15:ツンデレ鬼の節分



 大した荷物はないのだが、少しずつ西の里へ行く準備を始めている千鶴。診療所に通って来る患者たちにもここを離れる事を詳しく説明をして、他の診療所などに紹介状などを書いて渡し始めていた。


 既に風間との同棲が近所中に知れ渡る事となっていて、千鶴から説明を受けた患者たちの多くが、診察よりもそちらの話に持っていこうとする。


「もう、あんないい方がいらっしゃったんなら他の男の方を見たって味気ないわよね。もっと早くに言ってくれていたら縁談話なんて持って来なかったのに」
「い、いえ……あの時は私もこんな事になるなんて思ってもみなかったものですから」


 千鶴が心音を聞いている間も患者が話し続ける為、聴診器からはその音と共に余計な音まで聞こえてくる。ようやく正確な心音が聞き取れて、診察が終わったと思ったら、そこから患者の話はまた始まる。


「ところで先生。あんないい男と一緒に暮らしている御感想は?」
「は、はい?」


 いきなりの質問に千鶴が素っ頓狂な返事をすると、患者がケラケラと笑いながら片手を振り回して肩の辺りを叩いてくる。


「いやあねぇ、先生ったら……照れなくてもよろしいんですよ。毎晩、愛されていらっしゃるみたいですわねぇ」
「ど、どういう事ですか?」


 愛されているとは意味が分からない。何せ、風間がここに来て以来、口付けは嫌という程してきたが、男女の行為までには未だに至っていないからだ。


「お隣の奥さまが言っていらっしゃいましたよ。毎晩、先生の声が聞こえるって……」
「あっ……そ、それはですねえ……」


 その声は、最近の風間が夜中ではなく、千鶴が寝る時に布団に入って来る時に放っている叫び声だ。どうしたらあの声が愛されているように感じるのだろうか。


「もう本当に、毎日が激しいって言ってらっしゃってましたよ」
「ははっ……」


 違うと言っても誰も信じてはくれないだろう。噂というものは脚色されて広がるものだ。しかし、人の噂も七十五日。放っておくしかないし、もう笑うしかない。だから千鶴は頬を引き攣らせながら笑った。


 江戸内で梅が咲きだす頃に出立をするのだが、今年は少し咲くのも早いのか、庭の梅の木には固くて小さい蕾が一つ二つとつき始めていた。


「今日は確か、二月三日……ああ、そうだ。節分の日だ」


 診療所の昼休み。今日が何の日だったかを思い出した千鶴が母屋へと駆け込む。


「風間さん!」
「何だ?」
「……」


 茶の間に入った千鶴が見たもの――それは温めもしない酒を呑んでいる風間の姿であった。


「もう、昼間からお酒なんて呑まないで下さいよ! 正月が終わってからいつもこれなんだから……」
「お前が患者の相手をしている間の俺は暇だからな。酒を呑むしか楽しみがない。それに、酒の金は俺が出している。文句を言うな」
「そういう問題じゃなくてですねぇ……他にも何か楽しみはないんですか?」
「俺にだって楽しみの一つはあるぞ」


 目の前で酒を呑んでいる風間の即答に、千鶴は瞠目をした。酒を呑む姿しか見た事がない風間に楽しみの一つがあるとは信じられなかったのだ。


「じゃあ、お酒なんか呑まないで、その楽しみをして下さいよ」
「今していいのか?」
「ええ、お酒を呑まれるよりましですから、して下さい」


 千鶴が呆れたように言った瞬間、自分の身体が宙に浮くのを感じた。


「えっ……? 風間さん、一体何をしてるんですか?」
「何をだと? 今から俺の楽しみをするつもりなのだが?」
「へっ……?」


 驚きのあまりに瞠目する千鶴の瞳の中に、風間の緋色の瞳が悪戯っぽい色を放った。


「ま、まさか……」
「今になって分かったのか? 俺の楽しみと言えば、お前を抱く事だ」
「ちょ、ちょっと……ちょっと待って下さい!」
「待たん。お前は酒を呑むくらいなら楽しみの方を優先しろというような言い方をしていたからな。その好意に甘んじさせてもらおう」
「ま、待ってええぇぇっ!」


 この後、午後の診療所内でも、診療所を閉めた後に風間を引き連れて買い物に出かけた時も、隣りに先程の声が丸聞こえだったようだ。既に新たな噂がそこら中に広まっており、行く先々の店で店主や客からの熱い視線が痛い程突き刺さっていた――。




「今日は節分ですから、夕ご飯はこれです」


 卓袱台の上には焼き鰯、蒟蒻の煮しめ、そして巻き寿司にけんちん汁が大きな顔をして乗っている。勿論、その隅っこには風間用のお酒も銚子の中から仄かな香りと湯気を醸し出している。


 しかし、風間の機嫌が頗る良くなさそうだ。卓袱台の上の料理を睨み付けている。


「風間さん、どうしたんですか?」
「俺の勘違いであればいいのだが、千鶴……これはもしや【節分】とやらの時に食するものか?」
「そうですよ。今日は節分ですからって言ったじゃないですか。それがどうしたんですか?」


 すると、いきなり風間が卓袱台の上を両手で叩き付けた。勿論、卓袱台の上で大きな顔をしていた料理たちは飛び上がり、再び元の位置に戻る。


「節分という行事は人間が鬼を追い出す為のものだ。鬼が鬼を追い出してどうするのだ?」
「どうするって、ここは鬼の里じゃないんですから別に構わないじゃありませんか」
「ふん、お前は自分が鬼だという自覚がまだないようだな。このような人間かぶれのような事をしおって」
「な、何て事言うんですか!? 別に行事ごとを楽しんだっていいじゃないですか! それに、この節分っていうのは鬼を追い払うだけじゃなくてちゃんとした意味があるんですよ!」


 千鶴が節分を何故行うかという説明をしようとするが、怒りばかりが先にきている風間になど聞く余地もないようだ。


「意味があろうとなかろうと、この行事は我ら鬼にとっては心外なものだ! この飯は俺たち鬼には必要はない。すぐに下げろ!」


 そう怒鳴ると、銚子ごと中の酒を呑み干していく。その姿を見つめていた千鶴の中にも怒りが沸き起こり、風間に怒鳴り付けていた。


「な、何ですか! わ、私がどのような気持ちを込めてこの料理を作ったか理由も聞かないで、自分の勝手な言葉ばかり……」


 悔しくて涙が零れ落ちそうになる。それをグッと我慢した千鶴は、卓袱台の上の料理を全て勝手場に持って行くと、そのまま自分の部屋へと駆け込んだ。


「あんな勝手な男(ひと)の妻になって、果たしてうまくやっていけるのかしら……」


 部屋に入った途端、堪えていた涙が溢れ出てくる。千鶴はその涙を隠すように、先に用意をしていた布団の中へと潜り込んでしまった。




「腹が減ったな……」


 卓袱台の上には料理が下げられてしまい、風間の目の前に数本の銚子があるばかり。それらも中身は既に空になっていた。


 勝手場に入った風間は、先ほど卓袱台の上に乗せられていた料理を見つめた。手を伸ばしかけたが引っ込む。何故なら、千鶴にいらないと言ったのだ。風間の中にある自尊心がそれらを食べる事を許してはくれない。


「そう言えば、先ほど何かを言っていたな」


 確か、この料理にどのような気持ちを込めたか何とかと――。


 風間は踵を返すと、千鶴の部屋まで歩いて行った――。




 千鶴の部屋の襖を開けると、真っ暗な部屋の真ん中にこんもりと山を作った布団が風間の視界に入った。


「千鶴、寝たのか?」


 問い掛けてみるが、勿論、怒っている千鶴からの返事はない。しかし、起きているのは分かった。何故ならば、布団の山が微かな動きを見せたからだ。


 風間が千鶴の布団の傍に腰を下ろす。そして、静かな声音で問い掛けた。


「お前はあの料理にどのような気持ちを込めたのだ?」
「……」


 やはり返事がない。風間は頭をポリポリと掻きながら言葉を紡ぎ始めた。


「この節分という行事は、我ら鬼の里では一切やらない決まりになっている。内容があれだからな。だから、今まで人間として育ってきたお前には違和感などないだろうが、俺にとってはあまり好まない行事なのだ。しかし、俺がこの行事が鬼を追い払う内容である事しか知らん。従って、先ほどのお前の言葉がよく理解できん」
「……だから、説明しようとしたのに、風間さんが勝手に怒って……」
「だから今、聞かせて欲しいのだ。内容によってはあの料理を食ってやらん事もない」


 その瞬間、布団の中の千鶴の耳にも聞こえた。


 風間の腹の鳴る音が――


 素直に腹が減ったと言えばいいのに、全く素直でない男である。しかし、空腹には耐えられず、仕方なくやって来たのだろう。今の言葉は風間にしては素直な方だ。


 千鶴は布団から顔を出すと、上体を起こした。


「節分は邪鬼を祓うという意味合いもありますけど、家族が皆、病気や怪我をせずに健康で幸せな一年を送れるようにという意味も含まれているんです。だから私はそれらの願いを込めて先ほどの料理を作ったんです」
「そうか……」


 風間の返事と共に、互いの腹の中から虫が鳴き始める。


「何だ、腹が減っていたのか」
「か、風間さんだって……」
「まあ、節分とやらにもう一つの意味が含まれている事を知ったからな。それにお前は腹が減っていて今にも死にそうな顔をしているが、一人で食うのでは美味くはなかろう。不本意ではあるが仕方あるまい。お前と共にあれらを食ってやろう」
「お腹が空いているのなら、そうだって素直に言えないんですか?」
「俺は腹が減っているとは言っておらん」
「でも、風間さんのお腹は正直みたいですよ?」
「お前の腹の音が移っただけだ」
「なっ……! 先にお腹の音を鳴らしたのは風間さんじゃないですか!」
「煩い! その素直でない口は今すぐに塞いでやる」


 千鶴を強引に抱き寄せて口付けを施す風間。暗闇の中で唇が触れ合う音だけが響き渡る。


 ようやく互いの唇が距離を持った時、


「酒も呑むからな。銚子三本は浸けろ」


 と、毎度の事ながら、風間からの絶対的な要求が投げ掛けられたが、今の千鶴にはそれが嫌だとは感じなかった。


「はい、分かりました。銚子二本ですね」
「お前は耳が悪いのか? 銚子三本だと言ったろう」
「あら、そう言ってましたか? 三本浸けますよ」
「そうだ、そうやって俺の前では素直でいろ」


 別に素直に言ったわけではないのに、自分の思い通りになるとすぐに機嫌が直る風間。ようやく機嫌も直り、穏やかな雰囲気となった部屋で、千鶴が囁いた。


「風間さん、庭の梅が蕾をつけましたよ」
「そうか……では、ここを発つのも直だな」
「そうですね。もうすぐですね……」



 風間の唇が囁きを投じていた千鶴のそれに再び重なる。何度も何度も口付けを交わした後の夕食は、結局、午前様になってしまっていた。


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