東海道-江戸→品川宿
二人が宿に入ると、この宿の女将が笑顔で迎えてくれた。部屋も前もって取ってあったらしい上に、風間とこの女将、どうやら馴染みのようだ。毎日交わすような挨拶をしながら部屋へと案内してくれるのを千鶴はじっとりとした眼差しで見つめながら二人の後ろをついて行った。
「風間さま、奥方さま。こちらのお部屋へどうぞ」
「うむ……」
「お、奥……奥方……?」
女将の言葉に平然と受け入れる風間と顔を朱に染めている千鶴は、女将に促されながら部屋の中へ足を踏み入れた。
案内された部屋は不摂生な宿が多い中でも清潔な方で、千鶴は先ほどの女将の言葉に戸惑い続けながらも顔を朱に染めて固まったまま動かず、風間は女将が淹れていったお茶を悠然とした態度で口に付けて寛いでいる。
どうして風間と一緒の部屋にいるのだろう? 奥方という言葉が頭の中を振り回していた時には気付かなかった事が、ようやく落ち着いた今、次々と疑問符として浮かび上がった。
「風間さん……」
「何だ?」
茶を飲み終えた風間がゴロンと寝転がる。会合は夜に開かれるらしく、それまで仮眠をするらしい。しかし、この疑問だけは解決しておきたい。千鶴は静かに瞼を閉じて眠ろうとしている風間に問い掛けた。
「どうして、一緒の部屋なんですか?」
前もって取られていた部屋は一部屋だけであった。つまり、千鶴は風間と同室すると言う事だ。その問い掛けを聞いていた風間の瞳が薄っすらと開いた。
「別に深い意味はない。祝言を挙げるまでは手を出さんと約束をしているし、近い内には夫婦となるのに気にする事ではないだろう。それに、一部屋にした理由は二部屋だと面倒だからだ」
「祝言を挙げるまでは手を出さない約束は信じています。でも、一応私たちは男と女なんですから私の気持ちも考えて頂けませんか? それに、何で二部屋だと面倒なんですか? 雪村の家でも別の部屋で休んでいたじゃありませんか?」
「この道中は俺の命令を聞けと言ったであろう。従って、二部屋にすると俺が面倒だから一部屋にした。それで納得ができんのか?」
「で、できるわけありません。では、何で面倒なのかという理由を教えて下さい。それが分からなければ納得できるわけがないでしょう?」
「煩い。お前は俺の命令を聞いておけばいいのだ。会合まで時間がない。少し寝かせろ」
千鶴は背を向けて寝ようとする風間の身体を激しく揺すぶった。
「そんなわけにはいきませんったら! 理由を教えてくれるまでは寝かせません!」
「千鶴、貴様……寝ようとする俺の邪魔をするか」
「します! するに決まってます!」
千鶴の言葉に風間の表情は怒りを持ち始めている。しかし、千鶴には風間がそのような表情をする意味が分からない。何かしら理由があってこそ一部屋にしたのなら、それを正直に伝えて欲しいと思うのに、風間はそれを命令という短い言葉ではぐらかそうとしているのだ。
千鶴の揺さぶりで寝る事も儘ならなかった風間は無言のまま立ち上がると、部屋を出て行こうとする。襖の取っ手に手を掛けた風間に千鶴は嫌味な言葉を投げ付けた。
「理由も言うのが嫌だから逃げるんですか?」
それに対し、風間が背中越しに部屋を出る理由を言い放つ。
「今宵は会合があると言ったろう。だから出掛けてくる。そして、何故この俺が一部屋しか取らなかった理由は、己の鈍い頭でよく考えるがいい。ああ、それともう一つ。ここ辺りは岡場所【色町・遊郭】としても有名だ。俺が帰ってくるまでは絶対に外に出るな」
それだけを千鶴に吐き捨てた風間は襖の向こうへと姿を消してしまい、一人残されてしまった千鶴は、慣れない場所への不安と風間の態度に対する怒りで瞳を潤ませながら顔を歪ませた。
「何が二部屋だと面倒なのよ。私がいつ風間さんに面倒を掛けたって言うのよ?」
千鶴は自分の傍にあった座布団をポスポスと叩き付けながら、暫くの間一人で文句を綴っていた――。
夕食の時間になり、女将が食事を持って来てくれた時、千鶴が一人だということで、忙しいはずなのに話し相手になってくれた。
この女将と風間が何故に親しそうにしていたのは、彼女が千鶴たちと同胞の鬼であったからであった。忍びとして生きている女将は、この品川宿に宿を開き、鬼たちの会合の世話などを任されているらしいのだ。
「奥方さまには変な誤解をさせてしまいましたわね」
申し訳なさそうに謝罪をする女将に、千鶴は慌てて頭を左右に振った。
「いいえ、ただ私、まだ風間さんの妻にもなっていないのにそのような呼び方をされてしまったからびっくりしちゃって……」
「あら、私たち鬼の間では、千鶴さまは既に風間さまの妻であると思っていますよ」
「えっ……?」
「あの有名な西の頭領の妻になる女性の噂などすぐに広まります。その上、その女性のご身分があの雪村家の生き残りとあれば、誰だって興味を持ちますよ」
それ程に雪村という名は鬼の間では有名らしい。ただ、雪村家はあまり表出るという事を好まない一族だったらしく、他の鬼たちの中にも雪村家と深く付き合った者は殆どいなかったのだそうだ。
「この辺りの古老たちは少しだけ関わりがあったようですが、あまり話そうとはしてくれないんですよ」
と言いながらも、千鶴の一族の事を詳しく知りたければ、古老たちに一度聞いてみてはと教えてくれた。
風間と女将の関係を知った千鶴の心中にあったもやもやとした感情がなくなり、笑顔を取り戻す。そして、この宿に泊まる事になったのも、やはり同胞の担う宿だからだろうかと問い掛けてみると、女将が意外な事を話し出した。その時の女将の話の内容が千鶴にお箸を動かす事もさせず、目を見開かせたままにさせる。
「ご一緒に来られた風間さまが新選組と関わりがおありになったのか、土方さんがお泊りになられた部屋を願い出られたんですよ。この宿は、新選組の一時の宿泊施設になっていたものですから」
「ここが以前、土方さんや新選組が定宿として使用していたんですか? そして、この部屋をあの土方さんが使っていたと……」
「千鶴さまも、新選組の皆さんとご縁がおありになったんですか?」
千鶴の驚きの言葉に女将が問い掛けてきたが、千鶴は少しだけ、と言葉を濁すと、鬼が他の一族や仲間にいちいち干渉しないというのは事実であるように。それ以上は聞いてこなかった。
「当時、この【釜屋】は幕府御用宿でしてね。土方さまもこの宿にお泊りになられていましたし、鳥羽伏見戦から江戸に戻られた新選組の方たちがここを利用されていたんです。もう亡くなられた方もいらっしゃいますけれど、当時は華やかでしたよ。あらあら、私が話してばかりですとゆっくりご飯も食べられませんね? そろそろ失礼しますね」
女将は、時間を気にせずにごゆっくり――と言い残すと部屋を出て行った。ポツンと一人、部屋に残された千鶴が独りごちる。
「この宿が新選組と関わりがあったなんて。風間さんはそれを知ってここに泊まるって言ったのかしら?」
千鶴の胸はトクントクンと高鳴りを起こしている。新選組を追い掛けている途中の知らなかった出来事が、悲しさではなく懐かしい思い出のように脳裏に残ろうとしている。そして、風間が何故この一部屋だけしか取らなかったのかを考え始めた。
風間と再会した日の夜、千鶴は毎晩新選組の夢に魘されている話を風間にしている。あの時、風間の胸の中で何故か安心できる自分がいた。そして、正月も魘されたのだが、その後は――
「正月の夜以降、あの夢を見ていない……」
悲しい夢を見なくなったという事は、何か安心できるものがあったのだ。それは、夜中にいつも、寝ぼけた風間が千鶴の布団に入り始めた時からだ。毎日のようにあの夢に魘されていたのに、いきなり見なくなる事なんてあり得るだろうか?
二部屋では面倒だからだ――
先ほどまでは意味不明であった風間の言葉が、まるで湧水のように溢れ出して千鶴の心に響き渡る。
雪村の家では部屋を自由に行き来できる。しかし、宿ともなれば人の目があるだろうから、そうはいかない。風間は先の事まで考えて千鶴と同室にしたのだ。
「あの悲しい夢を見ないようになったのは風間さんのお陰だった。そして、一部屋にした理由も、この私にあの夢を見させないようにする為だったんだ……」
やっと分かった――それに早く気づきもしない自分は、風間の言葉通りで何て鈍いんだろうと、千鶴は自分の中にある鈍感さを悔いた。風間が千鶴の為にしてくれた事に対して反論をしてしまったのだ。目先の事ばかりを考えすぎてしまい、千鶴を思ってしてくれている風間の気持ちを読み取ろうとはしなかった。
「私って、ほんと馬鹿みたい…」
千鶴はそう零すと、窓の外の方を見つめた。そこから見える景色は暗闇ではあったが、風間が言った通り、岡町と呼ばれるに値するほど、明かりが煌々と輝いている。これだと外に出ても怖くはないと考えた千鶴は箸を膳の上に置くと徐に立ち上がった。
「今すぐ風間さんに謝らないと……」
そう言うが早いか、千鶴は宿の外へと飛び出して行った。階段を駆け下りる。その音に気付いた女将が勝手場の方から顔を覗かせて目を見開かせた。
「千鶴さま。こんな時刻に一人で外に出てはいけません! 危ないですから戻って下さい!」
千鶴の背中に女将の叫び声が突き刺さろうとするが、その言葉を跳ね返すように無視をした千鶴は、夜でも賑やかさを見せる人込みの中へ姿を消して行く。
「風間さん、どこ? 風間さん……!」
小さい声で何度も風間の名を呼び捜しながら、千鶴は品川宿の中を走り回る。建物の陰から自分を見つめ、後を付けて来る数人の男たちがいるとも知らずに――。
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