薩摩街道-宇土宿→日奈久宿→佐敷宿
翌日、不敵な笑みを零す風間と少し不機嫌な千鶴が宇土宿を出立した。
「天霧さんからの文を見るなんて酷い!」
「見たのではなく見えたのだ。お前があのような所に放っておくのが悪いのだろう」
「千景さんがあんな事するからじゃないですか!」
「毎夜の事だ。今更何を言っている?」
千鶴とのちょっとした行為の後、風間が天霧からの文に目を通していた為、千鶴を怒らせたのだ。
しかし、天霧が俺の好物を知っていたとは――
二人は別々の事を考えながら先を歩いて行った。
この薩摩街道の難所は【三太郎峠】といわれる三つの峠越えである。
その前に日奈久宿に入った二人は、明日二つの峠を歩く為、この宿場に泊まる事にした。
この日奈久宿の温泉は、刀創を負った父の平癒を祈願した濱田六郎左衛門が市杵島姫命のお告げにより干潟から湯を堀当てたという伝説が残っている。しかし、薩摩料理を必死に調べる千鶴には温泉に長々と浸かっている暇もなく、早々に上がって、薩摩料理の研究を始めていた。
「薩摩汁は肉に野菜が……」
既に時間はないのだ。明日二つの峠を越えれば佐敷宿へと入ってしまう。そこで風間が唸るような好物を作らなければならない。
千鶴は、薩摩汁の他にも風間が好きそうな薩摩料理を選んでいった。
やっと一通りの調べ物が終わり、布団の中に入ると、風間はまだ起きていたようだ。千鶴の身体を抱き締めながら静かに囁いた。
「俺が唸る程に美味いのだろうな?」
「勿論です」
「明日が楽しみだな」
千鶴の唇をなぞるその指が喉の中心を滑り、そのまま襟元の内側へと入り込んでいく。
暗闇に喘ぎ声が響き、口付けだけの愛の行為が始まった。
これだけで愛していると分かるようなものの、女は何故言葉を求めるのだろうか?
風間は千鶴の美しい音色を聞きながら、脳裏に浮かび上がる難問の答えを見つけ出そうとしていた。
翌朝、二人は日奈久宿を出立し、佐敷宿へと向かって歩いて行った。
一つ目の難所である【赤松太郎峠】を越えて先を歩いて行く。そして、二つ目の難所、【佐敷太郎峠】を歩いたのだが、厳しい山道千鶴の息は荒くなり、峠を下りる頃にはくたくたになっていた。
そして二人はとうとう佐敷宿に入った。
この佐敷宿には【のこぎり家並み】がある。
【のこぎり家並み】とは、通りに対して家々が斜めに建てられていて、敵の侵入時には建物の陰から様子を窺う事ができる。
佐敷宿内で千鶴が料理の具材を買う。それが終わった後、風間は千鶴を連れて佐敷宿の外れにある屋敷に向かって行った。
「この屋敷は誰のですか?」
少し大きい屋敷に案内された千鶴が門の所から顔を覗かせる。風間はその屋敷の中に堂々と入って行き、途中で門の所から動かない千鶴の方に振り返った。
「俺の別邸だ。早く来い」
「ち、千景さんの別邸!?」
千鶴は呆然と立ち尽くしている。風間は金持ちだと聞いてはいたが、ここまでとは思ってもみなかったのだ。
「早く来い。飯を作るのが遅くなるだろう」
「あ…… はいっ!」
風間に急かされた千鶴は、その別邸と呼ばれる屋敷の中に足を踏み込んで行った。
屋敷の中はなかなか立派なものであり、風呂は温泉というから堪ったものではない。贅を尽くす限りの優雅な造りになっている。
ただ、今までとは違い、この家には風間と千鶴だけで料理の仕方を教えてくれそうな者はいない。
天霧さんに作り方を書いてもらっておいて正解だった――
と、千鶴は胸を撫で下ろした。
勝手場はというと、大きくて使いやすく造られている。最近付け替えられたのか、中に添えられている井戸は桶で汲むのではなく、西洋のポンプ式とやらに変わっていた。
「これはどうやって水を出すんですか?」
ポンプという外の国の言葉を聞いた事のない千鶴にとっては使い方も勿論知るわけがない。
「こうするのだ」
風間がその取っ手の所を強く抑えると、溢れんばかりの水が勢いよく飛び出してきた。
「きゃああっ!」
驚いた千鶴が勝手場の隅の方に逃げて縮こまっている。その姿があまりにも滑稽で風間は声を立てて笑っていた。
「さてと、始めましょうか!」
千鶴が選んだ薩摩料理とは。
肉料理では猪の鍋料理、キビナゴの刺身(酢味噌)、芋料理ではかいもん飯(薩摩芋と米を一緒に炊き上げたもの)野菜料理は糸瓜の味噌炒め、汁物では勿論薩摩汁である。
風間には具材の一つも欠けてはならないと言われている為、念入りに材料を確認をした。
「大丈夫ね!」
丁寧に野菜の下ごしらえを行い、肉は店の主人に頼んで下処理をしてもらっている。
薩摩地方では土が米等を作るには適せず、温暖な気候の為に清酒が造られる事は少なく、焼酎がよく呑まれるらしい。千鶴は、その焼酎というものもしっかりと買い込んでいた。
風間は、料理が出来上がるまで広間でのんびりと寝そべっていた。
良い香りが風間のいる部屋にまで流れ込んでくる。
「江戸に迎えに行った当日もこのような感じだったな……」
酒は銚子二本までと言われて怒り、風呂では五右衛門風呂に入って騒ぎを起こした。その後に千鶴が風呂で倒れたりもしていた。
「あの時の事がまるで昨日のようだな……」
本当に共に来てくれるのだろうか?
と、風間らしくもなく不安になったりもしたが、千鶴は自分を信じてついて来てくれた。
千鶴が西の里の風間の家に落ち着けば、そこは風間にとって安らぎのある場所となるだろう。今までのように頭領として帰るのではなく、一人の男として、夫として帰る事ができるのだ。
「幸せとはこういうものなのか……」
静かに目を閉じて、臭覚を集中させる。
「今宵の料理は唸らせられるかもしれんな」
そう呟いた風間は、そのまま深い眠りに入っていった。
「……景さん …… 千景さん……」
いつの間に深い眠りに入ってしまったのだろう。千鶴に揺り起こされた風間が上体を起こすと、目の前の大きな卓袱台には懐かしい薩摩料理の姿が所狭しと置かれている。
皿から立ち上る香りもまた、風間がよく味わうものと同じで、いつもならあまり食さない風間の腹が小さな唸りを上げた。
「では、頂くとするか」
「いただきまぁす!」
千鶴は元気な声で食べる前の挨拶をしたが、料理には箸を付けずにずっと風間の方―― いや、風間の箸を見つめている。
どれから箸を付けるんだろう?
そう思いながら見続けていると、風間が最初に箸を付けたのはやはり、薩摩汁だった。
「これが好物だと天霧から聞いておったのだろう?」
「ええ…… まあ…… でも、本当なんですか?」
「ああ…… その通りだ」
そう言って風間が中の具材を見つめたまま固まった。
「この肉は何だ?」
「えっ? 豚ですけど?」
途端に風間の顔に曇りが走り、雷が落とされた。
「あほか! 薩摩汁の肉と言えば骨付きの鶏肉だぞ!」
「ええっ!? そうだったんですか?」
「お前は天霧に具材や作り方まで聞いておったのだろう? 何故に間違える!」
千鶴が慌てて天霧からの文を読み返すと、急に肩を落として俯いてしまった。
「間違えました……」
「間違えた、だと?」
「はい…… 天霧さんは色々な料理の事を書いてくれていたんですけど、びっしりと書かれていて行を間違えてしまいました」
風間を唸らせる料理を完璧に作ったと思っていた千鶴は、とんだ失敗に目に涙まで浮かばせている。
「不味くはないな……」
「えっ!?」
千鶴が涙を零しながら風間の方を見ると、豚肉の入った薩摩汁を味わってくれている。そして、他の料理にも箸を伸ばしてくれていた。
「見た事もない郷土料理を、天霧の文だけを見てこれだけ作れるとは大したものだ」
「本当ですか!?」
「しかし具材を間違えた。今回のお前の願いは却下だ」
「そんなぁ……」
一瞬天にも昇りそうなほどの喜びが湧き起こっていた千鶴の心は、風間の却下という言葉によって容赦なく奈落の底へと落とされてしまった。
二人きりの夜である。旅籠では他の旅人も滞在している為、賑やかさはあるものの落ち着くという事はできなかった。しかし、ここは風間の別邸である為、誰の目も気にせずにのんびりと過ごす事ができる。
千鶴は、風間に具材を間違えたからと言って無理矢理に混浴を強制される。
これでは賭けのようではないかと思うのだが、風間の一番の好物の具材を間違えた為に何故か逆らう事ができない。
温泉から上がった後も勿論、風間のやりたい放題であった。
夜空には月が煌々と輝いている。口付けだけの愛撫の行為を終えた後、風間は千鶴が選んだという焼酎を口に付けていた。
風間の横には、胸元を肌蹴させながら艶っぽい姿で眠る千鶴がいる。
「幸福を感じるというのも悪くはないな」
月夜を見ながら風間が静かに独り言を放っていると、千鶴が薄っすらと目を開けていた。
「まだ…… 起きてるんですか?」
「目覚めたのか?」
「まだ眠ります」
「一度目覚めれば、暫しの間は眠る事はできまい。今一度疲れさせて眠らせてやろう」
風間がそう言って杯から手を離すと千鶴を抱き締める。
「…… また、そんな屁理屈を言って……」
千鶴が眠そうな声音で文句を言うが、気だるそうな姿が月の明かりに照らされて、先程よりも更に艶を浮かび上がらせる。
風間が千鶴の身体の隅々に音のある口付けを施していく。
「あ…… っや……!」
千鶴の身体が痙攣を始めた。
「流石に我が妻だ。感度がいい」
風間は何度も繰り返す行為によって、千鶴に愛しているという気持ちを伝え続けるのであった――。
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