薩摩街道-佐敷川宿→水俣宿→出水宿
翌朝、二人が別邸を出立して暫く歩いた所にある佐敷川を越えて行き、三つ目の難所である峠【津奈木太郎峠】に向かって行った。
ここも前の二つの峠と同じく厳しい所だった。石畳の道が施されてはいるものの千鶴の息は上るに連れて荒さを増して吐き出されている。
この津奈木峠は、豊臣秀吉の九州統一の折、島津攻めの先導役を勤めた深水宗方が、ここを通った時に即興で詠んだ歌を秀吉が気に入り、以来この場所を【歌坂】と呼ぶようになったという。
最近では恒例となってしまった迷惑そうな表情を浮かばす風間の腰紐を掴みながら、金魚の糞のように付いて歩く千鶴の姿がある。
「俺の腰紐を解くとどうなるか分かっておるだろうな?」
「分かってますって。でも、秀吉もこんな辛い坂を【歌坂】って呼ぶなんて……」
「仕方あるまい。宗方の歌が気に入ったらしいからな」
「何もこんな所で暢気に歌なんて詠まなくてもいいのに……」
千鶴がぜいぜいと荒い呼吸を続けながら文句を垂れていると、目の前に茶屋が姿を現した。
「千景さん、ここで…… ここで休憩させて下さい」
「そうだな…… これ以上腰紐を引っ張られて外されても迷惑だからな。休憩するか」
風間は千鶴が強く引っ張った為に少し弛みを帯びた腰紐を直しながら茶屋に入って行った。
その茶屋で休憩を終えた二人は、再び歩き出し、【重盤岩眼鏡橋】を渡る。
この眼鏡橋は欄干を持つ優美な曲線を描いた橋である。
「美しい形をした橋ですね」
千鶴が欄干に手を乗せて下を流れる川を覗き込んだ。澄み切った水が繊細な音を立てている。
「この橋は、肥後の名工岩永三五郎の弟、三平が架けた橋だそうだ。島津藩の架橋事業に携わっていたのだが、その藩内の中の秘密を知っていた三平は、口封じの為に島津側の追っ手によって襲われ、深傷を負ったそうだ。その時に此処の村人に介抱され、その礼の代わりにこの橋を造ったらしい」
千鶴が先程と同じ体勢で川を覗き込みながら話を聞いていると、背後から風間が近寄り、欄干に置かれている千鶴の手の上にそっと自分の手を重ねてきた。
「お前にも沢山の貸しがあるからな。西の里へ着いたら礼をしてもらわねばならん」
「貸し…… 何の事ですか?」
千鶴の不思議そうな表情を見た風間が、少し苛立つような声音で次々と言い放った。
「お前は忘れたのか? まず、鳥羽・伏見の戦いの時に助け、そこから蝦夷まで連れて行ってやった。そして江戸に迎えに行き、その旅の中で色々と迷惑を掛けられもし、助けもした」
「ええぇぇっ!?」
千鶴が目を見開いて見つめてくるのを見た風間は、千鶴の手に添えた自分のそれに力を込めた。
「お前は俺から借りた恩が沢山あるという事を忘れるな」
しかし何故だろう。風間は執念深い男だが、千鶴には今の言葉が本気で言っているようには聞こえなかった。
これが千景さんの愛情表現?
上に重ねられている風間の手に更に強い力が込められ始める。その手に千鶴の視線が注がれた。
これも愛情表現?
言葉で上手く伝えられない者は、態度や行為によって相手に分かってもらおうとする。これは人間にもよくある行為である。
「どうした?」
千鶴がふと上を見上げると、風間の緋色の瞳とぶつかり合ってしまった。
「いいえ、何でもありません」
千鶴がふんわりと笑みを浮かばせると、風間も滅多に見せない笑みを返してきた。そして、千鶴の手の上に添えていたそれで握る仕草を起こす。
「行くか」
「はい!」
二人は再び歩き続けて水俣宿へと入って行き、次の宿場、出水へと向かって行った。
先を歩いていた二人は、【はぜのき街道】の中に入って行った。
ここは宝暦年間に櫨の木が植えられたという街道である。肥後藩の経済政策の為に、蝋燭の原料となる櫨の植林を行ったそうだ。この場所には、【鬼の歯型】らしき岩もあると風間が言うので千鶴がその場所に連れて行ってもらって見てみると、成る程―― 確かに歯の型のような感じにも見える岩があった。
「昔、この地を気に入った鬼がここに住みたいと言い出した。断れば殺される…… そう思った村人たちが期限を決めて家を作れば住めば良いと言ったそうだ。喜んだ鬼は懸命に作ったのだが、期限の一日前、村人達が家を壊し、悔しがった鬼が岩に歯型を付けたと言われている」
「鬼って大きかったんですね。」
千鶴が鬼に関する昔話を思い出しながら感心したように呟いていると、背後では風間が大きな溜め息を漏らしていた。
「己の姿をよく見てみろ。人間と全く変わりはないではないか」
「あっ、そうでしたよね」
自分も鬼であった――
それを思い出した千鶴が忘れていた事を笑いで誤魔化そうとした時、風間が耳元で意地悪く囁く。
「お前のような女鬼が人前で鬼だと言っても誰も信じないだろうな」
またからかい出した――
千鶴は風間の隣に歩み寄り手を握り締めた。
「このように可愛らしい私は鬼には見えませんものね?」
自分で言っておいて恥ずかしい――
千鶴が赤らめた顔を風間の視線から逸らすように反対側へと向けた途端に、千鶴が握っていた風間の手に思い切り力が込められた。
「い、痛いですって!」
「ふん、何が可愛らしいだ。俺はお前が弱そうに見えると言いたかっただけだ」
やっぱり想ってくれているんだ――
千景さんは私の事を愛してくれている――
握り返してくる風間の手の力は強すぎて痛い。しかし、千鶴にとってその痛みは何故か心を落ち着かせ幸せな気分にさせてくれるような痛みに感じた。
少し温かな気持ちになった千鶴は風間の手を握り締めたまま歩き続け、出水宿へと足を踏み込んで行った。
この出水には、出水麓武家屋敷群がある。江戸時代、薩摩藩は鶴丸城を本城とし、領内各地に外城(とじょう)と呼ばれる行政区画を設け統治にあたっていた。また、外城における統治の中心地を麓と呼んだ。出水外城に麓は「向江」と「高屋敷」の武家地、および間に挟まれた町人地からなっていた。
「徹底した守りですよね」
「まあな…… 出水に入る所に野間の関がある。今はもう行ってはいないが…… 関が原戦前後に薩摩藩と肥後藩の国境の要地であったこの地に設けられた。関の規則は時代によって異なるが、他領への旅人や物資の出荷を調べ、無証文の者は絶対入国できなかった。尊王思想家の高山彦九郎や歴史学者の頼山陽等が入国に苦労したそうだ。戦国時代は領地の取り合いのようなものだったからな…… そのお陰で我ら鬼の住処も狭まれていったしな」
「国を守るのも大変だったんですね」
「戦国時代は、武将たちの妻も強かったんだぞ」
「私も強くなりましょうか?」
風間は強い女が好みだったろうか?
千鶴がそう思いながら問い掛けてみると、風間が背を屈めて千鶴の顔を覗き込むように近付いてきた。
「お前はそのままでいい。適度に強い女は許せるが、強すぎる女は好みではないのでな」
千鶴の目の前の風間は、意地悪く笑いながらやんわりと拒否の言葉を出していた。
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