東海道-江戸→品川宿



「ああ、女将さんに場所を聞いておくべきだった」


 風間がどこで会合を開いているのかも知らない千鶴は、額から汗を流し続けながらも走り続けた。会合を開いているような建物の中に入り、そこの主に風間の容姿を告げ、いるかいないかを問いかけたが、千鶴が入った宿や料亭などの主たちは皆、首を横に振るばかりであった。


「風間さんたちがいる事を口止めされているのかな?」


 と、首を横に振り続ける主たちを疑ってしまいそうになるが、一刻も早く風間を見つけて謝罪したい気持ちで焦っている千鶴は一つの場所では長居ができなかった。店の者たちが首を横に振る瞬間を見計らってすぐにその場所から立ち去る。


 店から外に出る毎に千鶴の目が一瞬だけ眩む。風間が言っていた通り、ここは岡場所とも名高い為、夜遅くでも外は真昼のように煌々と明かりが灯っていて、人の往来も激しい。その中を千鶴は縫うように走り続けた。


 殆どの店に入った千鶴がその場に立ちすくむ。


「もしかしたら、会合が終わって宿に帰っているのかもしれない」


 千鶴は走り続けた為に息の切れ掛けている呼吸を整えようと、一度走るのを止めた時、いきなり後ろから強い力で腕を引っ張られた。


「おい、お嬢さん。なかなか可愛らしい顔をしてんじゃねえか?」


 千鶴が振り向くと、人相の悪い男が腕を掴みながらにやけ顔でこちらを見つめている。何となくだが、人間にしては力が強い。腕を掴む男の握力の強さに千鶴は恐怖を感じると共にぞくりと背筋に寒い空気が流れた。


「て、手を離して頂けます? 私、急いでいるんです」


 千鶴は震える声でその男に訴えるが、千鶴の言葉など無視をしているようだ。後ろに数人控えている男たちと楽しそうに話している。


「この女を岡場所に売ればいい金儲けになるんじゃねえか?」


「そうだな。見目もかなりいいし、肌も客を引き寄せそうだ」


 その言葉に千鶴の顔から血の気が引いてくるのが分かった。真っ青になりながら男たちに言葉を投げ付ける。


「な、何を言い出すんです? 私はそんな所に行きませんから離してください!」


 しかし、腕を掴んでいる男はニヤリと笑んだままで解放してくれそうにもない。


「お嬢さん、強がっていても無駄だ。まあ観念してくれな」
「い、嫌……だ、誰か……か、風間……ふぅっ!」


 男はそう言うと、助けを呼ぼうと風間の名を呼びかけた千鶴の腹に拳を一つ入れてきた。千鶴の意識は、奈落の底に一気に落とされてしまった――。






 風間が宿に戻ると、女将が血相を変えながら、千鶴が急に外に飛び出して行ったまま帰って来ないという話をしてきた。


「あの馬鹿が……あれ程外へ出るなと釘を刺していたのを忘れたのか?」


 風間は顔を歪ますと、先ほど一緒にいた鬼の仲間たちと連絡を取り合って千鶴の居場所を探す準備を始めた。しかし、この鬼の仲間たちは古老と呼ばれる程、かなりの高齢である。若い者もいるのだろうが、このような会合の時には決まってこの古老たちが出しゃばってくるのだ。そして今回も古老たちに囲まれながら、何とも面白くもない会合を進めさせられた。だから、やっとそれから解放されたと思ったのに、またこの古老たちと付き合わなければならなくなった風間は大きな溜め息を吐いていた。


「何じゃ、風間。儂らの顔を見て溜め息ばかり吐きおって」
「当たり前だ。お前たちを見ていると西の里の長老たちを思い出して吐き気がするのだ」
「全く、今の若いもんは年寄りを粗末に扱う。儂らのような古老たちがいるからこそ、お前たちに正しい道を歩ませる事ができておるのじゃぞ」
「何を言う? お前たちは俺がまだ十くらいの頃に酒を浴びる程呑ませたではないか」


 風間の執拗な記憶にも何のその。古老たちは歯のない口を大きく開けて、ヒャッ、ヒャッと笑い始める。


「そのお陰で、酒に強くなったではないかの?」
「ふん、あの時の味が忘れようにも忘れられなくてな。里に帰った後に酒蔵から酒を盗んだところ、長老に見つかって仕置きを受けたわ」


 風間の文句にも古老たちは相変わらず笑い続ける。そのような些末話などどうでもいい。今は千鶴を助けるのが先決だ。風間が古老たちに千鶴が連れて行かれそうな居場所に心当たりがないか聞いてみた。すると幸いな事に、鬼の忍びの女数人が岡場所の遊女として潜んでいると言う。千鶴の姿が見えないのならば、恐らくそういう場所に売られる為に連れて行かれているだろう。古老たちはそう予想していた。


「この品川宿に屯する男たちの中には、少し素行の悪い鬼たちも混じっている。それに、女を売る前にその男たちが売女の身体を味わうらしいという噂もちらほらと聞くのう」
「爺たち、それを早く言わんか!」


 聞いていれば一刻を争うような大層な事であるのに、古老たちはそうでもないようなのんびりとした口調でそれを伝えてくる。風間は古老たちの鈍い動きに鞭を当てるように急かしながら、目的の場所まで案内をさせる事にした。


 千鶴自身は気付いていないだろうが、風間から見ても――いや、他の男が見ても何故だろうか、千鶴は男を惹き付ける魅力がある。それが全身から醸し出ているのだ。そして江戸で見たあの白い肌は、欲深い男たちにとってまさに馳走である。


「早く見つけねば手遅れになる……」


 それにあの身体は決して汚してはならない。何故ならば――


「俺よりも先にあの身体に手をつけた男は、誰一人として許さん。あの白い肌に美しい紅の花を咲かせるのはこの俺が最初で最後の男だ」


 素行の悪い男たちと同じように独占欲と性欲に溢れる風間は、それらで乱れる心を落ち着かせながら、古老たちと共に目的の場所へと駆け出していた――。


「ほれ、ここじゃ」
「ここか……爺ども、助太刀を頼めるか?」


 風間が頼みの言葉を投げ掛けると、古老たちは節くれた指をバキバキと鳴らし始めた。


「久しぶりの祭りじゃわい」
「祭りではない……」
「いやあ、刀の使い方を忘れてはおらんかの?」
「爺……貴様ら……」


 目の前の宿にいるであろう、素行の悪い男たちよりも先に、この古老たちを殺しかねないような鋭い視線を投げ掛ける風間に、彼らは楽しそうに笑った。


「冗談じゃ、冗談。さて、踏み込むかの?」


 妻になる大切な女を助けに行く風間の前で、気の抜けるような戯言ばかりを投げ掛けてくる古老たちにがっくりと肩を落としながら訴える。


「このような時に冗談は止せ。しかし、ここは厄介だな……」


 落としていた肩を更にがっくりとさせながら宿の方を見つめる。そのような風間の脇を古老が肘で小突いてきた。


「ここにお前の妻になる女が連れ込まれたという知らせが入ったんじゃから仕方ないじゃろ」
「それはそうだが……」


 風間は屋根下に取り付けられてある看板に視線を向けた。


 【土蔵相模】


 この宿は、幕末の志士であった高杉晋作や伊藤博文たちが密議を交わしたり遊女と遊んだりした所で有名な場所である。その中に風間は足を踏み入れると、何とも艶かしい宿の女主が姿を現した。


「あら、風間さまいらっしゃい。お久しぶりね」


 目の前の女の姿。それを見た風間の喉奥が小さな呻きを放つ。


 過去に遊び程度に付き合ってやった女が目の前にいる。この女との身体の相性は良く、付き合った期間はかなり長く続いた。数年前には既に男女の関係はなくなっていたが、この品川宿に泊まる時はいつもここを利用していた。しかし、今回は自分の妻になる千鶴連れている為、わざわざ理由がつけられる宿【釜屋】に宿泊する事に決めたのだが、久し振りに会っても風間好みの美しい姿を保っていた。が、今は千鶴を助けなければならない風間は、爆発しそうになる本能を無理やり押さえつけ、消え行きそうになっていた理性を奮い立たせた。


「ここに女を連れ込んだ男たちを知らぬか?」
「確か、雪村家の生き残りで、風間さまの妻になられる女の方ですよね? 容姿を教えて下さい」


 ここは様々な男女が出入りを繰り返す宿。女主は風間が捜し求めている女が彼の将来の妻だと理解したのか、少し寂しげな表情を浮かばせながら容姿などを尋ねてきた。


「髪色は漆黒、肌は雪のように白く、瞳は蜜色だ。童顔、色気なし。そして少し頭が鈍く、鬼のくせに動きも人間並みに悪い。その上に強情で素直でない女だ。これで分かるだろう」


 風間の説明には容姿だけではなく、別に聞く必要のない性格の内容まで入っており、女主がポカンと口を開き、雪村千鶴という女に興味を持ったようだ。すぐに調べて来ると言うと、奥の部屋へ姿を消して行く。すると、女主の姿が消えた途端、風間の背後にいた古老たちがゲラゲラと笑い始めた。


「色好みの風間がそのような女子を好むとは思わなかった」
「煩い。あれは雪村家の生き残りだからこそ、我が妻にと選んだのだ」


 風間が皆の視線から逃れるようにフイッと顔を背けたが、長い時代を生きている古老たちには、まだまだ若造である風間の心境など既にお見通しのようだ。


「しかし、愛しておるんじゃろ? そして仲良くしたいから宿まで変えたんじゃろが」


 などと、品川宿に来るまでの間に千鶴と議論をしていた言葉や宿を変えた理由などが投げ掛けられたが、


「愛しているとかではないし、別にこの宿に泊まって喧嘩になろうとも何とも思わん。俺があの女を妻にと決めたのには雪村家の生き残りで貴重な女鬼だからだ」


 と、先ほどと同じ返事しかせず、その言葉を聞いた古老たちが悲しそうな笑みを浮かべた。


「幼い頃から頭の中に叩き込まれた頭領としての自尊心が邪魔をして、素直な気持ちも言葉にできんのか」
「人間も厄介じゃが、鬼も厄介な生き物じゃのぅ」


 そして、数人の古老の口からは同時に嘆息が漏れ出た時、宿の女主が一部屋に数人の男が一人の女を抱きかかえて連れて入ったという情報を伝えてきた。


「髪色は漆黒、瞳の色は意識を失っていたらしく分かりませんが、肌は雪のような白さだったとか。風間さまよりも十ほど若くいらっしゃるお姿だった……」


 風間は女主の言葉を最後まで聞かずに言葉を放った。


「で、部屋はどこだ?」
「二階の奥の突き当りでございます」
「ふん、俺がいつも泊まっている部屋か。行くぞ、爺たち」


 風間はそう呟くと同時に、古老たちに声をかけると、女主に背を向けて二階へ続く階段を駆け上っていく。その背中に向かって女主が独り言のように呟いた。


「一人の女に必死になる風間さまを見たのは初めてだわ……」








「ん……いった!」


 千鶴が目を覚ますと、先程の男たちに囲まれた中で横たわっていた。


 動こうとしても身体と手足を縄で縛られていて、拳を当てられた腹には鈍い痛みの感覚があり、それが強い時には呻き声を出してしまいそうになったが、唇を強く噛み締めながら、周りの男たちを睨み上げた。


「おいおい、そんな可愛らしい目を吊り上げるなって。暗闇ではよく分からなかったが、ここで見る限りかなりの上玉じゃねえか」


 一人の男が千鶴を見つめながら舌なめずりを起こす。


「売っちまう前に俺たちが食ってしまうなんて贅沢な話だよな」
「えっ、食うって……」


 千鶴の吊り上っていた両目が大きく開き、驚いているのに気付いた男たちが忍ぶ笑い声を起こす。


「まあ、遊女になる前の予行練習とでも思っておいてくれよ」
「よ、予行練習? ゆ、遊女……?」


 内容は違うが、以前に似たような言葉を風間から聞いたような気がする。


 この部屋で一番先に声を出した男が、自分の腰布を解き始めた。着物が着崩れを起こし、逞しい身体を見せ付けてくる。それを見た千鶴が、ああ、五右衛門風呂事件の時だ――と思い出した瞬間、脳裏に風間の裸体の姿が映し出された。


 あの時も――どんどん脳裏に描き映し出されていく光景に意識を奪われながらも、


「きゃああああっ!」


 と、叫ぶ千鶴の口を他の男の大きな手が覆う。裸体になった男が千鶴の上に跨り、身体の縄だけを解くと、着物の掛衿(かけえり)に手を宛がい、一気に左右に開いた。


「うっ、うぅっ!」


 男という生き物に恐怖を感じた千鶴が、呻き声を上げながら肌蹴た胸元を隠そうと身体を捩らせるが、手足の自由がきかない上に、数人の男たちの手で押さえ付けられていてどうする事もできない。


「真っ白な肌だな……」


 上に跨っている男が千鶴の胸元を見つめながら生唾をゴクリと立てる。着物の褄下(つました)も押さえ付けられている男の手によって左右に開け広げられ、冷えた空気が足の根近くまで流れ込んできていた。


 助けて――


 心の中で叫ぶ千鶴の両目尻からは、一筋の涙が零れ落ちようとしていた。


「優しくしてやるから泣くなよ……」


 上に跨りながら千鶴の耳元で囁いた男の唇が肌にねっとりとした感触を起こしてくる。千鶴は、先ほどから記憶の中を占領する男の姿に向かって名を叫んだ。


 風間さん、助けて――


 喉元のぬめりが徐々に下へと下りてきた瞬間、万事休すと覚悟をした千鶴は両瞼を強く落とした。その時、千鶴の喉元に吸い付いていた男の唇の動きが止まり、離れた。


「うっ……?」


 何が起こったのかを確かめる為に恐る恐る両瞼を押し上げてみると、男全員の視線は千鶴にではなく、襖の方に注がれていて、千鶴も彼らと同じ方向に視線を動かした。


 千鶴の視界に、心の中で助けの言葉を投げ掛けていた男の姿がある。千鶴の身体を押さえ付けていた男たちの手が一斉に離れた。


「折角、今から気持ち良くなるところだったのによ。よくも邪魔してくれたな」
「ふっ、お前たちこそ、よくも我が妻になる女に手を掛けてくれたな。この代償は高いぞ」


 そして風間は目を細めながら、数人の男たちの顔を凝視した。


「お前たち、人間ではなく……鬼か?」


 すると、先ほどまで裸体姿であった男が、着物を無造作に羽織りながらニヤリと笑った。


「さすが鬼の頭領さまだな。その通り、俺たちは鬼だ」
「この女が西の里の頭領の妻になると分かっていての行いか?」
「ああ、そうだよ」


 男はそう答えた瞬間、素早い動作で足元に置いてあった自分の刀を手に持ち、崩れている着物を翻しながら風間に向かっていった。


 金属音が交わる鈍い音が部屋の中に響き渡る。この時、千鶴は首を傾げた。


 刃を交えているのは風間とその男だけで、風間の傍に寄り添うように立っていた古老たちも、男につき従っていた数人の男たちも皆、二人の闘っている姿を見物しているだけなのだ。


「あのぉ……」
「ん、何だ?」


 千鶴が恐る恐る、傍にいた男に声をかけると、その男がこちらに顔を向けてきた。


「あの男の方に加勢をしないんですか?」
「何で?」
「な、何でって、仲間なんでしょ?」
「ああ、仲間だけど加勢する必要はないよ。危ない状況になったら、爺さんたちが止めるだろうし……」
「えっ、どういう事ですか?」


 この男が何を言っているのか分からずに、千鶴は問い直してみたが、彼は黙って微笑むと、風間と男が刃を交えている光景に視線を戻してしまった為、何も聞けなくなってしまった千鶴も彼らと同じく黙ったままその光景に視線を向けた。


「千鶴をこの岡場所に売ろうとするとは、余程肝の据わった男だな」


 目の前の男を挑発しながら刃を振り回している風間の全身からは殺気が漂っている。


「いやあ、あの女鬼はかなり高い値がつくと思うぜ」


 風間と同じく刃を振るう男の表情は、何とも楽しそうである。その顔が気に入らなかったのか、風間の刃が重みを増して上から振り落とされた。


「おーっと……! やべっ!」
「ふん、うまく躱(かわ)したな」
「これでも鬼なんでね」


 相手が人間であれば、風間は簡単に倒す事ができたのだろうが、さすがに相手は同胞の鬼である。そう簡単に倒す事はできない。しかし、力は風間の方が上であったようで、相手の男の口元からは微かに荒い息が吐き出され始めた。


「ふん、鬼といっても大したことはないな」


 風間が不敵に笑みながら、刃を鋭く振り下ろすと、それを防ごうとした相手の男の手にあった刀が真っ二つに折れた。


「さて、お前の命もここまでだ」


 風間が低い声音を出しながら、手の中にある刀を振り上げたその時、


「うわぁ、折れちまったよ。おい、爺さん! 楽しそうに見てないで早く止めろよ!」
「お前は何を言っている?」


 相手の男が古老たちに大声を掛けると、刀を振り上げたまま動きを止めた風間が首を傾げていると、背後で見物をしていた古老の一人が両手を叩き始めた。


「いやあ、いいものを見せてもらった。そこまでじゃ」
「何? 爺、どういう事だ?」


 風間が刀を下しながら手を叩いていた古老に詰め寄ると、彼はフヒャッと笑いながら、懐から大きな巾着袋を取り出した。


「ほれ、天霧から頼まれていたものじゃ。受け取れ」


 巾着袋が風間の手の上に乗せられる。傍から見ても重そうに見えるそれは、金が入っていると千鶴はすぐに分かった。それを手渡した古老が風間を見据えて短い言葉を放った。


「早く西の里に帰るのじゃぞ。天霧が怒っとる」


 その言葉に風間の返答はなし。ただ、緋色の瞳を鈍く光らせている。


「これでお前さんの妻となる千鶴が狙われやすい女鬼だという事も分かったじゃろうて……」


 そこでようやく風間が口を開いた。


「天霧の差し金か?」
「どうかのう? 儂たちには分からん。ただ、儂たちは祭りを楽しんでいただけじゃ。ここら界隈の鬼たちは祭りが好きじゃからなぁ」


 それに対して古老は曖昧な返事をしながら笑うだけである。それだけで理解したのか、怒りも治まった風間は刀を納めると、千鶴の方へゆっくりと歩みを進めて来た。風間の背後に立っている古老たちや、千鶴を襲おうとしていた仲間たちは穏やかな目で二人を見つめていた。しかし、風間の歩みは千鶴のすぐ目の前で止まる。


 何故だろうか、自分を見下ろしている風間の視線が熱いと感じた千鶴であったが、その視線の矛先が胸や足元の辺りに集中しているのに気付いた。そして、千鶴も自分の胸や足元の方に視線を向ける。


「あっ……忘れてた」


 千鶴は数人の男たちに肌蹴させられたままの状態で座り込んでいたのだ。そして風間も、千鶴の前まで歩いて来てようやく気付いたようであった。


「お前には女としての自覚がないのか?」
 
 千鶴は歪みを見せる風間の口元を凝視しながら、慌てて胸元と足元の乱れた着物を直そうとするが、焦る気持ちが手に震えを起こさせる。この乱れた姿を風間だけではない。他の男が見ても自分の女を穢されたと思うだろう。そしてその後は――千鶴の予想は悲しくも当たってしまい、風間が男たちの方にゆっくりと顔を向けていた。


「千鶴の身体に触れた奴はどいつだ?」


 部屋の中の空気が張り詰める。せっかく平和な世になり始めているというのに、今更ながら殺生沙汰はごめんだ。それに、風間がいくら強いと言っても相手は鬼。もしもの事もある。


 これ以上、自分にとって大切な者を失いたくない。千鶴は風間の刀を持つ手に飛び掛かった。


「か、風間さん、もういいじゃないですか」
「離せ千鶴。その格好、どう見てもされたとしか思えん」
「いえ、されてま……せんっていうか、されたというか……」
「そらみろ、されたではないか」
「だから、これくらいの事で仲間を殺さなくてもいいでしょう!」


 千鶴の最後の言葉で、風間の額に青筋が数個浮かび上がった。それらはピキッと皹が割れるような音が聞こえてきそうな程に、一つずつくっきり、はっきりと浮かび上がってくる。


「ほう、これくらいの事、でだと、お前はそう言うのだな?」
「いや、その……そりゃぁ、風間さんの妻になる私が他の男の方に襲われたとなったら体裁的にもあまり良くないですけど……でも、まあ……そんな酷い事はされてませんし……」


 風間の鋭い眼光が矢継ぎ早に放たれて、最後まで言葉が続かない。その時、風間たちがここに乗り込んで来るまで千鶴の上に跨っていた男が、


「俺らは風間の女に手を掛けてはいないぜ」


 と言い出した。


「し、したじゃない! それもしていないって言っているあなたが……!」


 と、千鶴がその男に向かって言葉を吐き捨てると、


「やはり、されたのか!?」


 と、風間が刀の切っ先を向けると、その男は両手を上げて戸惑いの表情を浮かばせた。


「ちゃんと説明をしたいのに、どうやったら落ち着いてくれんだよ」
「説明……?」


 風間と千鶴が同時に首を傾げると、その男は頭をポリポリと掻きながら、先ほどの説明を始めた。


「この女の喉元に口付けなんかしてねえよ。飴の溶かしたやつを指先につけて這わせただけだ」
「えっ……?」
「何だと……?」


 風間が千鶴の喉元を見ると、一部の場所がテカテカと輝いており、何となくだが、千鶴のそこからは何とも甘い香りが仄かに漂っている。


「全く、口付けと指の感触さえも分からんとは。お前はどこまで鈍感なのだ」
「さっきはすごく慌てていて何が何だか分からなかったんです。鈍感じゃありません」
「いや、鈍感だ」
「違います……!」


 二人の言い合いを傍で聞いていた男が呆れ返ったような溜め息を吐いた。


「爺さん、俺たち帰るわ。何か阿呆らしくなってきた」


 そう言うと、数人の男たちを引き連れて部屋を出て行ってしまった。後に残されてしまった古老たちは、風間と千鶴の口喧嘩を聞きながら、


「何とも、子供のような喧嘩じゃの。素直でない」
「全くじゃ。それに風間もかなり嫉妬深い男じゃのう」
「いやあ、しかし千鶴のあの白い肌を見てゾクッとしたわい。儂もあと少し若ければなぁ」


 と、二人の言い合いや、千鶴の未だ直していない肌蹴た胸元を厭らしい目つきで見つめて楽しんでいる。


 徐々に風間と千鶴の言い合いが加速し始め、


「この性格は私のものですから、風間さんは口を出さないで下さい!」


 と、千鶴が叫んだ瞬間、


「俺のものは俺のものであり、お前のものは既に俺のもの。従って口は出させてもらう」


 と、風間が断言してきた。それに対して千鶴が反論をする。


「ま、まだ祝言を挙げていませんから、私は風間さんのものになんてなっていません!」
「お前は既に俺の事を愛していると言っているだろう。その時点でお前は完全に俺のものだ」
「なっ、何を言ってるんですか? 親しき仲にも礼儀ありっていう言葉があるでしょう!」
「それは親しい者同士の事を言っているのであって、俺たちは親しいのではなく、夫婦という関係になるのだからな。その言葉は通用せん。中途半端な知識を妄りに外に吐き出さぬ事だな」
「うっ……!」


 すると、風間はいきなり何も言い返せなくなった千鶴を抱き上げ、自分たちの喧嘩を傍観していた古老たちに振り向いた。


「今回は我が家老である天霧が仕組んだ事ゆえ、お前たちのやった事に関しては大目に見てやる。しかし……」


 風間の威圧感溢れる睨みに、頭領としての風格を兼ね備えた風間の口からどのような言葉が吐き出されるのだろうと古老たちが固唾を呑みこんだ。


 天井に鬼の忍びが潜んでいるのに気付いた風間が視線を上に向け睨んだ。


「天霧に伝えておけ……」


 部屋の中、天井裏にいる者たち全てが、風間の次の言葉を待った。


「俺はこの旅を満喫する事に決めた。従って、早々に戻れんとな……」


 それだけの言葉を天井裏に放つと、次は千鶴の方に視線を下す。いや、喉元に、と言い換えた方がいいだろうか。その個所を見つめたまま、厭らしい笑みを浮かべていた。


「宿に戻ったら、喉元の飴を全て舐め取ってやろう」
「お、お風呂で洗い流しますから結構です!」
「ふん、口付けと指先の感触も分からんお前に指南してやるというのだ。有難く思え」
「お、思いません。有難くも思わないし、さっきからの風間さんの言葉も納得もできません」
「では、納得できる言葉を授けてやろう。お前は道中の俺の命令を聞かなかった。従って、宿に戻れば仕置きをする」
「し、仕置き……!?」



 恐怖や緊張、そして安堵と続けざまに感情が折り重なった上に、かなり息んで叫び続けたせいか、頭がクラクラとして意識が朦朧とし始める。薄れる意識の中、風間に強く抱き締められて確実な安堵感が身体中に流れ出したのを確信した千鶴は、そのまま意識を失ってしまっていた――。


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