薩摩街道-松阪宿→府中宿→羽犬塚宿
翌朝、風間が先に目覚めると、隣で寝ている千鶴が布団を全く被っていない事に気付き慌てて被せたのだが、目覚めた頃には少し鼻の奥に違和感のある水気が溜まり始めていた。
松崎宿から府中宿へ向かう二人。その道中、千鶴はくしゃみに咳に鼻水が出ていたが、身体にはだるさを感じなかった為、元気に歩き続けていた。
小さな集落の中の田園風景を眺めながら歩いて行くと、【北野天満宮(下宮)】に辿り着いた。
この神社のおもな祭神は、無実の罪で大宰府に流された菅原道真である。祭神、菅原道真と河童についての伝説もあり、【河童の手】が宝物として残っているという。
菅原道真と河童の伝説は二つあり、その一つは、道真が北野の川で馬を水に入れようとした時、河童が川の中から馬の足を捕え、川の中に引き入れようとした為、驚いた道真が刀を抜いて河童の手を切り落としたという説と、もう一つは、道真が北野の岸辺で追手に襲われた際、河童が道真公を助けて戦い、戦いの相手が河童の手を切り落としたという説である。
この九州の地には河童伝説が数多く存在していると風間は言う。
壇ノ浦の戦いに敗れた平家の兵士たちの霊魂が河童になったとか、豊前では【雲八幡宮】で【河童楽】という神事があるとか、筑後でも河童と呼ばれるものが川辺付近に多く住んでいるとかである。しかし、それらの多くは人間との揉め事や悪戯等の話しが殆どであった。
そして、二人は歩き続けて【筑後川】を神代船渡しで超えて行き、府中宿を歩き続けて行った。
府中では、田中久重という、水からくりなどの仕掛けを考案したりして【からくり犠右衛門】と呼ばれた人物がいる。
彼は天文学や蘭学などの西洋の文化技術を学び、嘉永四年、「万年自鳴鐘」を完成。嘉永六年、佐賀藩精錬方に招かれ蒸気船・銃砲の製作などを行い、その後、久留米藩に帰り、藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、石碑が立つ裏山に藩鋳造所を設け大砲(アームストロング砲)を鋳造した。
「蛤御門の変の時や鳥羽・伏見の戦いで大砲の音を聞いた時に恐ろしさを感じたんです。人間はこの先もっと恐ろしいものを作り出すのではないかって……」
「その時は人間たちの中だけの争いになり、我ら鬼はひっそりと傍観するだけだ。もう、あの惨事に巻き込まれる事は決してないだろう……」
恐怖に慄く千鶴の肩に置いていた手に強く力を込めながら引き寄せた風間。二人は、羽犬塚宿へと歩いて行った。
高良川を渡った所の土手で昼休憩をしていたその時、風間は千鶴の食べる姿を意味ありげな表情を浮かべながらずっと見つめていた。
この羽犬塚の地名の由来は、天正十五年四月、天下統一をめざす豊臣秀吉は、数万の大軍を率いて九州に遠征し、この羽犬塚にさしかかった時、共に連れていた敏しょうで羽根が生えたようによく跳ぶ愛犬が敵の矢にあたり死んでしまった為、秀吉はこの愛犬を弔う為に塚をつくり、この地を羽根の生えた犬の塚という意味で【羽犬塚】と呼ぶようにしたらしい。
その話を聞いていた千鶴がいきなり風間に向かってこのような事を言い出した。
「私、夢があるんです」
真剣な眼差しで自分の方に向いている千鶴を風間が見つめる。
「何だ?」
「いつかは犬を飼いたいんです」
犬は好きだが、どちらかというと勝手気ままな猫の方が自身の性格にも似ていて飼ってみたいと思っていた風間が頭を左右に振った。
「いや、犬よりも猫だろう……」
「いいえ、犬がいいんです」
千鶴が風間に詰め寄っていくが、風間の微笑みは余裕な上に不敵さを浮かばせている。
「な、何か言いたい事でもあるんですか?」
「いや…… ただ、目の前に一匹の犬がいるというのに、二匹も飼わねばならんのかと思っただけだ」
目の前の犬――
風間の目の前――
それは、私――?
千鶴の顔がどんどん赤くなっていき、それを見た風間は、
「やっと気付いたのか……」
と面白そうに千鶴の方を見つめている。
「ひ、酷い!」
怒りで全身を震わせながら文句の言葉を叫ぶ千鶴を風間が何やら観察するように見つめ続ける。
「酷くはないぞ。前までは仔犬だったが、やっと普通に犬になれたのだからな。成長したという事だ」
そして、風間はいきなり千鶴を抱き上げると、互いの額を重ね合わせた。
「やはりな…… 熱がある…… 旅籠まで歩けるか?」
「えっ、熱があるんですか? 全然しんどくはないんですけど」
風間は昼休憩の時に、昼飯を食べている千鶴が、しっかりと食べるもののいつもの速さではない上に、ほんの少しだけだが弁当の中身を残していたのを見ていたのだった。
旅籠までは元気に歩いていけた千鶴だが、そこに入った途端、足腰が崩れ落ちて倒れてしまう。
慌てて部屋に案内した女将が布団を敷いてくれた為、風間がそこに千鶴を寝かせたが、熱が上がってきているのだろう―― 全身がブルブルと震え上がっていた。
「布団も被らずに寝るからだ。」
この旅籠の女将が持って来てくれた粥を食べさせるが、やはり熱があってだるさの方が強いせいか、全てを食べ切る事はできないでいる。
「し、知りませんよぉ。寝てしまってたんですからぁ」
荒い息遣いをしながらも、風間の叱咤に歯向かう千鶴の額の上に冷たい手拭が優しく置かれた。
「あ、有難うございます……」
「まだ、寒いか?」
「少しだけ…… でも、明日には下がりそうです」
火照った顔を風間に向けながら笑う千鶴の表情は弱々しく感じられる。
風間は千鶴の横に滑り込むと、その小さな身体を自分の大きな身体で包み込んだ。
「千景さん、うつりますよ」
「お前の病などうつらん。温いか?」
「はい…… 温かいです」
風間の身体の熱が千鶴に伝わり始め、なかなか温もらなかった布団の中がふんわりと熱を篭もらせ始めている。
「千景さん、おうのさんという高杉さんの愛人に会った時、男がどうこうと言ってましたよね? あの時、私次第だって千景さんは言ってましたけど、あれはどう言う事ですか?」
千鶴は熱の為にうとうとと意識を遠退かせながらも、必死に目をこじ開けて風間を見つめようとする。その瞼の上にそっと口付けを落とした風間は、
「そのような事をまだ気にしていたのか……」
と、優しく囁いてきた。
「簡単だ、お前が俺をしっかりと掴まえておればいいのだ」
「手でギュッとですか?」
「そうだな。手もあるが心もだ」
「…… 心は、手で掴まえられません」
千鶴の口から吐き出される言葉は時に大笑いをしたくなる程に面白い時がある。これが故意に言っているのではないのだから余計に面白い。
風間は、声を上げて笑いそうになるのを抑えながら、千鶴を抱き締めている力を強めた。
「心というのは、傍にいるだけで掴まえられるのだ。だから、俺から離れずに傍にいればいい事だ」
「ああ…… そうですね……」
風間の最後の言葉に返答した千鶴が深い眠りに入っていく。口元に手を当ててみると、吐き出される吐息は先程よりも生温くなってきている。そして、額から小さな汗の粒が浮かび上がってきていた。
この旅籠に着いた後に不知火から書状が届いていた。風間が中を読んでみると
ありがとよっ!
ただそれだけの文字が記されていた。しかし、風間はそれだけで満足である。一々奥深くまで詮索しようとは思わない。後の事は彼らの行動次第だからである。
今は、この目の前で寝ている千鶴との旅が風間にとっては重要な事であり、他人になど構っている暇などはない。
「やれやれ…… この俺がお前に精一杯になるとはな……」
風間はそう呟くと、千鶴の額の汗を拭い取り、彼もまた深い眠りへと入って行った。
翌朝、千鶴の熱も下がり、食欲もいつも通り旺盛である。
料理に食いつく様はまるで犬のようだ――
千鶴の朝食を食べる姿を見つめながら風間は考える。
西の里に戻って動物を飼うのならば、犬もいいかもしれんな――
そして元気になった千鶴を、嬉しそうに見つめるのであった――。
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