蝶が好む蜜-sidestory-



「あの時は大変でしたわね」


 千鶴と祝言を挙げたひと月後、風間は会合の為に品川宿へとやって来ていた。


 勿論、定宿にしている【土蔵武蔵】で寛いでいる。そこの女主とは過去に身体の関係のあった者同士であったが、今ではその女も伴侶を持ち、一人の息子を儲けていた。


 相手の男は千鶴を助けた時に刃を交えた者らしい。


「あの時は、お前の所に戻ろうとした千鶴を押さえ付けるのに大変だった」


 酒を呑みながらの風間の表情は柔らかい。それは既に過去の思い出となってしまったからなのかもしれない。


「風間さまが苦手とする嘘を吐こうとするからですよ。千鶴さまとは十も歳が違います。その十年の間に色恋沙汰がないという方がおかしいではないですか」
「まあ、知られたくなかったのだろうな」


 風間が西の空を見上げる。


 今、千鶴は何をしているだろうか? そればかりが気になって、今夜の会合にも身が入らないような気がした。そんな風間を見つめていた女主が苦笑を洩らした。


「千鶴さまは、私たちが風間さまにできなかった事を全てやり遂げたお方ですわね」
「どういう意味だ?」


 風間が意味が分からないと首を傾げると、女主が風間の手にあった盃の中に酒を並々と注いだ。さすがは宿を切り盛りする女である。そういう細かいところにはよく目が届く。


「私たちが身体の関係を持った時、風間さまはかなりの女の方ともそういう事をされていたでしょう?」
「そうだったか? よくは覚えておらん」
「でも、千鶴さまを妻に娶られる時、風間さまは遊び相手である女の方と全て手をお切りになったそうで、正直驚きました」
「何故、驚くのだ?」
「だって、あの時の風間さまは、千鶴さまを愛しているとは言わないで気に入ったと雪村家の生き残りだと、頭領の妻としては相応しい女を見つけたみたいな感じでしたし、千鶴さまを見た時、風間さまの好みの女ではなかったですもの」


 女主の言葉に、風間は首を横に振った。


「いいや、俺はあの時からあいつを愛していたのだ。ただ、古老たちやお前には言わなかっただけだ」
「どうしてですか? 素直に愛しているとおっしゃれば良かったのに」
「頭領としての自尊心が邪魔をしてな……」
「ああ、そうだったんですか……」


 二人の間に静かな時が流れる。風間が女主の方に視線を向ける。相変わらず艶めかしいい雰囲気を曝け出しているのに、風間の緋色の瞳には女主としか映し出されていなかった。


 以前の風間なら、自分の好みの女が目の前にいればすぐに押し倒して事を成していたのかもしれないが、今は正直、そのような気さえも起こらない。その理由は、西の里にいる千鶴を深く愛しているからなのだろうと納得をした。


 風間好みの女にはかけ離れているのかもしれないが、何事にも全力で前に進もうとする千鶴の内面はかなり気に入っている。それに、夜の寝床での喘ぎ声は、今まで付き合ってきた女とはまた異なって格別である。


 ねっとりとした蜜のような喘ぎ声が、風間を心地好くさせる。そして、同じく蜜を溢れさせた双方の瞳が惹き付けて離れられなくさせるのだ。


 酒を呑むのも忘れて西の空を見続ける風間。その端正な横顔は、女主でさえも見た事がないものであった。


「今日、風間さまがここにお泊りになられる事は千鶴さまはご納得されていらっしゃるんですか?」
「ん? ああ、もう嘘は懲り懲りだからな。しっかりと説明をしてきた」
「そうですか……」
「それに、今回は天霧も共について来ている。悪さはできんな」


 風間はそう言って、部屋の隅に控えている天霧に視線を向けた。


 濃厚で溢れんばかりの蜜は姿形を変えて飽きさせない。千鶴にはそれがあるのだろうと女主は思った。


 風間と自分との関係は薄らな恋だったのかもしれない。


 互いに相手を求めるだけの恋――


 しかし、千鶴は求めるだけではなくて、この風間に自分の蜜をも与え続けていたのだろう。


 見返りを求めず与え続けた恋は、自然と愛の形に変わるのかもしれない。


 風間が美しい蝶ならば、今まで遊び相手だった自分たちは蜜を作り出す花。そして、その中でも千鶴は濃厚な蜜の香りを放つ大輪の花。蝶は一生飽きる事のないその花の上で羽を休める事にしたのだろう。


「今頃西の里で千鶴さまは何をされているのでしょうね?」


 と、女主が問い掛けると、風間がシレッとした表情で答えてくる。


「今頃は一日中寝ているだろうな」
「何故、そう思われるのです?」
「毎晩のように抱いているから、寝不足なのだ」
「ああ、成る程。そういう事ですか」
「どこでも寝れるのだが、何も被らずに寝てはいないだろうか……」


 恥ずかしい事でも嘘を吐かずに話す風間だが、愛する千鶴を大切に思っている表情を浮かばせている。


「風間、そろそろ時間です」


 天霧に声を掛けられた風間がゆったりとした動作で立ち上がる。


「今宵もお泊りになって、明日ご出立ですか?」


 女主が尋ねると、風間はすぐさま首を横に振った。


「会合が終わればすぐに西の里へ戻る。愛しい妻が待っているからな」


 風間をこのような男にさせるのは千鶴が最初で最後の一人だろう。



 見た事のない風間の美しい笑顔に、女主は暫し見惚れていた――。


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