16:ツンデレ鬼の道中での約束事



 風間と同棲するようになってひと月半。布団に入ってくるのは日常であり、千鶴も慣れてしまったのか、叫び声を上げなくなっていた。


 庭の梅の硬かった蕾もようやく柔らかさを見せ、小さな花が綻び始めた頃、とうとう西の里へと行く前日になっていた。


 別れの挨拶に近所を回った千鶴だが、何故か背後には風間がピタリと引っ付いて来る。


「風間さんは来なくてもいいんですよ」
「何を言うか。我が妻が世話になった者たちなのであろう。夫である俺が挨拶をしてやるのだ。有り難く思え」


 などと偉そうに言葉を紡ぐ風間だが、実を言うと、挨拶回りの家には、千鶴を嫁にと縁談話などを近所の女たちに頼んでいたという男もいるという話を小耳に挟んだのである。


 あれは数日前の事。千鶴が診療所内で患者と話していた。


「そろそろ風間さんの住む地へ参りますので、ご近所の方々にご挨拶に行かなければならないんですよ」
「あらぁ、先生がいなくなっちゃったら寂しくなるわねぇ。ところで、あそこの呉服問屋にも挨拶に行くのかしら?」
「ええ、勿論です。私の着物はあそこで殆ど仕立てて頂いていましたから、ご挨拶には行くつもりですよ」
「あそこの若旦那。もう決めた男がいる先生の事が未だに諦められないらしいわよ。隙あらば自分のお嫁さんにしたいって言っているらしいわ」
「そうなんですか……でも、幼い頃からお世話になっていたし、ご挨拶に行かないわけには……」
「そうねぇ……まあ、手篭めにされないよう気をつけてね」


 このような会話を聞いていた風間が黙って千鶴を一人で挨拶に行かせるわけがなく、全ての挨拶先には、威圧感たっぷりの風間が背後について回ったのであった。


 患者との話の中にあった呉服問屋の若旦那は、千鶴が挨拶に来たのを見て目を輝かせたが、背後に引っ付いている風間を見た瞬間、表情の中に恐怖の色を浮かべながら千鶴の挨拶の言葉を聞いていた。


 勿論、この挨拶回りで機嫌が悪くなったのは風間だけではない。千鶴も心の中に苛立ちを生じていた。


 行く先々の家には年頃の娘もおり、その娘たちが風間を見てうっとりとした表情を浮かばせるのだ。そして、数人の娘たちは千鶴を見ながら小さな舌打ちまで起こし、それが千鶴にとっては気に食わなかった。


「正月明けに診療所であんな事があったのに、もう忘れちゃってるみたいですね」
「ふん、俺の色香は恐怖も全て皆無とさせる力があるのやもしれんな。もてる男も辛い」
「それ、自慢ですか?」
「自慢などではない。当然の事だ。しかし、二軒目に挨拶に行った所の娘は俺の好みの容姿をしていたな。うむ、あれはなかなかいい女だ」


 苛立ちの感情を隠しながら千鶴が嫌味を放つが、風間はお構いなしに自分がもてるという事をあからさまに出してくる。その上、自分好みの女までしっかりと見つけていて、苛立ちの上に腹立たしさまで千鶴の中で沸き起こっていた。


 その二軒目の家の娘は、確かに千鶴も納得できる程のいい女であったのである。その女と比べ、自分の中に劣等感までもが生じ、正直、今の千鶴は自分が情けなくなっていた。


「どうしたのだ?」


 千鶴の機嫌があまり麗しくないと気付いた風間が顔を覗き込んでくる。


「何でもありません。明日からの用意もしないといけないし、早く帰りましょう」


 このように醜い顔を見られたくはない。千鶴はフイッと顔を風間から逸らす。それが何を意味するのか、風間には分かったのだろうか。吐息のような笑い声を放つと、千鶴の腰に手を回して来た。


「嫉妬に狂うお前の顔も悪くはないな」
「し、嫉妬なんかしてません」
「ほう、そうなのか? 俺にはそのようにしか見えんが……」
「ち、違います。風間さんの勘違いです」
「そうか……俺の勘違いか……」


 風間は面白そうに笑いながら千鶴の腰を自分の身体に引き寄せる。千鶴に触れている風間の手は大きくて温かく、そして安心できる。


 家に到着する頃には、千鶴の機嫌も多少の解れを見せていた――。




 江戸を出立する日の前夜、早めの風呂を終えた風間と千鶴は、寝る前に道中の約束事を決める事にした。


 二人は背中合わせになり、無言で紙に書き始める。


「書けたぞ……」


 先に書き終えた風間が千鶴の方に振り向くと、千鶴はまだ、何やら必死に長々と書き込んでいる途中であった。


「何をそんなに長々と書いているのだ?」


 風間が覗き込もうとすると、千鶴は身体全体でそれを隠そうとする。


「まだ見ないで下さい!」
「ふん、またろくでもない事を書いているのか?」
「私にとっては大切な事です」


 千鶴は、紙に覆い被さる格好になりながら続きを書いていった。


「……書けた」


 千鶴はにっこりと微笑みながら筆を置いた。表情からして満足そうである。恐らく、納得のいく約束事が書けたのであろう。そして、お互いの紙を交換し合った二人は、暫くの間無言で手にある約束事を記した紙を見つめ続けたのだが、読み進むにつれ、風間の瞳は少し怒りを呼び起こしており、千鶴の瞳は見開いたまま瞬きもしない。


「………何だ、これは」
「………何なんですか、これは」


 同時に二人が発した言葉は同じだが、その後に続いた言葉も――


「字が読めん」
「字が読めない」


 まるで示し合わせたかのように同じであった。


「何だ、この丸っこい暗号のような文字は」
「暗号のような文字で悪かったですね。風間さんのは達筆すぎて読めません」


 二人の口からは文句の投げ合いが始まった。千鶴の字は下手ではないのだが癖があり、風間には記号のように見えるようだ。反対に風間の文字は流れるような美しい文字なのだが、達筆過ぎる上に形が略化されていて、千鶴には何が書いてあるのかさっぱり皆無なのである。


「仕方がない……」


 風間が大きな溜め息を吐いて、千鶴の約束事が書かれた紙を持っている手を差し出した。


「自分の書いた約束事はは自分で読み上げていく事にしましょう」


 千鶴もまた大きな溜め息を吐くと、風間の約束事が書かれた紙を持っている手を差し出した。


「全く、明日からの旅が不安になってきたな」
「それは、こちらの台詞です」


 風間と千鶴は、今度は同時に先ほどよりも更に大きな溜め息を吐くと、お互いが持っていた自分の紙を受け取った。


 しかし、この後も二人の進む先に障害が立ちはだかる。互いに自分が書いた約束事を読み上げる事になったのだが、どちらが先に読むかで、再び口論となる。


「お前が先に読め」
「嫌です。風間さんからどうぞ」
「字が下手糞な方から読むべきだ」
「どういう理屈でそんな事が言えるんですか?」
「下手糞な字は書いた本人でさえも読みにくいものだ。従って時間が掛かる方から読んだ方が効率がいい」
「自分の書いた字はすぐに読む事が出来ます。それに、達筆過ぎる方こそ読みにくいんじゃありません?」


 このようなやり取りが永遠に続くかと思われたが、結局千鶴が風間に言い負かされてに読む事になった。


「これから西へ行くにあたり、次の事を約束とする……」


 千鶴の約束事が風間に向け発せられた。


「一つ……祝言を挙げるまでは手を出さないで下さい。
一つ……お酒は銚子二本までにして下さい。
一つ……千姫に会いたいから京に寄って下さい。
一つ……私を苛めるのは止めて下さい」


 たったこれだけの内容であんなに時間を掛けて書いていたのかと風間の顔は明らかに呆れ果てている。


「やはりろくでもない事だったか……」
「私にとっては重要な事です」
「何処が、何が、どれが重要なのだ? 馬鹿馬鹿しい。下さい、下さいの繰り返しで約束事と言うよりも願い事ではないか」
「あらやだ、ほんとだ……」
「まず、最初の祝言何やらの話だが、【鬼は約束を守る】と何度も言ったはずだ。何故ここにそれを書く必要があるのだ?」
「えっと、再確認?」


 その言葉で堪忍袋の緒が切れたらしい風間は、全て却下だ! と千鶴の紙を放り投げた。そんな風間にぷーっと頬を膨らませた千鶴は、


「じゃあ、風間さんのを聞かせてくださいよ。それはそれは、ご立派な約束事なんでしょうね?」


 と、嫌味を付けながら聞いてみると、風間はふっ、と不敵な笑みを千鶴に向けてきた。


「な、何ですか、その嫌〜な微笑みは」
「よく聞いておけ。一つ……」
「……」
「今日から西の里までの道中、俺のいう事を素直に聞け。以上だ」
「……」
「……」


 暫く二人は無言で見つめあったまま動かない上に息苦しい空気が纏わりついてきたが、その空気を追い払ったのは千鶴であった。


「それだけ、ですか?」


 風間は頷きながら口を開いた。


「これだけだ」


 風間はそう一言だけを伝えると、ポカンとする千鶴に自分の書いた紙を手渡し、西まで行く経路の説明を始めようとした。


「ちょーっと待って下さい!」
「何だ、お前の鈍い頭では理解できんかったか?」
「ち、違います。それに私の頭は鈍くありません。ただ、今の私の約束事は却下でしたけど、風間さんのも却下させてもらっていいですか?」


 千鶴の反論に溜め息を吐き出した風間は急に真面目に話し出した。


「お前は、この俺の言う事を聞けと言う意味が分からんのか? この旅路は長い上にどんな危険があるか分からん。旅の慣れている俺一人なら良いとして、お前のような鈍臭い女を連れて行くのだ。素直に言う事を聞いて貰わねば困るだろう」
「ど、鈍臭くはありません」
「いや、お前は全てに関して鈍すぎる」
「そんな事ないです」


 風間は反論する千鶴の額に指をピンッと跳ね当てて、再びその鈍い頭でよく考えてみろと言ってくる。が、いくら考えても理解できない千鶴を見て、風間は、面倒臭そうに説明を始めた。


 平和な世の中になりつつあると謂(いえ)どもこの日の本の中は未だに危険が多い。それを覚悟で長い道中を旅するのだ。蝦夷の道中の時は天霧がいたが今回は風間一人である。風間だけでも千鶴を十分に守る事はできるのだろうが、千鶴が余計な事をすればそれができなくなるかもしれない。つまりは、風間の荷物になると言う事らしい。言われてみれば尤もな話である。


 しかし、自分の約束事を全て却下された千鶴はどれか一つは取り入れて貰おうと必死だ。風間に攻め込む形で了解を得ようとする。


「お願いですから、私の約束事を一つくらい採って貰えません? 風間さんだけだと狡いですよ」
「狡いも何も、俺の書いた事は旅に関して最も重要な事だ。しかし、お前のは全く旅には役に立たんものではないか?」
「そ、それはそうですけど……せめて一つだけ!」


 風間は自分の胸に飛び込むような姿勢で、必死になって頼み込んでくる千鶴を見つめていたが、何を思ったか、ククッといきなり喉を鳴らして可笑しそうに笑い出した。


「何が可笑しいんですか? 私がこんなにもお願いしているのに!」
「そのように、いつも可愛げのある態度を見せておれば、どのような願いでも叶えてやるのにな。まあ、今回は素直でないお前も少しは素直さに向けて前進したと考えて褒美をやろう。さあどれにする?」


 完全に風間の手の内で踊らされている千鶴は、風間の悠然とした態度に憤慨しながらも一つだけ選ぶ事にした。


 祝言までのは前に約束したから守ってくれるだろうし、お酒は絶対却下されそうだし…私をからかうのも止めないだろうなぁ。っていう事は――


「千姫に会いたいです」


 考えあぐねた結果、一番無難かと思った千姫との再会に決めたのだが、結局、風間はどれも気に入らなかったようで、


「あんなじゃじゃ馬に会いたいとは変わった奴だ。まあいい。京は旅の途中で通るからな。寄ってやろう」


 ふんっと鼻を鳴らしながらも千鶴の頼みを受け入れてくれた。




 最初はどうなるかと思った約束事も決まり、風間は西への経路の説明を始めた。蝦夷の時のように、千鶴は風間の後ろを付いて来れば良いのだが、あの時はただ新選組を追う為だけの目的で突き進んでいった為、必死だった千鶴には辛い旅の思い出しかなかっただろうと思った風間は、今回の旅は少しでも楽しく? しようと、行く先々の場所の説明を始めた。


「千鶴、お前は中山道か東海道のどちらの経路で行きたい? どちらかを選ばせてやる。言うがいい」
「何でそんな命令口調なんですか?」
「先程の約束事通り、今日から西の里までの道中は俺のいう事を素直に聞け、だ」


 風間のその言葉に、次に放とうと思っていた文句の言葉をグッと喉奥に押し込んだ千鶴は、 


「私は東海道の経路で行きたいです」


 と言った。


「即決だな。しかし何故、東海道を選ぶのだ?」


 迷いもない気持ちのいい返事ではあったが、東海道を選んだ理由を問い掛けると、千鶴は急に落ち着かない態度を見せ始めた。


 これは数年前の京までの道中に何かあったのだなと思いながら、風間は千鶴の返事を待った。


「風間さん……笑いません?」


 笑うとは、それ程に滑稽な出来事だったのか。いや、この女ならばそういう事もあり得るかもしれないと思いながらも、風間は真面目な表情で静かに答える。


「内容によっては笑うかもしれん」
「そうですよね〜」


 千鶴はフーッと溜め息を吐くとゆっくりと言葉を紡ぎ出した。


「私、父様を捜しに京へ旅立った時、距離の短い方の東海道を行こうと思っていたんですが、南に行くはずが北に向かっていて何故か中山道の方に行っていたんです」
「それは道を間違えたという事か?」
「はぁ、そういう事になるんでしょうか」


「つまり、お前は方向音痴という事か?」
「世間一般ではそう呼ばれてますね。中山道って東海道よりも道が整備されてなかったんで、京までの道のりは大変だったんです」
「よくそれで京まで無事に辿り付けたものだな。違う意味で感心する」


 風間は可笑しいとか呆れたと感じるよりも、驚きでいっぱいの表情をしている。あの不安定な世情の中、いくら男の姿に身を窶(やつ)していても危険な事は多々あったはずだ。それを乗り越えてまで何事もなく京に辿り着くとは余程の強運の持ち主だと言える。


「あの時は、ほんとに子供でしたから女に間違われませんでしたし」


 風間はへらへらと笑いながら座っている千鶴の全身上から下までをゆっくりと眺めながら、数年前の千鶴のそれを脳裏に浮かべると、納得した表情で頷いた。


「確かに、あの時のお前は餓鬼だったからな。色気はない、胸はない、ちびだったしな。その上、あの時からの強情さは健在であるし。全く以てお前には長所が見当たらん」
「ひ、酷い。そういう風間さんだって……」
「何が酷いのだ? 当然の事を伝えたまでだ。それに俺は自分の性格に満足している。従って、お前に何を言われようと傷付きはせん」


 風間にぐさぐさと言葉で胸を刺された千鶴はぐったりとなっていた。ちらりと風間の方に目線を向けると勝ち誇ったような顔でこちらを見つめている。それも完全に上から目線であった。その態度のまま、千鶴に不敵な笑みを投げ掛けてもきている。


「まあ、今ではすっかりと女らしくなったのだからいいではないか。では、今回は東海道で行くとするか。明日は早めにここをでる。もう寝るとするか」
「そうですね。私、何か疲れちゃいました。もう寝ましょう」
「俺は今夜、客間で寝るからな」
「はいはい、そうして下さると私も助かります」
「ふん、共に寝たいと素直に言えば寝てやるのに」
「いえ、今夜は結構です。明日に備えてゆっくり寝たいですから」


 最近、時折起こるもやもやとした気持ちと、先ほどの風間の棘のある言葉で心が折れてしまっている千鶴は、少し項垂れながら自室へと入って行く。そんな千鶴の姿が消えるまで、風間はずっと見つめ続けていた。








 布団に入った千鶴はなかなか寝付く事が出来なかった。気が付いてみれば、先程から何十回と溜め息の連続を繰り返している。


 誘惑するような艶のある瞳で風間を見つめる女達の姿が未だに千鶴の脳裏に浮かび上がる。同じくらいの年のはずなのに、あちらの方がとても大人びて見えた千鶴は、風間がどうして自分を選んだのかが不思議で堪らなかった。


「私が東国一の雪村家の女鬼だから? 風間さんにとって私の純血に価値があるから?」


 この言葉は、蝦夷に向かう途中から風間の口からは出なくなっていた。からかう言葉はよく出ていたが、千鶴自身を見てくれているような、そんな気がしていた。しかし、千鶴にはあの女達のような色気はない。風間の言う通り強情で素直でない――つまりは可愛くはない、女らしくはない性格だ。


「何なんだろう、この変な気持ちは……」



 千鶴は何も考えずに寝ようと、最後に大きな大きな溜め息を一つだけ吐く。すると部屋にその白い息がフワッと広がり、その儚い白色が消えると同時に頭に布団を覆い目を瞑った。


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