んでいる千鶴の耳元で囁く。
「里に着けば、否と言うほど食わせてやる」
その夜の千鶴の夢に現れたのは、砂糖をふんだんに使用した数々の菓子や料理の山だった――。
高森宿の旅籠を出立した風間と千鶴は、今市宿へと向かって歩き出した。
その途中に【高森天満宮】がある。この宮は菅原道真が大宰府に左遷される途中、この地で島田川に面した岸辺にコンコンと湧き出る泉で喉を潤したという伝説があるらしい。
「京からずっと歩いて来ましたけど、菅原道真の由来の神社が多いですね」
「色々と伝説の残っている人物だからな」
そして二人は島田川沿いに歩いて行く。この川沿いは桜並木になっており、満開を迎えようとしていた。二人はその桜の間を気持ち良く進んで行った。
先に進んで行くと、【掛ノ坂】と呼ばれる坂があり、山の岩盤が川に突き出し、道は岩盤を越え、急坂となって古来から多くの人馬を悩ませた場所がある。
先を歩き続けた二人は【丸子坂】の手前の茶屋で休憩を取り、再び歩き始めた。
最近、千鶴が茶屋で団子を頼まなくなったのを不振に思った風間が問い詰めてみると、ほんのり顔を朱に染めてボソボソと呟き出した。
「……太ったみたいなんです……」
「太っただと?」
「はい…… 腰の辺りとか顎とかが…… 何となく……」
毎日見ている為かそのような変化に気付かなかったが、よく見てみると確かに腰周りがふっくらとなっている上に、顎の線も丸くなり出していた。
「良いではないか。毎日歩いているのだ。少しくらい太っても気にする事ではない」
「あっ! 今太ったって言いましたね? ずっと前にも言いましたよね、ふくよかと太っているとは違うって…… これはふくよかになったのではなくて太ったんです。だから、少し甘い物を減らします!」
「お前も己の口から太ったと言っていたではないか?」
「自分で言うのは構わないんです。でも千景さんから言われるのはちょっと傷つきます……」
「何故に傷つくのだ?」
「冗談でも本当に聞こえるから……」
千鶴が悲しそうに項垂れながら歩いているのを横でニヤケながら見つめる風間は、千鶴の耳元まで背を屈めて囁いた。
「先程のは冗談ではなく真だ……」
そして、くっくっと笑いながら先を歩く風間の背を千鶴が立ち竦んだまま見つめる。
「ひ…… 酷い……」
その後も千鶴は、今市宿に辿り着くまで風間にからかわれながら歩き続けなければならなかった。
この二人が歩いた丸子坂はかなりの急坂であり、馬の粗暴を防ぐ為に血を抜く場所がある。千鶴はその坂を風間の助けなしで自力で乗り越えて行った。
今市宿に入った二人はやっと昼の休憩を取る事ができた。
川の辺で旅籠の主人から受け取っていた握り飯の包みを開けた途端、千鶴の幸せそうな唸り声が響いてきた。
「千景さん見てくださいよ! 握り飯と沢庵だけじゃなくて、卵まで入っています! それに、それに…… わあっ! 牡丹肉まで!」
いつもの竹の皮で包まれた弁当ではなく、重箱を持たされた時から千鶴の心は舞い躍っていた。
「良かったな……」
「はいっ!」
風間は握り飯を数個とおかずを一口ずつ味わい、その残りは全て千鶴の腹に収まっていた。
「団子を食わずとも、昼でそれだけ食っておったら痩せはせんだろうな」
「うぐっ……!」
最後の一口を入れた瞬間に風間がきつい一言を放ち、千鶴の幸せそうな表情が一変して苦痛の色になってしまった。
その後の千鶴は腕を振り、着物の裾も気にせずに大股で歩き、最後は結局へなへなと座り込んでしまっていた。
「疲れました……」
茶屋で休憩をした千鶴が、歩きつかれて痛んだ足を伸ばしながら弱音を吐いていると、横にさり気なく湯気の立った茶と饅頭が出されていた。
「わ、私…… 饅頭なんか頼んでないんですけど」
千鶴が饅頭を見つめたまま固まっているが、食べたいのがよく分かるほど、ごくりごくりと唾を飲み込んでいる音が響き渡っていた。
「女にとっては過酷な旅になっているのだから食っておけ。痩せるのは西の里に着いてからで十分だ。それにだな……」
風間がそっと千鶴に囁いた。
「俺は痩せている女よりも、お前くらいの(ふくよかさ)の方が好みだぞ……」
千鶴が照れ臭そうに風間を見つめると、風間は優しく微笑みながら千鶴の口の中に饅頭を放り込んだ――。
次に足を踏み入れた呼坂宿には、吉田松陰と忠三郎の訣別の地がある。
「吉田松陰というと、不知火さんが懇意にしていたという高杉晋作さんの……」
「ああ、そうだな……」
この新しい時代になるまでに多くの血が流されてきた。
二人は、青く澄み渡る青空を同時に見上げていた――。
久保市宿を過ぎて花岡宿に到着をした二人は、そこの旅籠で身体を休める事にしたのであった――。
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