東海道-江戸→品川宿
薄れていく意識の中で、千鶴は嫉妬のような感情を覚えた。
風間と女が会話をしている声が聞こえる。それもかなり親しそうに――。
全く、この俺を謀うとは。ここの奴らの祭り好きにも呆れる。お前もこの策略に加わっておったのか?
ええ、勿論です。風間さまを夢中にさせる方がどのような女のか興味がありましたし――
別に夢中にはなっておらん――
すると、女の口から美しい音色の笑い声が放たれた。
風間さまの好みではなさそうですけれど、可愛らしい娘さんですわね――
家柄が良かったのでな――
あら、それだけですか? 私には、風間さまがこの娘さんにかなりご執心とお見受けしましたけれど――
ふん、俺の女の好みはお前も知っていよう?
では、この方を妻に娶られた後、男女の関係を再開します?
いや、こいつはかなり嫉妬深い女なのでな。お前との関係をあの頃に修正するつもりはない――
これから風間さまに愛され続けるこの方が羨ましいですわ――
何の話? 朦朧とする意識の中で、多大な不安が浪打寄せてきた千鶴は、感覚が鈍っている両手で風間の着物を強く握り締めていた――。
意識を取り戻した時、千鶴は【釜屋】の部屋に戻っていて、布団に寝かされていた。
「ん、狭い……」
千鶴は、自分が寝ている布団の狭さに顔を顰めながら背中越しに顔を向けると、驚きのあまりに声もでなくなっていた。
「ようやく目が覚めたか」
「……」
「待ち侘びたぞ」
千鶴の隣りで添い寝をしている風間がそう言って、いきなり喉元に唇を押し付けてきた。
「ひゃっ!」
千鶴の喉元にねっとりとした感触が生じたが、それが先ほどの男がしたものとは全く異なる事に気付いた。
舐められている個所が熱い。しかし、もしも喉元に風間の指先が這ったとしても千鶴は熱く感じるのだろうと思った。それは、愛している者に愛されているという幸せを実感するからだろう。
「お前は約束を破った」
喉元にべっとりとこびり付いている飴を舐め取りながら、風間が囁いてくる。
「仕置きだ。鳴け……」
「んっ……はっ!」
千鶴の口からは反論する言葉など何一つ吐き出されず、艶めかしい喘ぎ声ばかりが漏れ出ていた。道中は風間の命令を聞けとあれ程言われていたのに、初日からそれを破ったのだが、風間も今、道中の、いや道中以前からの約束を破ろうとしている。千鶴は風間の胸元に両腕を突っ撥ねた。
「道中はしないって約束です」
しかし、風間の身体はびくともせず、抗えば抗う程、千鶴の喉元に唇を押し付けてくる。
「これは、する行為ではない」
「お、同じです……んっ!」
「俺のする行為の意味は、子を作る行為の事だ。従って、このような前儀はその中には入らん」
「な、何て、勝手な……」
風間の唇の押し付けている個所が熱い――千鶴は今まで出した事のない女の喘ぎを洩らした――。
風間の仕置きも終わり、ただ喉元を攻められただけの千鶴が布団の中でぐったりしていると、
「何故宿から出たのだ?」
と、風間の口から質問の言葉が飛び出した。その原因を思い出した千鶴は、ゆっくり起き上がり、叱られた子供のように行儀よく座ると頭を下げた。
「今回は本当にすみませんでした。でも、どうしても風間さんに謝りたくて。早く謝りたくて……」
下を向いている瞳から大粒の涙が布団の上へ零れ落ち、その個所には次々と染みがつけられていく。この後に続く言葉が出なくなってしまった千鶴は両手で顔を覆うと、肩を揺らしながら泣き続けた。
今回は風間を西の里に早く帰らせる為の天霧の策略に乗った鬼たちの仕業であったが、もしもそうでなかったらと考えるだけで千鶴はゾッとしていた。千鶴の勝手な行動で風間に迷惑を掛けた申し訳ない思いや色々な感情が、千鶴の心に襲い掛かってくる。
暫くの間、横になったまま見つめていた風間は静かに起き上がると、しゃくり上げて泣いている千鶴の顎を指で支え上げた。
「何を謝りたかったのだ? 泣いているだけでは分からん」
顔を上げた千鶴の頬を伝う涙を指で拭いながら風間は理由を聞いてくる。
「だ、だって、風間さんがこの宿を選んでくれたのも同室にしたのも、全て私の為だったんでしょう?」
千鶴は泣き止み、呼吸を整えながらこの宿が新選組と深い関わりがあった事、風間がそれを知っていてこの部屋を取ってくれた事、そして、何故一部屋にしたのかが分かった事を話した。しかし、この千鶴の話に、風間の心中は穏やかではない。
確かに一部屋にした理由はそれに当たる。しかしこの宿に決めたのは、いつも定宿にしている所の女主と自分が身体の関係にあった事を知られないが為であって――つまりは千鶴の為ではなく、風間の保身の為である。が、このような勘違いをしてくれている事は有難い。風間はその通りだというような表情を浮かばせながら千鶴を見つめた。
「やっと、その鈍い頭の中で理解できたか」
「鈍い鈍いって言わないで下さい。その言葉は傷付きます」
「事実だから仕方がないだろう?」
しかし――と、風間は急に千鶴の顔を見つめながら真面目な顔をして考え込み出した。
馴染みの女がいる宿に入った時は心が揺らいだ。しかし、乱れた着物を纏っていた千鶴の姿を目にした後にはその心は決して揺らがなかった。
俺の好みが変わりつつあるという事か――などと考え続けていると、千鶴からいきなり声が掛かった。
「ところで、風間さん」
「何だ?」
「私が意識を失っている時に女の方とお話していましたか?」
あの時、こいつは完全に意識を失っていなかったのか、と、驚きながらも冷静さを保ち続ける。
「いや、話してはおらんが、それがどうしたのだ?」
すると、千鶴が不思議そうに首を傾げた。
「いえ、よく覚えてはいないんですけど、かなり親しそうだったので。でも多分夢だったんだと思います」
そう言いながらもやはり気になるのか、千鶴は風間の緋色の瞳の奥を見つめてきた。
「夢、だったんですよね? 風間さん、本当に話してませんよね?」
どうやらかなり疑っているらしい。風間は話を逸らす為に違う話題を持ちかけた。
「ところで千鶴。品川宿に着くまでに好きやら愛やらについて話しただろう? 最後に途中で止まってしまったお前の考えを話せ」
すると、今まで風間に質問攻めだった千鶴がいきなり口を閉ざした。
「言えんのか?」
「だって、風間さんは多分怒ります」
「それは内容によるだろう」
千鶴の唇を端から端へと優しくなぞる風間の指はからくり――。言わないでおこうと思っても、閉ざしていた口が自然と開きを見せてしまう。
「好きにも愛にも二つ、異なる意味があると思うんです。例えば純粋な好きと愛に肉欲的な好きと愛……」
「ほう、それで……?」
「えっと、風間さんと私は中途半端な関係かなと……」
「中途半端な関係?」
「ええ、身体の関係はなくても口付けとか、風間さんは今さっきのような行為をするでしょう?」
その言葉の続きが何となく分かった風間のが顔を険しい色に変えていく。
「つまり、お前は何が言いたいのだ?」
「だ、だから、道中の約束通り肉体的な関係ではなくて、純粋な関係を築いていきましょうって事で……」
風間にいきなり荒々しい口付けをされた千鶴のその言葉は最後まで続けられなかった。獣が餌に食らいつくような痛みのある口付け。千鶴の口内に血の香りが漂う。あまりにも息苦しくて、風間の胸に拳で打ち付けるが、それは無理な抗いであった。
ようやく互いの唇に距離が持たれた時、風間が千鶴の耳元に低い声音で囁いてきた。
「確かに俺はお前と、祝言を挙げるまでは手を出さんと約束はした。しかし、いつまでも飯事のような純粋な愛が続くとは思うなよ。勿論、俺から先に行動は起こさん。しかしお前はこの道中の間に必ず肉体的な愛を求めてくるようになる」
「そ、そんな事は絶対に……」
「……ないと思うか? それはあり得んな」
風間が意地悪く微笑みながら、千鶴の唇に再び指を這わせる。
「このように、お前の唇に俺の指が触れるだけで身体が熱くなっている。これは本能が持つ欲求。今のお前の性欲はまだ未発達のようだが、それはいきなり激しいものに変わる」
風間に耳朶を食まれる。すると、千鶴の下腹部辺りがこそばゆくなり始め、少し開いていた両足を思わず閉じてしまうと、それに気付いた風間が耳朶を食んでいた唇を離した。
唇だけの愛撫で感じている千鶴の表情が何とも言えず艶めかしい。風間も男だから千鶴の中に欲を発散させたい気持ちは少なからずあるのだが、今こうして艶めかしい表情を見つめていると、それだけで満足をする自分があるのも確かである。
一つ一つの感情が織り成されては解かれる。それに対して幸せと思うか思わないか――。
愛というものは、決して同じ模様を作り出せない特別な感情なのかもしれないと風間は思った。
翌日、【釜屋】の女主の計らいで、古老たちが千鶴に雪村家の話をする時間を設けてくれた。風間がそれを知ったのは朝。千鶴よりも先に朝食を終えた風間は、宿にやって来た古老たちに耳打ちをした。
「あの女との関係の事は絶対に言うなよ」
「おや、別に知れて喧嘩になっても何とも思わんと言っておったじゃないか」
「言ったが、別に知れても構わんが、知らなくともいい話ではないか」
結局はかなり気にしている風間に、古老たちが呆れた溜め息を吐いていた――。
「爺どもは雪村家の事について何か知っていたのか?」
「いいえ、あまり詳しくは知らなかったみたいです」
「そうか、それは残念だな」
雪村家の事を少しは知っていた古老たちであったが、襖の隙間から緋色の瞳が監視をされていて、話すどころではなかったようだ。あまりよくは知らないと言って謝罪をした後、早々に宿から出て行ってしまった。
【釜屋】を出て、次の川崎宿へ向かう二人が、昨夜、千鶴が連れ込まれた【土蔵相模】の前を通り過ぎようとした時、暖簾を潜って一人の美しい女が姿を現した。
「あら、風間さまに奥さま。もうご出立ですか?」
「はい、今から出立をします」
女の問い掛けに千鶴が返事をした。
その女も鬼のようだ。そして千鶴はその声に聞き覚えがあった。
「西の里までの道中は長いですから、お気をつけて……」
そう言って軽く頭を下げてくる。いつもなら短い言葉でもかける風間がうんともすんとも言わず、千鶴の腰に腕を回すと足早にその場から離れて行った。
千鶴が背後を振り返ると、その女は下げていた頭を上げていて、ニッコリと微笑みながら小さく手を振ってくれている。
「風間さん、あの女の人と会話をしてましたよね?」
「……」
「私の記憶が薄れていた時に、それも親しげに……」
「夢でも見たのではないのか?」
「よく考えてみれば、あんな現実的な夢を見るなんておかしいです」
二人の間に寒い空気が流れる。それは決してまだ春先の冷たいものではなかった。
「風間さんが言ってくれないのなら、私があの人に聞いてきます」
「待て、千鶴!」
「もうっ! 離して!」
少し距離の離れた所から二人の様子を見ていた女主が苦笑を洩らした。
「本当に嫉妬深い娘さんだったのねぇ。でも、すぐにばれるなんて、風間さまも嘘が下手なんだから……」
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