西国街道-厚狭宿→吉田宿→小月宿→長府宿→下関宿【西国街道完結】



 厚狭宿を出立した二人は、西国街道の最終地点である下関へ向かって西へとひたすら歩いて行った。


 少し歩いて行くと、【寝太郎権現社】があった。この寝太郎という人物、この地に大きな堰を造り厚狭川の流れを引き、千町ヶ原を開いて美田としたそうだ。言い伝えでは、寝ながら考えて知恵を出したから寝太郎と言われるようになったらしい。


「確かに横たわって考えていると、良い知恵が浮かぶ場合があるからな。この言い伝えは嘘でもなさそうだが……」
「千景さんも寝ている時に良い考えが浮かぶ時があるんですか?」
「お前はないのか?」
「横になって考えていると寝てしまうんです」


 千鶴の言葉のどこが可笑しかったのか、風間は肩を揺らしながら笑い続けていた。


 二人は、桜川と大正川を渡り、林間ののんびりした道を歩きながら西に向かって行った。


 暫く坂道を上って行くと、山間の道になっている。今日は天気も良く暖かいが、この山間の陰に入った途端、少し肌寒さを感じる。


「寒いか?」
「少しだけ……」


 陰で日が当たらなくなった肌寒さと、もう一つ違う意味での悪寒を感じてくる。それは風間も感じているようだった。


「付けて来ているな……」


 風間は千鶴の手を強く握り締めると、足早に山間を抜けて行き、二人は西国街道最後の難関である【蓮台寺峠】へと向かって行った。


 この峠道は熊がよく出没するらしく、注意して越えて行かなければならない。泥濘(ぬかるみ)も多く、この坂を越える旅人たちの足元は泥だらけになるそうだ。


 二人は陰になって暗くなった道や少し開けて日の差し込む道などを進んで行くと、泥濘のある道へと突き当たった。


 足を一歩前に踏み出す度に足首まで泥が被さって来る。その足を引き出すのに相当な体力を使ってしまった。


「ちっ…… 飛べば良かったな……」


 千鶴の手を引っ張りながら歩く風間も苦労をしているようだで、舌打ちをしながら足に絡まり着く泥を気持ち悪そうに見ていた。


 ようやく泥濘から這い出るように歩き終えた二人は、足にこびりついた泥を綺麗に拭き取ると、再び歩き始めた。


 暫く歩いて行くと、【蓮台寺】があった。この寺の歴史は古く、永観二年花山天皇作の木造十一面観音坐像が安置されている。そして、この寺からは吉田宿も見渡せた。


「さて、そろそろ行くか」
「はい……」


 風間は背後を気にしながら千鶴の手を握り締めると、そのまま坂を下って行った。


 吉田宿へ入った二人は東行庵に立ち寄り、不知火の友人であったという高杉晋作の墓参りをした。


 高杉は萩の城下町で長州藩士の長男として生まれた。


「動けば電電のごとく、発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ず……」


 伊藤博文が高杉を評した言葉を風間が紡ぎ出す。


 二人が高杉の墓前で立っていると、後ろから凛とした声が掛かった。


「高杉のお参りにいらして下さったんですか?」


 風間と千鶴が振り向くと、尼僧の格好をした女が二人の方へ歩み寄って来る。


「あなたは……?」


 千鶴が尼僧に問い掛けると、彼女は優しい微笑を浮かべて口を開いた。


「私は梅処尼と申します。ここの墓守を勤めております」


 そして、彼女は優しい笑みを浮かべたまま会釈をすると庵の方へ戻って行った。


「あれは高杉晋作の愛人、おうのという女だ」
「えっ? 不知火さんの話によると、高杉さんにはまささんという奥様が……」
「男とは、身近で献身的に世話を焼く女に惹かれるものだ。新選組の近藤も江戸に妻子がおるのに愛人と仲良くしていただろう?」
「そ、それはそうでしたけど……」
「男とはそのような者なのだ…… 強い振りをしているが、結局は女の方が強かだからな」


 風間はそう言うと、千鶴の腰に腕を回して先を促して行こうとする。そのような風間に、


「千景さんは、愛人なんか作りませんよね?」


 不安に駆られた千鶴が問い掛けてみると、風間は面白そうに笑いながら、


「さあな…… それはお前次第であろう?」


 と、腰に回した腕に力を込めて引き寄せた。


「私次第ってどういう事ですか?」


 千鶴が執拗に問い詰めても、風間はただ笑ってはぐらかすばかりであった。


 吉田宿を後にした二人は、小月宿へ向かう。その道すがら千鶴が風間にある提案をした。


「鬼姫の事なんですけど、千景さんの話を聞く限りでは悪い方ではないような気がするんです。例えば、奪い去って行った女には危害を加えないとか、不知火さん絡みだとか…… 恐らく不知火さんに何かを伝えたい事があるんじゃないでしょうか?」
「では、どうしろと言うのだ? 不知火を鬼姫の所へ無理矢理連れ出して話をさせろとでも言うのか?」


 あの不知火が素直に聞くわけがない――


 風間は半ば諦めたように言い放つ。


「私にいい考えがあるんですけど…… 聞いてくれます?」
「ほう…… 良い案とは何だ?」
「私がわざと鬼姫に浚われるんです」


 千鶴の言葉に風間の歩みがいきなり止まり、振り向いた顔は少し怒りを帯びている。


「…… お前は何を言っているのだ?」
「だから、私を鬼姫に浚ってもらうんです」
「冗談も大概にしろ。今までは危害を加えられなかったが、次は分からんのだぞ?」


 風間にしては珍しく声を荒げている。千鶴にはそれが自分を本当に心配してくれているという事がよく理解できたが、鬼姫の行動が悲しいものに思えてならないのだ。


「千景さん、茶屋が見えてきましたからあそこでゆっくり話を聞いて下さい。お願いします」
「話しになどならん」
「そんな事言わないで下さい。私は一人の女として、鬼姫の気持ちが分かるような気がするんです」
「お前は馬鹿か? 己から危険な道に入ろうとしているのが分かっておらんのか」
「だから、落ち着いて話を聞いて下さいって……」


 千鶴は怒り狂う風間の背中を押しながら茶屋へと入って行った。


 千鶴の話はこうだった――


 風間と千鶴が不知火と合流した後、千鶴が風間たちと逸れ、道に迷う振りをする。鬼姫は必ず千鶴が一人になった時を狙って浚いに来るに違いないと踏んだのだ。そして千鶴が浚われた後、風間たちに後を付けてもらうという計画であった。


「私が連れて行かれる所には、必ずまささんや、他に連れ浚われた女性たちもいるはずですから」


 千鶴の話を黙って聞いていた風間だが、心中は怒りが頂点に達しているのだろう。眉間に皺を寄せ、かなり険しい表情を浮かばせている。


「お前がそこまで危険な事をするまででもない。不知火と鬼姫を立ち合わせて話し合いをさせれば良いのだ」
「不知火さん絡みって、彼は一体鬼姫に何をしたのでしょう?」


 千鶴のふとした疑問に、風間が過去を脳裏に映し出していくと、どうもあの時の事からのようがした。


「いつぞやの会合の時、鬼姫が部屋の中での不知火たちの話を盗み聞きしていたのだ。俺が背後から声を掛けると驚いてな。襖を壊し、不知火にばれた。恐らくあの時からだろう…… あいつは卑怯な真似をする女が嫌いだからな」
「でも、不知火さんは何で盗み聞きって分かったんですか?」
「……」
「千景さん、何かしたんですか?」
「……不知火たちに忠告をしたまでだ。鬼姫が盗み聞きしていたようだと……」


 風間の言葉を聞いた千鶴が大きな溜め息を吐き、それを見た風間はムッとした表情を浮かばせた。


「何だ……?」
「結局、事の発端は千景さんの言葉からじゃないですか」
「何だと? 俺は見たままの事を言ったまでだ」
「女心を分かってないんだから……」
「俺はこそこそとする女は好かん!」


 二人の言い合いは暫く続いていたが、最後は千鶴の計画で事を進めていこうという事になった。そして、その計画にあまり乗り気ではない風間と千鶴は茶屋を出て歩き続け、小月宿へと入って行った。


 小月宿へ到着した二人は、今夜はそこに泊まる事となった。


 旅籠で夕食を食べて風呂に入った後、寛いでいる二人の間では未だにあの計画の事で話が続いていた。


「もっと他に何か良い考えがないものか?」


 千鶴を自分の胡坐の上に乗せて、漆黒の髪の毛を撫で上げながらブツブツとああでもないこうでもないとぼやく風間――。


「まだ言っているんですか? 私がこうするって決めたんですから実行して下さい」


 風間の反対の言葉に千鶴が言い返していくと、珍しく風間が黙り込んでしまう。


「どうしたんですか?」
「いや…… 何もない……」


 風間は千鶴が心配でならなかったが、彼の性格上、その言葉を素直に出す事ができないでいる。


 お前の事が心配だ――


 頼むから自ら危険な真似をしないでくれ――


 心の中では素直に言えるのに、口に出す事ができなくて歯がゆい思いもあった。


「本当に大丈夫なんだろうな?」
「そんな気がするんです。きっといい方なんだと思います」


 風間は目の前で柔らかく微笑む千鶴を静かに見つめた後、


「そうか……」


 と一言を放つ。


「もし、私が危険な目に合ったら助けて下さいね」


 いきなり内耳に飛び込んできた千鶴の言葉に風間の驚きと心痛が堰を切るようにあふれ出してきた。


 風間は千鶴を強く抱き締めると、優しく耳元に口付けを落として安心させる言葉を囁いた。


「当たり前であろう…… お前を危険な目には合わせぬ……」


 互いの唇の距離が縮まっていく。風間の手が千鶴の襟元の中に滑り込み、ゆっくりと肩が曝け出されていった――。


 熱い口付けと手による愛撫、それだけで千鶴の芯が疼き始め、吐き出される荒い息遣いが風間の耳元に流れこんでいく。そしてそのまま二人は褥の上に倒れ込んでいき、二つの身体は部屋の灯りによって一つの影となり、襖に映し出されていた――。


 翌朝、二人は小月宿を出立して、長府宿に向かって歩き出した。


 神田川を石橋で渡り、ひたすら西に向かって歩き続ける。土塀で囲まれた道は旅人たちが多く行き交っている中を進み続け、長府宿に入っていった。


 この長府宿の名の由来は、日本書紀によると、大化の改新後に長門国府が置かれた事から【長府】と呼ばれるようになったと書かれている。


 二人は【忌宮神社】に立ち寄った。


 この神社の忌みの意味は不吉な言葉で使われるのではなく、慎むという言葉から付けられたのだそうで、仲哀天皇、神功皇后が西国平定の折に豊浦宮を建てて、七年間滞在した地だと言われている。


 左右に続く土塀の間を歩き、少し行った所にある功山寺で昼休憩を取った。この寺は高杉晋作が決起した地であるらしい。


 千鶴が重箱を開けて、満開の桜の花が咲いたような笑みを浮かべる。その中味はと言うと、今まで握り飯や煮物類が多かったのだが、緑黄色の華やかな色で飾られており、一番下の段には団子や饅頭類までもが納められていた。


「幸せっ!」


 目をとろりとさせながら一つ一つ味わっていく千鶴だったが、喉が乾いた為に重箱と一緒に包まれていた竹の筒を取り出し飲もうとした途端、それは風間によって取り上げられてしまった。


「喉が渇いて堪らないのに、何をするんですか?」
「阿呆…… お前にはこの香りが分からんのか」


 よく嗅いでみると、それは風間の為の酒だったようだ。千鶴が渋い顔をしながら顔を逸らし、風間がブツブツと独り言を呟いていた。


「こやつが酒を呑んだら大変な事になるからな……」
「何か言いました?」


 口の中に食べ物を押し詰めながらこちらを見つめて来る千鶴の顔には色々な物がこびり付いている。


「いや…… どうもしないが…… 後で顔をよく見ておけ」


 千鶴に酒を呑ませた時の事を知られてしまえば、西の里に着いた後の風間の楽しみがなくなってしまう。


 風間は、目の前で鏡を見ながら慌てて顔にこびり付いた物を拭き取っている千鶴を見ながら、先の楽しみの計画を立て始めていた。


 昼休憩を終えた二人は【野久留米街道】と呼ばれる長閑な山道を歩き続けて行く。そして先を歩き続けると、左の方向に景色が開けて海が視界に入ってきた。


 上り坂を歩き続け、次は下り坂をひたすら歩いて行くそんな繰り返しの中、二人が着いた先は【壇之浦古戦場】の地であった。


 先を歩いて行くと【赤間神宮】に辿り着く。この地では、源平合戦の時に命を失った兵士たちの亡霊が彷徨い続けているらしい。この宮はその御霊を弔う為に建てられたという事だ。


「い、今でもここ辺りで彷徨っているんでしょうか?」


 千鶴が顔を青ざめさせながら、キョロキョロと辺りを見回す。


「さあな…… いるかもしれんぞ。お前の後ろにもな……」
「ぎゃあっ!」


 千鶴が風間に抱き付きブルブルと身体を震わす。それを見た風間は面白いと思ったのか、赤間神宮を離れるまで千鶴を怖がらせ続け、千鶴を自分の身体に引っ付けさせたまま歩き続け、ようやく下関の海峡まで辿り着いた。


「やっと着きましたね……」
「そうだな……」


 二人が到着した下関の海峡の向こうには風間たちが住む里がある西海道(九州)がある。


「さて、不知火と落ち合い、今日はこの地でゆっくりとするか……」
「はい……」


 二人は今日宿泊する事になっている旅籠へと向かって行った。


 二人が旅籠に着き部屋に入ると、そこには先着している一人の鬼が酒を呑んでいた。


「ようっ! 先にやってるぜ」
「お前は我慢するという事ができんのか?」
「目の前に美味そうな料理や酒があったからよ。思わず手が伸びちまった」


 二カッと笑いながら杯を渡してくる不知火に呆れながらも、風間も呑みたかったのだろう―― 並々と酒が注がれた杯の中を一気に呑み干していた。


 料理は海の幸料理であり、千鶴が食べた事のない河豚もあった。


「河豚には毒があるのだぞ。時々、中毒で死ぬ者もおる。食べる時には気を付けるがいい」
「えっ? 私、大半を食べてしまったんですけど……」


 風間の言葉に千鶴が真っ青になり、それを見て気の毒がった不知火が助け舟を出す。


「風間ぁ、てめぇの嫁さんを苛めるのもいい加減にしてやれよ。滅多に中毒なんか起さねぇよ」


 今度は不知火の言葉にホッと胸を撫で下ろす千鶴だったが、からかいを邪魔された風間の機嫌が急に悪くなった。


「不知火…… きさまは俺の楽しみを邪魔する気か?」
「お前の趣味は悪趣味って言うんだよ」
「ふんっ、煩い」


 このような感じで楽しい食事の時間はあっと言う間に過ぎていった。


「おっ、そうだそうだ忘れてたぜ…… 千鶴にこれをやるよ」


 不知火が可愛らしい四角の包みを渡してきた為、千鶴がそれを開けてみると、そこにはふんわりとした白くて四角い物が入っていた。


「阿わ雪っていう菓子だ。うんめぇぞ!」


 千鶴が一口中に放り込んでみると、それは口の中で雪のようにふんわりと溶けてなくなってしまう。


「美味しい!」
「だろっ?」
「千景さんも一つ食べて下さいよ!」


 千鶴が風間の口元へその阿わ雪を持った手を差し出すが、あまり甘い物を好まない風間は嫌そうな表情を浮かばせている。


「俺は要らん」
「食べて下さいって…… 美味しいですよ」
「んじゃあ、千鶴…… 俺に食わせてくれよ」


 不知火が阿わ雪を持っている千鶴の手の方に顔を近付けた途端、風間がそれを阻止して千鶴の指と持っていたそれを口の中に咥え込んでしまった。


「おいおいおいおい……」
「千景さん! 指! 指! 指まで食べないでぇ!」


 風間の口内で阿わ雪が溶けていく感触が分かる上に、溶け切ってなくなってしまったのに未だに不知火を睨み付けながら千鶴の指をその中で舐め回している。


「分かったって! 嫉妬すんなよぉ!」


 呆れ果てた不知火が大きな溜め息を吐いていた――。




 そして、風間の口から千鶴の指がようやく抜かれて三人が落ち着いた後、日向の鬼姫の事について話し合いが始まった。


 風間と千鶴の話を黙って聞いていた不知火が、風間に向かって信じられないという風に言葉を投げ付けた。


「風間…… てめぇは自分の嫁さんを犠牲にすんのか?」
「これは千鶴が考えた事なのだ。聞くところによると、まさという女もまだ何も危害を加えられていないらしい。俺たちが日向に乗り込んだ時も、女たちは皆無事ではなかったか? ただ一つ不可思議な事があるのだが……」
「何ですか?」


 千鶴がその不可思議な事について問い掛けると、不知火が話し出した。


「俺たちが乗り込んだ時、鬼姫が浚った女たちは皆、綺麗に着飾られていたんだよ。あいつは着飾った女たちを眺めて喜んでたんじゃねぇの?」
「女色か……」
「じゃあ…… その鬼姫は、浚った女の方たちに肉体的な事とかも求めていたんですか?」
「いや…… それがなかったらしい……」
「でもよぉ、たまにいねぇか? 肉体よりも精神的な欲求を満たす奴もさ?」
「しかし、助けた女たちの話では、着飾った女たちを眺めながら泣いていたらしいぞ」


 話を進めていくうちにごちゃごちゃになり訳が分からなくなった三人は、今夜はお開きにしようという結論に至ってしまった。


 風間と不知火は話し合いの為に暫くの間は二人で酒を酌み交わしており、千鶴は明日が早い為に先に布団の中に入り込んでいた。


 不知火との話し合いも終わったのか、風間が千鶴が寝ている布団の中に入り込んで来る。


「お話は終わったんですか?」
「ああ、明日早朝に不知火が迎えに来るらしい。まず、船に乗るからな…… 説明はそこでしてやる」


 自分から言い出したものの、少しの不安を覚え始めた千鶴が風間の胸元へ顔を摺り寄せていく。


「どうしたのだ?」
「……何でもありません……」
「怖いのならば止めてもいいのだぞ」
「いいえ…… 怖くありませんし止めません……」
「強情な女だ。顔には怖いと書いてあるのにな……」


 風間がクックッと笑いながら千鶴の顔を自分の方に向かせ、額に軽く口付けをする。


「思った通りだ…… 不安な表情をしている」
「船酔いが不安なだけです…… 長く乗るのでしょう?」
「ほう…… 上手く話を逸らしたな。しかし、お前くらいに強情な女でないと、頭領の妻は務まらんからな」


 そして、風間の唇が千鶴の唇を塞ぐ。いつもこの時間だけが千鶴に大きな幸せを与えてくれるのだ。


「怖いのであろう……? 素直になれ」


 風間が唇を離すと、千鶴の口元から微かではあるが荒い息が漏れ出している。


「怖く…… ありません……」


 千鶴が風間の首に腕を絡ませて身体を密着させながら口付けを行うと、風間はそれに優しく応えて長く深い口付けを授ける。


 千鶴の目の前で幻想の桜の花弁が舞い散り、それは風間によって千鶴の胸元にひらりひらりと鮮やかに彩られていく。


 小さな喘ぎが次第に声高らかになり、二つの身体が一つになる。


 幾度も繰り返される最後までは至らない行為ではあるが、二人の身体には熱を帯びた汗が滲み出す。それがどちらのものかも分からないほどに口付けと愛撫だけで心を一つにした――。


 明日からは薩摩街道に向けて進んで行き、その街道であの計画が実行されるのだ。



 風間の愛の行為は千鶴に力を与えてくれる。風間に愛されている間の千鶴の心の中には【不安】という文字の存在さえも掻き消されていた――。


- 137 -

*前次#


ページ: