忠実すぎる犬には困りもの-sidestory-
風間家に仔犬が来ることになり、千鶴は朝からその犬の為の用意で大忙し。それを少し離れた所から傍観している男が一人。
それは勿論、風間である。
「全く、犬を飼ってやろうと言い出したら、俺の事など目の端にも映らんのか」
風間のちょっとした、いいや、かなりの嫉妬の視線は千鶴には全く届かず。それ程、千鶴の頭の中は仔犬の事でいっぱいであった。
「明日には仔犬が来るって聞いていますけど、犬種は何になるんです?」
夕食の時間に千鶴が風間に問いかける。
犬を飼ってやるとは聞いたが、選ぶのは風間であり、千鶴は屋敷の中で仔犬が来るのを待つしかないのだ。
ムクムクとして栄養状態の良い仔犬を想像する。いや、風間の事だから、もしかすると小型犬なのかもしれない。
例えば、かつての徳川将軍が飼っていたという朕という犬だろうか? しかし風間はこう言い放ってくるだけであった。
「今はその話をするな、気分が悪い。あまりにしつこいと犬を持って帰っては来んぞ」
犬を連れて帰って来ないと言われてしまうと、今まで準備をしていたのが水の泡。千鶴はすぐに口を閉じ、朝食を食べるのに集中する。風間はそれを見ながら、
俺の言う事もろくに聞きはしないというのに、仔犬の事になるとすぐに素直になるとは――
妬ける――
犬など飼うと言わなければ良かった――
と、大きな鼻息を鳴らして、心の中ではまだ見ぬ仔犬の姿を想像しながら嫉妬の炎を燃やし続けていた。
「では、行って来る」
「はい、早く仔犬を連れて帰って来て下さいね」
「ふんっ! 最近のお前の口からは仔犬の言葉しか出てこんな」
風間の嫌味な言葉に千鶴が少しだけ自分にもその意識があったのか狼狽える姿を見せる。
「そ、そんな事ありませんよ……」
しかし、風間の言葉には容赦がない。
「仔犬、仔犬…… 仔犬ばかりで、それを引き取りに行く俺の道中の無事の安全を祈らんのか?」
「あ…… 忘れてた……」
「忘れていた…… だとぉ?」
千鶴の最後の言葉に、風間の肩が怒りに震え始める。
「きさまの為に良かれと思って犬を飼う事に決めたが却下だっ!」
そう言い放つと、草履を脱ぎ棄てて部屋に戻ろうとする。それを見た千鶴が慌てて風間を引き留めた。
「こ、仔犬を引き取りに行く千景さんも気を付けて……」
その言葉はまるで自分を取ってつけたような表現であり、風間の怒りは収まらない。だから、仔犬を連れて帰って来る為の交換条件を千鶴の耳元で囁いた。
「良いか…… 仔犬を連れて帰って来れば、その夜は思う存分、お前の身体を味合わせてもらうからな」
普段の千鶴ならば、
「そればっかり……」
「私、寝不足なのに……」
などと文句を言ってくるのだが、今回は仔犬を連れて帰って来る風間の機嫌をこれ以上損ねる事はできないと思ったのか、
「わ、分かりました……」
と、少し戸惑いながらも素直に頷いていた――。
千鶴と交換条件をした風間が機嫌よく歩き続ける。その後ろを天霧がついて歩いていた。
今回、何故に天霧が風間について来たかというと、これから飼う犬種に少し異議があったからだ。
「風間…… 本当にあの犬種にされるのですか?」
「ああ、勿論だ…… 俺はあのような犬の方が好みだからな」
「いや、風間の好みではなく、千鶴さまが飼いやすいものにした方がよろしいかと思うのですが……」
「ふん、あの古来より人間と共に暮らしてきたあの犬がいいに決まっている」
「しかし、あの犬種は千鶴さまの手に負えませんよ」
天霧の最後の言葉を聞いた風間はニヤリと笑って天霧の方に振り向いた。
「だから、それでいいと言っている…… 俺はただ、雌犬に嫉妬をする千鶴の姿を一度でいいから見てみたいと思ったのだ」
「せっかく楽しみにされているというのに、それを悲しませるような事をしてどうするのですか?」
屋敷の中に閉じ込められ続けている千鶴の最近の嬉しそうな表情を毎日のように見ていた天霧は不憫に思えて、一応風間に意見をするが、
「千鶴を悲しませる? この俺がそのような事をするわけがなかろう」
そう言ってくつくつと笑いながら前に歩みを進めて行くのを、
「全く、悪趣味な……」
天霧は深い溜め息を吐き出しながら見つめていた――。
「今夜には戻ると言っていたけれど、どのような仔犬を連れて帰って来るのかしらね」
千鶴がこの西の里に来てからずっと世話をしてもらっている相模に問いかける。すると、相模は何となく心当たりがあったのか、少しだけ口ごもらせた。
「さ、さあ…… どのような仔犬かは私には分かりませんね」
ただ、千鶴が調教しやすい犬種だといいがとは考えるのだが、あの捻くれた性格の風間がそのような気の遣った事などするだろうか? それに、最近の千鶴の頭の中は仔犬の事ばかりであり、風間の機嫌が悪かった。
「きっと…… とんでもない犬種を連れて帰って来るのでしょうね……」
幼い頃からの風間の性格をよく知り得ている相模がポツリと言葉を漏らしてしまい、慌てて口元を片手で押さえながら千鶴の方に視線を向けてみたが、どうやら今の言葉を聞かれてはいないらしい。千鶴は一人で庭の方を見つめながら頬を緩ませていた。
「どんな仔犬なのかしら? やっぱり小さい犬がいいわよね…… あ、もしかしたら千景さん、港の方にでも行ったのかしら? 日本犬で小さい犬といえば柴犬でしょう? 他は中型犬か大型犬しかいないものね。だから…… そうよ相模さん! 千景さんはきっと洋犬を引き取りに行ってくれたのだわ」
千鶴が想像しているのは成犬になっても大きくはならない犬だ。相模がそれを確信したのは、
「ああ! 愛犬を膝の上に乗せて日向ぼっこをしたらどんなに楽しいでしょう!」
そう―― 千鶴はずっと犬を自分の膝の上に乗せる事ができると思っている。しかしまあ、その夢は最初には叶えられるだろうと考えた相模は、少しだけ頬を引き攣らせながら笑って答えた。
「ほ、本当に…… 先の暮らしが楽しみですねぇ……」
風間と天霧がある屋敷の中に入って行く。その屋敷は今や不知火の妻になった姶羅の実家であった。
姶羅は不知火と夫婦になってからも、この日向の主として君臨している。そして、今や絶滅の危機に瀕している日向犬の多産に力を入れているのである。
「千景さん、よくいらっしゃいました。あら、千鶴は連れて来なかったの?」
風間たちを迎えに出た姶羅がキョロキョロと辺りを見回すが千鶴の姿はない。
「ふん、驚くような贈り物ををしてやるというのに、わざわざそれを見せに連れて来るわけがなかろう」
「あら、残念…… せっかく楽しみにしていたのに…… 千景さんは千鶴さんを外に出したくない程に愛していらっしゃるのね」
「煩い…… それよりも犬を見せてもらおうか」
「はいはい…… 犬舎はこちらよ。ちょうど今、生まれて三か月ほどになる仔犬がいるの。千景さんは日向犬の特徴を知っていらっしゃるわよね?」
姶羅が庭の方に歩みを進めながら、後ろをついて来る風間に問いかけると、
「日向犬ほど突出した特徴のない犬はおらん。ただ、短毛であるからな…… 手入れは簡単だ。そして立ち耳だから耳の病にもかかりにくい。刺し尾で、毛色は赤、茶、虎などなど…… そして性格は忠実で勇敢、粘りも強く、猪にもひるまずに立ち向かうほどの生粋の猟犬だ」
風間のその説明に、姶羅がにっこりと微笑んだ。
「その通りだわ。で、千景さんは雄がいいの? それとも雌?」
その言葉に、風間が即答をした。
「勿論、雌に決まっておるだろう……」
そして姶羅の背中に向かって言葉を放った。
「できれば、男好きの雌が良い……」
それを聞いていた天霧は、
「犬なのに、どうやって男好きだと分かるのだろうか?」
と、前を歩く風間の背を見つめながら首を傾げていた――。
屋敷に入る為の門が開く鈍い音が聞こえた。その音は普段の昼ならば全く聞こえる事がない。しかし、夜になると辺りが静かになるのか、屋敷の奥深くまで響き渡ってくる。その音を聞いた千鶴は部屋から飛び出した。
「千景さん、お帰りなさい!」
「ああ、今帰ったぞ……」
千鶴の出迎えに笑顔で答える風間の腕の中で小さな何かが動いている――
いや、小さくはない――
あれは仔犬なのだろうかと千鶴は首を傾げた。
「千景さん、仔犬を引き取って来るって言っていましたよね?」
千鶴の問いかけに深く頷く風間はこう答える。
「ああ、仔犬を引き取って来ると俺は言った」
その風間の腕の中にいる物体に指を差した千鶴は再び問いかけた。
「それって、仔犬なんですか?」
「ああ、仔犬だ……」
風間はそう答えると、腕の中にいる物体を廊下の上に置いた。
千鶴の想像していた仔犬とは全く違う姿形。
よく太った小さな仔犬が来ると思っていた。しかし、千鶴の目の前の仔犬は痩せ型で普通の仔犬よりも一回りも二回りも大きい。
「これが仔犬……?」
「この犬は日向犬でな。あの姶羅の里で繁殖が行われている絶滅種だ。中型犬でかなり大きくはなるが、主に忠実で頼もしい飼い犬になると思うぞ」
「中型犬…… ですか……」
てっきり風間は小型犬を引き取って来ると思っていた千鶴だったが、主に忠実であり、成犬になると頼もしい飼い犬になると聞いて、
もしかすると、私が外に出る時に警護のような存在になってもらう為にこのような犬にしてくれたのかもしれない――
と、いい方に考えを向けながら、その仔犬の鼻先に手を差し伸べた。そして、
「ほら、おいで……」
と、優しい言葉を掛けた瞬間、その仔犬の口元からは低い唸り声が放たれた。それを知らない所にいきなり連れて来られて警戒しているのだろうと思った千鶴が更に手を近付けるた途端、その仔犬の小さくはない口が大きく開き、差し伸べていた千鶴の小さな手に鋭い噛み付きを見せてきた。
「い、痛いっ!」
千鶴が咄嗟に手をその口の中から引き抜こうとしたが、仔犬のくせに噛む力だけは強いのか、なかなか離す事ができない。
「ち、千景さん、どうにかして下さい」
と言って風間の傍に歩み寄ろうとした時、次には千鶴の足首に噛み付いてきた。
「ぎゃっ!」
一人と一匹の小さな格闘を暫く見つめていた風間が、その仔犬に向かって一言を放った。
「止めろ……」
するとどうだろう―― 仔犬の口が再び大きく開いて、噛み付いていた千鶴の足首を開放したのだ。そして、先ほどの唸り声ではなく、甘ったるい鳴き声を放ちながら、風間の足元へ擦りついて行った。その行為に少しばかりの嫉妬を覚えた千鶴が珍しく大声を放つ。
「な、何なんですか、この犬はっ!」
その声音の中に嫉妬の感情を見た風間がニヤリと笑った。
「何を……? どう見ても仔犬だが?」
「仔犬だって事くらいは分かりますよっ! でも、千景さんにべったり引っ付いて、私が近づこうとすればそれを邪魔してっ! ちょっと! 千景さんは私の愛する男(ひと)なのよっ! 離れなさいよっ!」
少しの時間ではあったが、千鶴の口から風間の事を【愛する男(ひと)】と出たので満足をしたのか、風間は足元に擦りついていた仔犬を抱き上げると天霧の腕の中に収めた。
「千鶴が仔犬用の小さな部屋を用意していただろう。そこに連れて行って休ませてやれ」
そう伝えた後すぐに、千鶴を抱き上げる。それを見た仔犬が天霧の腕の中で暴れるが、
「お前はもう休む時間だ。大人しくして寝ろ」
と、天霧の腕の中にいる仔犬に向かって命令をすると、途端にその仔犬は大人しくなってしまった。それを見届けた風間が、抱き上げていた千鶴に顔を向ける。
「さて、約束であったな……」
普段の千鶴ならば嫌々をするところではあったが、仔犬に対抗意識を持っているのか、
「もちろん、約束は守りますよ!」
と、鼻息を荒くしながら了承していた――。
その夜、風間と千鶴の部屋からは愛の音が聞こえ、それに文句を言いたいのか、仔犬の部屋からは、それの鳴き声とは思えない程の遠吠えが二人のその音に見事、調和していたのであった――。
その仔犬は【さくら】と名付けられ、毎日のように千鶴と風間の取り合いをしていた。そして生涯、風間の良い相棒ではあったが、千鶴には決して懐く事はなかった――。
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