14:ツンデレ鬼の正月明け
「ん……」
清々しい朝日と共に目が覚めるはずだった――。
「な、何で……?」
千鶴が布団の中でもがく。いや、正直に言えば風間の腕の中でもがいていた。
「何を暴れている? 少しは大人しくできんのか?」
「で、できるわけないじゃないですか! 何でこう毎日のように布団の中に入って来るんです?」
「たったの三回だけであろう」
「た、たったの三回って……三が日の最後くらいは一人で寝たかったのに」
「何故だ?」
風間が千鶴の顔に自分のそれを近づけてくる。緋色の瞳と蜜色の瞳がぶつかった。
「だ、だって、今日から診療所を開くんですもん」
「それと一人で寝るのとどう関係があるのだ?」
「だ、だから……」
「だから、何だ?」
風間の唇が千鶴のそれに触れる。このような行為をされただけで、千鶴の胸は高鳴り、目が冴えてしまう。
「だ、だから、私今、寝不足なんです! こんなんじゃ、誤診してしまうかもしれないじゃないですか」
二人の間にちょっとした沈黙が走った後、風間の口元が厭らしく吊り上げられる。
「何かされると思ったのか?」
低く艶のある声音に、男女の行為を仄めかすような言葉で、千鶴の顔から火が噴いた。
「お、思ってません!」
千鶴は風間の顔を押し返すと、布団からようやく逃れて、朝食の準備をする為に勝手場へと急いだ。千鶴の姿が消えた襖の方を見つめていた風間は一言を洩らす。
「素直でないし、分かっておらん……」
そして再び布団の中へ身を投じていた。
「何で夜中にいつも、布団の中に潜り込んでくるんだろう?」
味噌汁の味見をしながら千鶴が文句を垂れる。
夜中、いつもの夢を見そうになる頃、必ず寝ぼけた風間が布団の中に入って来る。その為、いつもの夢はそこで途切れてしまうのだが、今度は隣りの風間の寝息が千鶴の顔に当たってぐっすりと眠るどころではなくなる。
それにこの風間。手癖足癖も悪く、布団の中で千鶴の身体に巻き付いてくる。何かされるかもという恐怖もあるのだが、全身を縛り付けられてしまった千鶴は身動きもできずに硬直状態に陥ってしまうのだ。
風間にしては、ただ抱き付いて眠っているだけに過ぎないのだろうが、あのような行為にあまり慣れていない千鶴にとっては衝撃的な三日間であった。
でも、何となく安心して眠れたかな――
この三日間の夜の事を思い出し、一瞬でもそのような気持ちになった千鶴はブルブルと頭を激しく揺さぶった。
「駄目、こんなんじゃ駄目だわ……さて、朝ご飯の用意もできたし、風間さんを起こしに行かなくちゃ」
雑念を振るい落とさねば――千鶴は背筋を伸ばすと、風間の寝ている自分の部屋へ直行した後、そこからは、再び千鶴の情けない叫び声が響いていた――。
卓袱台の上では温かそうな湯気が上がった器が二人分の量を乗せている。その前では、頬を温かくしたように赤くなっている風間の不機嫌な顔があった。
「西の里へ戻れば、嫌という程この俺に抱かれるのだぞ。いい加減に慣れぬか」
「も、もう抱いているじゃないですか。それに、まだ慣れなくてもいいです」
千鶴は手早く朝食を済ませると、不機嫌な風間を残して診療所を開ける準備を始めた。
「まあ、三が日の次の日だし、患者さんはあまり来ないかな?」
などと軽い考えを持ちながら診療所の引き戸を開けた瞬間、千鶴の身体は硬直をしたまま立ち尽くしてしまう。
「な、何……あれ……」
千鶴の診療所の前には、何故か嫁入り前の年頃の娘が屯している。それも、もう正月も終わったというのに、艶やかな振袖姿が朝日に照らされて眩しい。
引き戸が開いたのに気付いた一人の娘が千鶴に駆け寄って来る。
「せんせぇ、ちょっと診てもらいたいんです」
「はあ……どこが悪いんでしょうか?」
「えっとぉ……胸の辺りが……こう、ドキドキして苦しいんですぅ……」
「はあ……。一応、診察をしますから中へ入って下さい」
すると、診療所の前で屯していた娘たちが雪崩のように一斉に中へ押しかけて来る。
「ちょ、ちょっと! 押さないで! 怪我をしますよ!」
千鶴の注意もお構いなし。娘たちは診療所に入るとすぐに辺りを見回した。
「せんせぇ。あの方はどちらにいらっしゃるんですかぁ?」
「はい? あの方って……?」
「嫌よぉ、せんせぇ。大晦日からせんせぇと一緒にいらっしゃった男の方の事ですよぉ」
こんな朝早くから、大勢の娘たちが診療所に集まって来た訳が納得できた。この娘たちは風間目当てでやって来たのだ。病気でも何でもない。いや、少しは病持ちかもしれない。それも――
恋の病――
しかし、そのような病を治す薬などここにはない。いや、ある――と、千鶴は診療所から母屋へ続く引き戸を見つめた。
この娘たちの病を治すのは【風間薬】。千鶴は引き戸を開けて、ご飯も全て食べ終え、茶の間でゴロンと寝転がっている風間の名を小さな声で呼んだ。
「風間さん、ちょっと……」
「何だ?」
風間は寝転んだまま顔をこちらに向けてくる。
「ちょっと来て下さい」
風間が不思議そうな表情を浮かべてその場から起き上がると、千鶴の所へやって来た。
「何事だ。ん? 何やら騒がしいな」
「風間さんという薬が必要な方たちばかりなんです。何とかして下さい」
「俺は薬でも何でもない。鬼だ」
「いえ、鬼っていうのは分かっていますから。ただ、あの娘たちは風間さん目当てでやって来てるんです。恐らく全員が胸が苦しいとか言うはずで……。あの娘たちの後から本当に具合の悪いお婆さま方が数人いらっしゃっているんです」
風間が引き戸向こうの診療所の中を覗き見ると、ここに来るには相応しくもない格好をした女たちの姿があった。風間好みの女もいればそうでないのもいる。
風間も鬼と雖も男である。好みの女の顔を見て少しだけ心が揺らいだが、いやいや――と頭を振りながら、
近い将来の妻が困っているのだ。何とかせねば――
と、本能よりも先に理性を優先させた。
「俺の色香に誘われて来たのか」
「色香でも何でもいいんです。兎に角、あの娘たちがここに来たのは風間さんのせいなんですから何とかして下さいよ!」
千鶴が困惑しながら文句を垂れるが、風間は慌てるふうでもなく微笑んだ。
「お前もあの女たちのように、俺の前で美しく着飾っておれば良いものを」
「だから……」
風間の表情には全く反省の色がないと、千鶴が目尻を吊り上げて再び文句を言おうとした瞬間、
「ひゃっ!」
千鶴の身体は宙に浮いていた。それが風間に抱かれた事によるものだと知るには数秒。
「ちょ、ちょっと、何するんですか? 私なんか抱かないであの娘たちを……」
「暴れるでない。今からあの女たちをすぐに追い出してやる」
「へっ?」
風間の考えている事が理解できない千鶴がポカンとする。それに構わず、千鶴を抱いたままの風間が診療所の方へと入って行った。
「あ、あの方よ!」
「きゃあっ!」
美しく着飾った娘たちが風間の方を見て、色付いた叫びを上げたが、それは一瞬で掻き消された。それもそのはず。風間の腕の中に、何の飾りっ気もない千鶴の姿があったからだ。
「せんせぇ、何でその方に抱かれてるんですかぁ?」
「ちょっと、降りて下さいよぉ。私たちはこの方にご用があるんですから」
最後の娘の言葉に風間が敏感に反応をした。
「ほう、この俺に用があったのか? では、今日は具合が悪くてここに来たわけではないのだな?」
「いえ、私たちは皆、胸の動悸が激しくて……それで……」
「皆が揃って同じ病だとは、奇遇な事だ」
風間の低い声が診療所内に響き渡る。娘たちの背後では、本当に具合の悪い老婆が激しい咳を起こしていた。風間はその老婆を見つめた後、着飾って元気いっぱいの娘たちに鋭い視線を向けた。
「ここは、具合の悪い者だけが来る場所だ。従ってお前たちが来る必要はない。それに……」
風間が次に視線を向けたのは千鶴の顔。その時、風間の心の中で自分でも信じられない感情が沸き起こった。
目の前の着飾った女たちよりも、自分の腕の中にいる飾りっ気のない千鶴の方がより美しく感じたのだ。
これが愛というものなのだろう。風間は【愛】という感情に何となしに納得をしながら、いきなり千鶴の唇に自分のそれを深く重ねた。
診療所内で娘たちの悲鳴が次々と起こる。中には失神した者もいるのだろうか。その場に倒れるような音まで数度聞こえてきた。
長い口付けをようやく終えた風間が、美しく着飾った娘たちを見つめながら微笑んだ。
「悪いが、俺が持つ薬はこの女にしか効かぬ。他を当たってくれ」
「そ、そんなぁ! 一体せんせぇのどこがいいんですかぁ?」
「そのせんせぇよりも私たちの方がよっぽど美しいはずよぉ!」
女たちが口々に自分たちの美しさを強調してくるが、今までの風間にとってはそれらが日常茶飯事であった為に、辟易した溜め息を放った。
「美人は三日で飽きるとも言うが、俺は男だからな、見目の良い女の方がいいとは思う。しかし、いくら見目が良いと言ったとしても、この俺に一生を捧げられる女でなければ困るのだ。それには見目ではなく中身が重要となる。お前たちの中でこの俺に一生を尽くせると自信がある者がいるのならば相手をしてやろう。ただし……」
風間が娘たちの方に緋色の艶めかしい瞳を流す。
「俺はこの通り、傲慢で勝手な男だ。お前たちには俺に一生を捧げろと言ったが、俺はお前たちにはそのような事はせん。抱きたい女が目の前にいれば抱く。しかし、お前たちが俺以外の男に手をつけたのならば……」
診療所内が静まり返る。娘たちは皆、風間の次の言葉を待っている。
「……俺は容赦なく、殺す」
その恐ろしい言葉で悲鳴を上げながら娘たちが診療所を駆け出して行く。失神をしてしまっていた者たちもすぐに意識を戻し、周りの娘たちに助けられながら慌てて帰って行った。
「さて、帰ったぞ。あの婆を診てやれ」
風間が抱いていた千鶴を下すが、腰が砕けたのかしっかりと立つ事ができないようだ。
「腰が砕ける程、激しくはしておらんが?」
「ち、違います! あまりにも突然で驚いてしまったんです!」
娘たちを追い出して欲しいと頼んだ千鶴ではあったが、他にマシなやり方があっただろうと、胸の音を激しく鳴らしながら溜め息を吐く。しかし、口付けどうこうよりも、風間の後の言葉が心の中で引っ掛かりを覚えている千鶴には構いもせず、
「これで女たちもここに来る事はまずないだろう」
と、風間はそう言い残して茶の間へと姿を消してしまった。
「来なくなるのはいい事なんだけど、今日ここであった事は既に噂になってるだろうし……それに……」
千鶴はもやもやとした感情を持ったまま、本当に具合の悪い老婆の診察を始めたのだが、その老婆が咳き込みながら千鶴に問い掛けてくる。
「今の色男は先生のいい人なの?」
「えっ?」
老婆の問い掛けに、いい人と言うべきか違うと言うべきか悩んでいると、その老婆は更に激しい咳き込みを起こしながらも、頬を桜色に染めた。
「本当にいい男だねえ……ゲホッ! ガホッ! 私もあと数年若けりゃ、先生のいい人を奪い取る事もできたんだけどねえ……」
「あと数年若けりゃってお婆ちゃん、あなた今、八十歳でしょ! あと数年若かったらって、私の事ですよ」
付き添いの嫁までもが風間の色香に惹かれてしまっている。
「老若男女問わず、あの顔はもてるのね……」
会話をすればどんなに勝手な男かと思ってしまうが、黙っていればかなりもてるようだ。
先程の診療所内で風間を見つめる娘たちの色付いた表情を思い出すと、千鶴の心の中は言いようのないもやもやとした霧のようなものが更に濃さを増して立ち込めてきていた。
「あの女たちの言葉を聞いてよく分かっただろう? お前ももう少し着飾って俺を喜ばす事をせねばならん。何せ、我が妻になるのだからな」
「その言い方を止めれば、多くの女性にもてると思うんだけど…風間さんて昔から女性にもてるんですか?」
診療時間も終わり、夕ご飯の時間。千鶴は目の前で美味しそうに酒を喉に通している風間を見つめながら問い掛けてみた。すると、
「生憎俺はこのような男だ。これを変えるつもりは全くない。それに、俺は今まで女には困った事はない。女から寄って来るしな。お前も俺がもてる男だとこれで分かっただろう?」
千鶴は、風間の揺ぎ無い言葉と自慢話を聞くと、少し苛々しながら大きな溜息を一つ零した。
「じゃあ…何で私だったんですか…?」
「今のところ人間の女には興味はない。それに面白くもない女鬼など此方から断る」
「私は面白いんですか?」
「飽きる事はない。それに……」
「それに……?」
「いや……何でもない。銚子の中の酒がなくなった。代わりをくれ」
「えっ? もう三本目ですよ。もうおしまいにしましょう」
千鶴が駄目だと言わんばかりに頭を大きく振り回すが、風間は躊躇もせずに銚子を千鶴の方に差し出した。
「今日はお前を助けてやったのだ。その礼としてあと二本は用意しろ」
「ええっ!?」
話を逸らす為に酒の代わりを頼んだ風間。
千鶴と同じく新選組に興味を持った者同士で、気が合うと思ったなど口が裂けても言えまい――。すると、銚子を盆に乗せながら、千鶴が再び問い掛けをしてくる。
「風間さんは、私と夫婦になった後も他の女の方を抱くつもりなんですか?」
「そうするつもりだ、と言ったらお前はどうなのだ?」
「それは……」
千鶴が黙り込む。しかし、千鶴の表情からは、嫌だと言わんばかりの色がありありと見て取れた風間は、いきなり千鶴の身体を自分の方へと引き寄せた。
盆の上の銚子が倒れ、漆器のぶつかる音が茶の間に響き渡った。
「な、何をするんですか?」
「見本を見せてやるのだ。俺のこの目に他の女を映さない為のな……」
風間が千鶴の唇を塞ぐ。熱く深い口付けが、千鶴の頭の中を真っ白な世界へ連れ込もうとする。
何も考えられないと思った瞬間、風間の唇が千鶴のその場所から離れた。
「このようにして俺はお前を離さないようにしている。従って、お前も俺のように離さないようにすればいい事だ」
「か、風間さんは気紛れですもん。そんな難易度の高い要求なんてしないで下さい」
千鶴が頬を膨らませて文句の言葉を投げ掛けるが、風間は楽しそうに見つめている。
「簡単な事だ。俺がお前から目が離せぬほどのいい女になれば済む事……」
風間はそう言って目を細めると、再び千鶴の唇に自分のそれを近付けた。
酒精の香りが千鶴の鼻腔を擽る。これだけでも胸が高鳴って何も考えられなくなってしまう。
「いい女になれって、どうすればいいのかよく分かりません」
困惑気味に答える千鶴の唇を塞ぐ。
千鶴はこのままでいいのかもしれない。既に風間は千鶴の素朴な魅力に惹かれている。しかし、このような事を素直に言葉で伝える男ではない。
「西の里に着くまでによく考え、自分を磨け」
風間は一度離した唇を、千鶴のぷっくりとした唇の上に再び重ねていった――。
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