東海道-品川宿→川崎宿
今朝の品川宿を出る前の口喧嘩は、珍しく風間が折れた為に収まりを見せた。
「つまり、お遊び相手の女の方だったと風間さんは言うんですね?」
「ああ、そうだ」
「お遊びって身体の関係って事ですか?」
「それ以外の何がある? まさか、純粋な関係の遊び相手だったとでもお前は言いたいのか?」
風間が少しだけ逆切れしたような言い方をした瞬間、千鶴がいきなり顔を俯かせて黙り込み、それに気付いた風間が顔を覗き込んだ。
「何だ。別に泣く事でもあるまい」
「泣いてなんかいませんよ……」
千鶴にしてはかなり低めの声が地に向かって吐き出された。
「私が妻になった後は、絶対にしないで下さいね。もしそれをしたら……」
俯いていた顔を風間に勢いよく向ける。
「……離縁させて頂きますからっ!」
そして、着物の裾が捲れ上がるのも構わずに、大股で先を歩いて行く千鶴を、
「おい千鶴、離縁とはどういう事なのだ? 俺はそのような事は絶対にせんからな!」
と、風間が必死で追いかけて行った――。
ようやく仲直りをした二人が歩いていくと【六郷の渡し】と呼ばれる川を横断する船着場が見えて来た。そこは船で川崎宿の方へと渡る旅人で群がっている。
「すごい人ですね……。昔はあの川に橋が架かっていたって聞きましたけど」
「品川宿と神奈川宿の間が往復十里。この距離が長く伝馬の負担が重かった為に、今から行く川崎宿が設置されたのだが、農民の負担、そして問屋場が破産に追い込まれて窮地に追い込まれた。そのような中、問屋、名主、本陣の当主を一身に兼ねていた田中という男が幕府に働きかけを行い、この【六郷の渡し】の権益を川崎宿のものにしたのだ。しかし、度重なる水害で橋は駄目になったらしい。それで船渡しに変わったのだ。まあ、船賃が取れ、財政が楽になったとは聞いたから悪い話でもあるまいが、今でも川崎宿は赤字続きだと聞いている」
「そうなんですか」
風間の長く有難い、そして丁寧な説明に短い返事で終わらせる千鶴。
「お前は俺の言った事を理解しておるのか?」
と、聞いてみれば、
「ええ、していますよ」
あっさりとした返事をしてくる。それにしては反応が薄いと風間が感じていると、
「風間さんは、何でそんなに物知りなんですか?」
と、ようやく待ち構えていた質問が投げ掛けられた為、胸を反り返らせながら口を開いた。
「俺は鬼の頭領だ。これくらいの事を知っておかねばならんのは当たり前だろう。日の本の内情も知らんで多勢の鬼を纏めることなどできんからな。どこぞの無知な者と比べられても迷惑な話だ」
ふん! と鼻を鳴らしながら千鶴を見下ろし、自慢げに話し出す風間の言葉と動作が、己の無知を指摘されたような感じを受けた千鶴の目は開いたまま、瞬きをもできずにいた。
「どうせ私は無知ですよ! 色々と教えて下さって有難うございます。とーっても感謝していますわ!」
プーッと頬を膨らませながら嫌味を含んだ礼をする千鶴に、風間はククッと忍び笑いをする。
「無知なお前に喜ばしい事を教えてやろう。川崎宿では【万年屋】という店があってな。そこの【奈良茶飯】という食い物が有名だ。あの船を降りたら食ってみるか?」
その一言が千鶴の膨れていた顔が温和な顔に変化する。千鶴の機嫌を善くする為には、着飾った言葉よりも食い気の話をするのが一番手っ取り早い事も風間は承知の上だ。
「【奈良茶飯】ですかぁ。何か美味しそうですね。風間さん、早く行きましょう」
千鶴は、はしゃぎながら風間の手を強く握り締めると、急いで【六郷の渡し】の船着場へと足を速めて行った。
そこは川崎宿へ向かう旅人でごった返していたが、ようやく船に乗る事ができた二人。千鶴は船の上で【奈良茶飯】がどういうものなのかを風間に聞いてみると、
「元々は奈良の寺の坊主の食い物だったらしいが、それが江戸に伝わり、今から行く川崎宿にも伝来したらしい。江戸にも伝わっているはずなのだが、お前は食った事がないのか?」
「私は食べた事がないと思います。どのような食べ物なのでしょうか? 風間さんは食べた事がありますか?」
「あるが、俺はお前と酒があればいい」
「お、お酒は呑めますけど、私を食べる事は不可能です!だから、それが言いたいんじゃなくって。今は茶飯の話をしているんです。食べた事があるのなら美味しいか美味しくないか分かるでしょう?」
「お前を食うのは簡単だ」
「食べられません!」
「確かに、今はあの約束が邪魔をして食えんがな」
「か、風間さん! 【奈良茶漬け】の話をしましょう。【奈良茶漬け】」
風間の言葉を聞いた瞬間に何を脳裏に浮かべたのか、千鶴は真っ赤になりながら茶飯の話に戻そうとするが、風間はからかいの眼差しを向けたままその感想さえも述べてくれない。
「教えて下さいよ……もう、風間さんは意地悪です」
風間は、千鶴が掌をぱたぱたと己の顔に振りながら顔の火照りを冷まそうとしている姿を面白そうに見つめながら、
「未だ食してもいないお前に美味かったやら不味かったと言っても仕方のない事だろう。それは俺の感じた事になるからな。先入観を持って食すると、己の本当に感じたものが分からなくなる。従ってあの茶飯の感想は言わん」
「ああ、そうかもしれない」
確かに食する前から美味しいと言われれば、実際に食してみて美味しいと感じてしまうかもしれないし、不味いと言われれば不味いと感じてしまうだろう。風間はまず自分の舌で味わい、美味しいか否かを判断しろと言っているのだ。
「風間さん。もし、とっても美味しかったらお代わりしても構いません?」
蝦夷へ千鶴と共に旅をして来た風間は千鶴が欲張るような女ではないとは分かっていたが、食に関してはそうではないらしく、豪奢なものよりもこのようなささやかなものが千鶴の喜ぶものだったのだと新しい発見をしたような気持ちになっていた。
「一杯十三文だから、食えるだけ食っておけばいい。西に行くとここにもなかなか来る事はできんからな」
「本当ですか? 嬉しいです! ああ、早く食べたいなぁ」
【奈良茶漬け】に想いを馳せる千鶴の笑みの花が満開になろうとした時、
「しかし……」
と、風間の一声で七分咲き程で止まってしまう。それでももうすぐ食べられる事への期待から、千鶴がウキウキ気分で風間の方にその笑みを向けた。
「何ですか?」
「食い気も程々にするのだぞ。食べ過ぎた後でどうなっても知らんぞ」
風間の手が千鶴に差し伸べられる。千鶴は満面の笑みを浮かばせ続けたまま、風間に再度問い掛けた。
「その手は何ですか?」
「全く、食い物ばかりが頭の中を占領して呆けてしまったか。川崎宿の船着き場に着いたぞ」
「えっ、あれ、本当だ!」
千鶴が周りを渡すと、川崎宿に入る船着場に既に到着していた事にようやく気付いた。自分たちが乗っていた船は既に動きを止めており、川を往復するのに忙しい船頭が風間と千鶴を睨み付けている。その船頭に頭を何度も下げた千鶴は、自分の手を風間のそれに乗せた。
「いいか、絶対に食い過ぎるな。俺の命令を聞かなければ今夜も仕置きが必要になるぞ」
風間は千鶴の手を取って船の上から降ろす時に、身体を引き寄せ耳元で囁いた。
「だ、大丈夫です。ちゃんと気を付けますから仕置きは必要ないです」
風間の囁く声が吐息と共に内耳に流れた為に再び顔を真っ赤にさせた千鶴は、風間に手を引かれながらぽてぽてと歩いて行った。
【奈良茶飯】で有名な【万年屋】に着いた二人は、早速それを注文した。暫く経ってから千鶴は目の前に出てきたものに蜜色の瞳を輝かせた。
「うわぁ……美味しそう!」
ふんわりとした湯気と共に出てきたのは茶飯と蜆汁だった。奈良から伝来したからだろうか、奈良漬も小皿にチョコンと乗っている。
「以前は茶粥だったらしいが、こちらに移ってから徐々に茶飯になったらしいぞ」
「へええぇっ! そうなんですか」
風間お得意の説明に千鶴が感心したように頷くが、それを気に入らなかった風間が口元を歪ませながら、
「俺の話を聞いているのか?」
と問い掛けてみると、千鶴がじっとりとした視線をこちらに向けているのに気がついた。
「どうしたのだ?」
「あの、説明はもういいんで、食べてもいいですか?」
早く食べたくて仕方がないようだ。風間は苦笑を洩らしながら頷くと、千鶴は目の前の箸にゆっくりと手を伸ばし、茶飯の椀を片手に持ちながらその箸で茶飯を掬うよ、口の中にパクリと放り込んだ。まだ熱々だった為、千鶴は口をハフハフとさせながらゆっくりと味わっている。そんな千鶴を目を細めながら見つめていた風間が、
「美味いか?」
と聞けば、千鶴は口をモグモグさせながら大きい蜜色の瞳をトロリと蕩けるような優しい色に輝かせた。
「おいひぃ〜でふ(おいしいです)!」
まるで、今まで何も食べさせてもらっていない子供のように無心に食べ続ける千鶴を見ていた風間は、先程ののんびりとした気持ちではなく、少し驚いたような表情になっていた。何故ならば――
「千鶴……そろそろ代わりをするのを止めろ。周りの者たちの笑い者になっているぞ」
風間の言葉に口の中に【奈良茶漬け】を詰め込んでいる千鶴が顔を上げる。
「えっ、何でですか? あっ、風間さんのそれ、食べないんなら私が食べてあげますよ」
「べ、別に構わんが……」
「じゃあ、遠慮なくいただきます!」
そう言った千鶴は、風間の分に手を伸ばそうとした瞬間、目の前にあった椀を見て呆然としてしまった。
「わ、私……こんなにも食べちゃったんですか?」
その言葉を発した瞬間、周りの旅人たちの間で大爆笑が起こった。千鶴は茶飯を九杯も食べていたのだ。そして、なかなか食べようとはしない風間の分まで手を伸ばしかけているのを合わせると十杯になる。
「嬢ちゃん、なかなかの食いっぷりだねぇ。目の前の旦さんまで驚いているじゃないか」
【万年屋】の主人にまでからかわれた千鶴は恥ずかしくて顔も上げられなかったが、どうしても十杯目の茶飯も腹の中に入れたかったのか、更に大爆笑が起こる中、俯いたままで風間の分も静かに平らげてしまった。
「また来ておくれね。楽しい時間だったよ!」
【万年屋】の主人は千鶴の食いっぷりが気に入ったのか、バンバンと背中を叩いた後、途中でまた食べなさいと茶飯を重箱の中にまで詰めて持たせてくれた。隣りの風間は呆れ果てているし、千鶴の腹は蛙が喉を膨らませたみたいになっているしで、千鶴の気分は茶飯を食べる前とは打って変わってかなり落ち込んでいた。
「それだけ食ったのなら腹ごなしに神奈川宿まで一気に行くぞ」
「えええぇぇ! 歩ける自信がありません」
「何故だ?」
「だってお腹が苦しいから……」
「それは食い過ぎたからだろう」
「やっぱり、食べ過ぎたんですよねぇ……」
千鶴ががっくりと肩を落とすと、風間が緋色の瞳を大きく開かせて尋ねてきた。
「お前は十杯も食べて、食べ過ぎたと思っていなかったのか?」
「いえ、思ってましたけど、食べられない量ではないかな、と。でも今、風間さんのおっしゃった事に納得ができました」
「ほう、それは何だ?」
「やっぱり食べ過ぎたんだなって」
そこで風間の脳内血管の一部がプチンと音を立てて切れた。
「当たり前だ。茶飯を十杯も食べる馬鹿がいるか。その上に土産まで貰いおって……お前の今日の夕飯はそれに決まりだな。大事に持っておけよ。でないと夕食がなくなるぞ」
さすがに十杯もの【奈良茶漬け】を食べてしまった千鶴の口は、その味に飽きてしまっている。
「風間さんの意地悪……私、他の料理が食べたいのに……」
と、ぶつくさ文句を垂れながら、重い身体を引き摺るようにして歩いていると、怒りを露わにした風間が千鶴の方に振り向いた。
「煩い、黙ってさっさと歩け。色気も何もないその醜く出っ張った腹を何とかしろ」
千鶴は、風間に悪態を吐かれながらぼてぼてと後ろをついて行き、途中で川崎稲荷社や、閻魔寺で有名な一行寺で旅のお参りをしながら、次の宿場である神奈川宿へと歩みを進めて行った。
その途中の寺や神社をお参りした二人の話を少しだけ披露すると――
閻魔寺で閻魔の像を見た風間がボソッと呟いた。
「お前が怒るとあの閻魔みたいだな」
風間の呟きを聞き逃さなかった千鶴が目尻を吊り上げた。
「私はあんな怖い顔なんかしてませんし、そのような失礼な事は言わないで下さい。それに、私より風間さんこそ閻魔さまみたいな性格してると思うんですけど」
「何を言い出すかと思えば、お前は何と失礼な事を言うのだ。俺は見た目の通り、温厚な男だ」
「温厚な男? 笑っちゃいますね。ゲップ……」
千鶴の口から大きなおくびが出ると、隣りを歩いていた風間が顔を歪ませて一人、先を歩き始めた。
「ついて来られぬのなら置いて行くぞ。さっさと歩け」
「これってかなり拷問ですよ。やっぱり風間さんて閻魔さまが乗り移っているんです」
「煩い、俺は温厚な男だと言ったろう。それにお前のでかい腹もおくびも自業自得だ」
風間が説教をしながら歩みを止めて振り向くと、かなり遠くの方で屈み込んでいる千鶴の姿があり、情けない――と溜め息を吐く。
「ああ、駄目……もう歩けない……」
「そこにしゃがみ込むな。さっさと立って歩け」
「嫌です……」
「では、そこで野宿でもしろ」
「それも嫌です!」
「それならば、さっさと立て!」
「いやあぁっ!」
と、こんなふうに神奈川宿に向かって行った。
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