薩摩街道-山鹿宿→味取新町宿→熊本宿→川尻宿→佐敷宿→宇土宿→小川宿


 千鶴にとってその芝居は面白すぎてずっと笑っていたが、風間はあまり面白くなかったのか、無表情のままで舞台を睨み付けていた。


「ああ、面白かったぁ!」


 千鶴がニコニコと笑いながら芝居小屋から出て来る。


「馬鹿馬鹿しくて洒落にならん」


 風間が入って損をしたような表情で千鶴の後から出て来た。しかし、千鶴が満足そうな表情をしているのを見た風間は少し口元を緩めると、


「旅籠にある温泉に浸かりに行くか?」


 そう囁いて千鶴の腰に腕を回してきた。


「今宵泊まる旅籠の温泉はな…… 混浴だ」
「えっ、まさか……?」
「そのまさかだ。今日は貸切にしてもらったからな、共に入るぞ」


 風間は、嫌がる千鶴を半ば引き摺るようにして旅籠へと向かって行った。


 空が夕日によって真っ赤に染められている時、風間と千鶴は小さいが清潔そうな露天風呂に浸かっている。


 露天風呂を包み込むように植わっている桜の花の淡い色が夕日に染まり、まるで秋の紅葉の景色のようだ。しかし、千鶴はそのような美しい景色に見惚れている余裕がない。


 温泉の効能とは怪我や病だけではなく、思考や感覚まで影響を与えるのだろうか?


 風間の執拗な愛撫によって意識が浮き沈み、記憶も曖昧になっていた千鶴は、知らない間に部屋へと戻ってきていた。


 部屋には夕食の用意が既に整っており、目の前の美味しそうな料理を見た千鶴の腹が情けない音を出し、食欲に駆られて夢中で食べ続けていた。


 夕食の後、風間の酒の相手をする為に彼の胡坐の上に座り胸に凭れ掛かる千鶴は、昨夜の行為と芝居小屋で思い切り笑い、先程の温泉での熱い湯と風間の執拗な抱擁に疲れたのか、うとうとと居眠りを始めていた。


「千鶴、先に布団に入って寝ろ」


 酒を飲み続ける風間が耳元で囁くが、千鶴は嫌だと駄々を捏ねるように首を横に振り続けている。


 外の音にそっと耳を澄ましてみると、春の嵐の音とその風によって屋根に激しく打ち付ける雨音が部屋の中にまで流れ込んできている。


 この様子だと、明日の朝には大半の桜の花弁が地面に舞い落ちているだろう。


 風間がそれらの音を聞きながら千鶴の寝顔を摘みにして杯に注いだ酒を喉元に放り込む。


 千鶴が土方を思い出したと風間に伝えて以来、彼もまた新選組の事を思い出していた。そして、何故か分からないが平家物語の冒頭をも思い出して囁き出した。


「春の夜の夢のごとし……」


 新選組には春の季節が似合うようだ―― 


 儚くて一瞬の夢のような時代を生きた隊士たち――


 それはまるで、春の夜の夢のようで、春の桜の花弁のようである。


「あの時の中で己の生き様を美しく散らせた男たちだったな……」


 格子窓を少し開けてみると、暗闇の中で桜が風によって飛ばされているのが分かる。


 風間はその散り飛ばされていく桜の花弁に杯を向けて、


「天晴れな散り様だ……」


 褒め言葉を紡いだ後に千鶴の寝顔に視線を戻すと、その杯を自分の口元に運んでいった――。






 翌朝、山鹿宿を出立した二人は味取新町宿へと向かって歩いて行く。その時の千鶴は拗ねて文句を風間に放っていた。


「千景さん、狡いですよ。私が寝ている間に温泉に浸かってるなんて!」


 朝早くに目覚めた風間は、一人でのんびりと温泉に浸かっていた。昨夜の春の嵐によって桜は殆どが散り落ちていたが、その桜の花弁の浮かぶ温泉は味のあるものだった。


「ふん、お前が遅くまで寝ているのが悪いのだろう」
「それはですねぇ…… 夜通しあんな事やこんな事をされていたら、身体だって疲れて起きる事なんて出来ません」
「鬼は疲れる事など知らん。それに俺がお前にしているのは口付けによる愛撫だけだ」
「鬼でも疲れるんですって! ……って、愛撫だけでも疲れるんです」
「疲れん……」


 このような言い合いをしながら二人は先を歩いて味取新町宿へと入って行った。


 味取新町を通り過ぎた二人は、熊本城下の宿場町、熊本宿へ向かって歩いて行く。


 熊本城は天正六年、肥後半国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれた。


 陸橋(新堀橋)を渡ると、熊本城北側の守りとして築かれた石垣が続くという。高さが約五間、長さが百一間に及ぶので百間石垣と呼ばれている。様々な場所に戦いに備えた贅沢極まりなく尽くされているのだそうだ。特に【武者返し】と呼ばれる独特の曲線を描く石垣は素晴らしい代物らしい。自然の地形を巧みに生かした攻めにくく守りやすい城郭の構造にも加藤清正の創意工夫を感じられるという。


 荘厳な風貌を見せた城が、照りつける日の下でどっしりと構えている。


 二人は熊本宿を後にして川尻宿へと向かって歩いて行った。


 川尻宿は昔から細川藩の重要な港町として栄え、旧藩時代は年貢米の集積・積出港、そして軍港としても活用されていた。


 川尻宿を出た風間と千鶴は、徳川に輿入れをしたという【篤姫】の話を始めた。


「篤姫って薩摩の方なんですよね?」
「ああ、島津斉彬の養女となって徳川家定に嫁いだ女だ。今も健在だがな」
「篤姫もこの街道や西国を通って行ったんですか?」
「いや、航路を渡って行ったはずだ。しかし、あの女も波乱万丈な時代を送っている。薩摩に思い人もいたのだが…… 家の為だと言われ、会った事もない男の許へ輿入れをし、早くに死なれて出家。血筋の良い女も哀れなものだ」


 風間の話を黙って聞いていた千鶴がホウッと溜息を吐き出した。


「では、私も哀れな女なんですよねぇ」
「お前が哀れだと……? 何故だ?」
「だって、血筋の良い女鬼だからと言われて千景さん達に追い掛け回されていたんですもの」
「このような素晴らしい男がお前の夫となるのだから、今は幸せだろう」


 風間がフンと鼻を鳴らしながら自分を褒めている。千鶴はそれを見て何故か不満の気持ちが込み上げてきた。


「篤姫は夫となった家定公に【愛してる】とか言われたのでしょうか?」
「大奥の内情までは知らん」
「私、言われてないんですよね。千景さんに……」
「何をだ?」
「愛しているとか、という言葉をです」


 千鶴は風間が言葉にしなくても態度や仕草などで愛してくれていると確信でき、このままでも良いと思った時もある。しかし、やはり女としては一度だけでも言葉に出してみて欲しいと思うのだ。


「言ってやらん事もないが、ただ俺が言うだけだと面白くはないからな。ここは……」
「賭けは嫌ですからね!」


 東海道の旅の時に賭けをして負けた悔しい記憶がある為、千鶴が膨れっ面をしながら拒否をすると、風間は先を歩きながら笑った。


「賭けはせん。俺が勝つに決まっているから飽きたしな」
「じゃあ、何をするつもりですか?」
「俺の好物を当てて作れ。唸るほど美味ければお前の願いを叶えてやる」
「好物?」


 と千鶴が不思議そうな顔をする。風間の好物と言えば酒しか思い当たらない。料理で風間が美味いと感嘆しながら食べていた姿を見た事もこの道中ではない。


「ただし、薩摩料理だぞ。具材は一つたりとも欠かすな。そうだな…… 佐敷宿でそれを作ってもらうとするか」


 風間は口角を攣り上げると、千鶴の手を握って歩いて行こうとした。


「わ、分かりました! 千景さんの好物を当てればいいんですね」


 千鶴は風間が普段するように鼻をフンッと鳴らすと、風間の好物について考えながら共に歩いて行った。


 薩摩料理と言えども色々とある為、千鶴は天霧に文を送った。内容は勿論、風間の好物の事である。そして、返って来た文にはこう書かれていた。


 酒しか思い当たらないのですが、恐らく薩摩汁かと思います。


 薩摩汁!


 千鶴は、早速薩摩汁について調べ始めた。


 宇土宿を過ぎ小川宿に入った二人は、そこで泊まる事になった。


 風間が風呂から帰って来ると、千鶴が文のような巻物に目を通している。


「千鶴、それは何だ?」


 風間が背後からそれを覗き込もうとした瞬間、


「な、何でもありません!」


 千鶴はそれを慌てて隠そうとしたが、一瞬でその字が誰のものかが分かった風間は意地悪く笑んだ。


「天霧から俺の好物の情報を聞きだしていたのか?」
「えっ!?」


 風呂上りに飲む為の酒が置いてあるところに座った風間が面白そうに千鶴を見つめる。


「天霧から教えてもらおうと思うとは、お前もなかなか頭が回るではないか。ただ、あやつが俺の好みを把握しているかどうかは知らんぞ」


 風間の言葉に千鶴の頭の中が混乱を起こした。


 好みは薩摩汁だけではないのかもしれない。これは薩摩料理がどれ程あるのかを調べていかなければならないと考えたのだ。


 千鶴が黙ったまま考え込んでいると、風間が傍に来て囁いた。


「降参するか? するならば俺の好物をおしえてやろう」
「しません」
「全く…… 強情な女だ」


 風間が千鶴の顎をクイッと持ち上げて、蜜色の瞳を静かに見つめる。


 この強い光を持った瞳は何と美しい事か――


 風間が千鶴の両の瞳に見惚れていると、


「絶対に降参なんかしませんから!」


 千鶴が目を吊り上げて睨み付けてきた。それで我に返った風間は目を細めながら楽しそうに呟いた。


「流石に我が妻になるだけの事はある」


 風間が千鶴の唇を塞ぎ、熱い口付けを施す。すると、その熱に浮かされた千鶴の手の中の文がはらりと畳みの上に落とされた――。




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