東海道-川崎宿→神奈川宿
千鶴の身体の重さが歩みが遅らせてしまって時間は掛かったが、何とか神奈川宿まで辿り着いた。その頃になると、千鶴の出っ張っていたお腹もいつも通りの位置に戻り、いつもの軽い足取りを見せながら歩いていた。
先程まで言い合いをしていた二人ではあったが、今ではそのような事がなかったかのように仲良く並んで歩いている。
「さっきはとても苦しかったですけど、何とか消化できたみたいです」
身体が軽くなった千鶴の足は、川崎宿を出る頃のぼてぼて歩きであったのが今ではぴょんぴょんと兎が跳ねているような歩みをしている。
「今日はここ……えっと、神奈川宿で泊まるんですか?」
千鶴の問い掛けに、ようやく機嫌を直した風間が頷いた。
「ああ、そうだ。次の保土ヶ谷宿まで歩こうかと思ったのだが、お前のせいで予定が狂った。従って今日はここまでだ。鬼の忍びの者が【田中家】の茶屋を用意してくれているそうだ。そこで泊まる事になる。それにここら辺りは過去に将軍上洛や鹿狩りの際に利用する宿泊施設もあり、景勝地としても有名だから、その茶屋に行くまでに景色でもゆっくりと見て回るとするか」
そう言って千鶴の方を見てみると、風間の話を聞きもせずに何かに視線が止まっている。何を見ているのかが気になった風間が千鶴の視線の方に目を向けてみると、煎餅らしき食べ物を売っている店があり、それを見つめている千鶴の喉がごくりと音を鳴らしていた。
「あれが食いたいのか?」
川崎宿でもあれ程食ったのにまだ食う気なのかと呆れ返りながらも、一応千鶴に聞いてみると、
「た、食べてもいいんですか?」
「お、おい、待てっ! 本当に食う気なのか?」
「食べるに決まってるじゃないですか!」
腹を空かせた仔犬のように蜜色の瞳を輝かせ、髪を振り乱しながらその店に向かって走り出す千鶴の後を溜息を吐きながら足早に追う風間の顔は完全に疲れ切っていた。今日の風間の脳裏には、千鶴の口に何かしら食べ物が入っているという印象しかない。そんな千鶴を見続けていた風間は、それだけで腹が一杯になってしまい、今も腹が減っているという感覚が全く起こらない。
店の前で立ち止まった千鶴がその煎餅を売っている主人に食べる枚数を頼んでいる。そしてその煎餅の名前を聞いているようだ。店の主人はその煎餅を【亀甲せんべい】と、千鶴に伝えていた。
店の主人から煎餅を受け取った千鶴が風間の元へ駆け寄って来る。
「何枚買ったのだ?」
今日の千鶴は幾ら何でも食べ過ぎの気があった為、風間が不安げに煎餅の枚数を確認する。
「えっと、六枚です。ほら、こんなに小さいから大丈夫ですよ。風間さんも一緒に食べましょうね」
「い、いや、俺はいらん。お前が食べられるのなら食べてもいいが、ほどほどにしろよ」
「分かってますって」
千鶴は風間に自信ありげな笑みを返すと、その店の主人が出してくれた茶と共に【亀甲せんべい】をばりばりと食べだした。
「甘くて美味しいですよ!」
六枚全てを食べ切り、お茶も三杯ほどお代わりをしてご馳走さまをする千鶴に、風間の緋色の瞳は完全に引き色を映し出している。
「千鶴、今晩の夕食は魚料理らしいが、まだ食えるのか?」
しかし、風間はこれを話すべきではなかったと後悔してしまった。風間の目の前の仔犬は完璧に瞳を潤ませ感動していたからだ。
「今晩の夕食は魚料理なんですか? 確かにここは海も近いし、新鮮な魚が沢山捕れますものね。楽しみです!」
夕食の内容を聞いて喜ぶ千鶴が興奮覚めやらぬ雰囲気の中、風間は溜め息を吐きながらいきなり千鶴の腹を触ってきた。それも今いる場所は外であり、人の目も気になる。千鶴は素早く風間から距離を取った。
「な、何、いきなりお腹を触ってるんですか?」
「下腹がかなり固いな……」
いきなりの接触に驚き慌てる千鶴に対し、風間は落ち着きながら意味深な言葉を呟くと、待ち合わせをしていたのか、景勝地と呼ばれる神奈川宿で一番見晴らしの良い場所で鬼の仲間が待っていた。
「あの、今日も会合があるんですか?」
「いや、少し頼み事をしていたのだ」
風間はここ辺りの景色でも見ておけと千鶴に言い放つと、その鬼の仲間の所へ行き、何やら話し込み始めた。
その間の千鶴は美しい景色を見ながら海の向こう側を眺めていた。新選組にいた原田が海の向こうの外の国に渡ったらしいという噂を江戸にいた頃に小耳に挟んだ事がある。外の国のどこかは分からないが原田は生きている――それだけでも千鶴にとっては喜ばしい事であった。
暫く水平線をぼんやりと見つめていると、いつの間にか風間が千鶴の背後に立っていた。
「何を見ているのだ?」
風間の問い掛けに千鶴は静かな声音で答えた。
「江戸にいた頃に原田さんが海の向こうに渡ったらしいって聞いたんです。仲間が一人でも生きていたら嬉しいですよね」
新選組の仲間の一人の事を考えていて、俺が背後に来たのも気付かぬとは――
風間はかなり前から千鶴の背後にいたのだが、全く気付かない為に声をかけたのである。
風間に声をかけられた後も、あの頃の新選組の仲間たちを思い出しているらしく、懐かしさを漂わせた瞳が遠い彼方から逸れる事はなかった。一瞬だけ嫉妬を感じた風間ではあったが、千鶴の水平線を見つめている瞳には過去に対する苦痛な記憶ではなく、過去にあった良き思い出になろうとしているようで、自然とその感情は消え去っていた。
「日も暮れる。そろそろ行くか」
「はい。冷え込んできていますし、早く行きましょう」
確かに冷え込んできている――風間は寒さで冷えきっている千鶴の肩に自分の腕を回し、闇を連れて現れた冷え込みから守るように今夜宿泊する『田中家』へと歩みを速めて行った――。
風間と千鶴が『田中家』に到着し、部屋に案内された途端に千鶴の感嘆の溜め息が吐き出された。
目の前には海の幸の料理がズラリと腰を下ろしている。千鶴はそれらの前にチョコンと座ると、早く食べたそうに見つめていた。
千鶴の隣に用意されている座布団の上に腰を下ろした風間が口を開く。
「さて、食うか」
風間のその一言で、旅の中でも千鶴が一番楽しみにしている夕食が始まった。
宿に到着してから、風間の腹もようやく何か食べ物を欲し出しているようで、料理を摘まみながら、好物である酒を呑み始める。
「美味しいですね。今日一日、私は幸せを感じてます!」
「ほう、それは良かったな。ところで、身体の方に異変はないか?」
「えっ、異変ってどういう事ですか?」
「いや、変化がないのならばいい。しかし、今度こそ本当に食べ過ぎるなよ」
「大丈夫です。限度くらい弁(わきま)えていますよ」
「どうだか……」
千鶴がはしゃぎながら風間に答え、風間はそんな千鶴を見つめながら呆れた溜め息を吐いた。
そして二人は夕食も食べ終わると、この宿の女将にお風呂を勧められて各々風呂へと向かって行った。
長湯をした風間が先に部屋に戻り、布団の上でのんびりしながら寝酒を呑んでいると、ばたばたとこちらに急いで向かって来る足音が聞こえた。その足音は風間たちの部屋の前で止まり、襖の向こうから女将の慌てた声が聞こえてきた。
「旦那様、お連れ様が風呂でご気分が悪くなられたようで……」
「やはりな……」
風間は夕食後の時と同じく呆れ果てた溜め息を吐くと同時に襖を開け、女将に詳しい話を聞き出すと、風呂に入ろうとした千鶴が急に腹痛を訴え出したと伝えてきた。女将の後ろから、真っ青な顔色をした千鶴がこの宿で働いている仲居に支えられながら、ふらついた足取りでこちらに向かって歩いて来た。
風間の前まで歩いて来た千鶴が目の前の逞しい胸に倒れ込む。その身体を抱き上げた風間に、
「お医者さまをお呼びしましょうか?」
心配する女将が声をかけると、風間は首を横に振り、
「大丈夫だ。薬は用意してある。世話をかけたな」
と、礼を述べた後に女将たちを下がらせた。
風間が部屋に入り、抱いていた千鶴を布団の上に静かに横たわらせる。そして、この宿に来る前に待ち合わせをしていた仲間から受け取った薬の包みを取り出すと、布団の上で横たわりながら呻いている千鶴の上体を起こしながら声をかけた。
「千鶴この薬を飲め。ここに来る前に仲間に頼んでいたのだ。これは腹痛によく効く」
風間の言葉に千鶴が首を左右に振る。
「い……嫌……です……」
「飲まんと治らんぞ。明日の早朝にはここを発つ。さっさと飲まんとそれまでに間に合わんぞ」
それでも千鶴は首を左右に激しく振り続ける。
「わ……私……自力で治しますから。一日寝たら治りますから……」
千鶴の強情さに、今日一日で数えきれない程に呆れ果てた風間の顔には怒りも加わり、千鶴を自分の方に抱き寄せて無理矢理飲ませようとした。しかし、千鶴の口は真一門に閉じられてなかなか開こうとはしない。
「こら、飲まんか! 顔色もが先程よりも更に悪くなっているぞ。苦しいのならば早く薬を飲んで楽になった方がいいではないか。何故に拒む?」
「嫌だから飲みたくないって言っているでしょ! 私は、私は薬が大っ嫌いなんです!」
「な、何だと……?」
千鶴の言葉に唖然とする風間の顔は信じられないと言っているようだ。
「お前は医者の娘で、この前まで医者の真似事などをしていたというのに、薬が嫌いだと言うのか?」
千鶴は青ざめた顔に痛みもかなり酷いのか、脂汗まで掻きながらも頭を必死に縦に振っていた。
何と情けない事を言う女だろう。二十歳も過ぎた大人が薬が嫌いで飲まないとは、何と子供染みた言葉を放つのだろう。しかし、この様子では寝ただけで治りそうにもない。
風間の持っている薬は腹の中の消化を促すもので、飲めば腹の中に詰まったものが外に出やすくする効能がある。
あれほど食べ過ぎるなと注意を促したのに、千鶴は食べ過ぎによる消化不良を起こしていたのだ。
今朝からの怒りの鬱憤によって風間の仕草も荒々しいものとなる。
「いい加減にしろ! 幼子でもこのような薬を飲むと言うのに、お前は恥ずかしくないのか! 早く口を開けろ!」
「嫌いなものは嫌いなんです! 嫌なものは嫌なんです!」
腹痛に耐えながら、薬から必死に逃れようとする千鶴をがっちりと掴んで離さない風間との格闘が繰り広げられる。しかし、体調不良の千鶴はすぐにばててしまって身体に力が入らなくなった時、目の前の風間が手に持っていた薬を水を含んだ自分の口の中に放り込み、千鶴の口を塞ぎ始めた。
「んんんんん……んんっ! んっ!」
長い口付けの為に苦しくなった千鶴の唇がやっと開き、その中に風間の口内で待機していた水と薬が一気に流れ込んでいく。
こくり――と、千鶴の喉元が震え、水と薬がその個所を通過したのを風間が確認をする。
「に、苦いぃ!」
「やっと飲んだか……良薬口に苦しと言うだろう。俺の忠告も聞かずにたらふく食べるからだ。自業自得とはこういう場合の事をいうのだぞ」
風間の腕の中で、先程の腹痛と格闘で疲れ果てた千鶴はぐったりとしながらも、少しは薬が効いてきたのか、ほんの少しだけだが顔色がマシになってきているような気がする。千鶴の口から苦しそうな呻き声も消えて大人しくなったのを見計らった風間がねちねちとした言葉を囁いてきた。
「何度も言わせてもらうが、俺が執拗に程々にしろと言ったのを聞いていなかったのか? 見境なく目の前にあるもの全てを平らげるとは……。俺が仲間から薬を調達していなかったらどうなっていたと思うのだ?」
千鶴の下腹を触った時に異様な動きを感じた風間は、天霧への文を渡した仲間が千鶴に飲ませた薬を持っていた為、それを貰い受けていたのだ。
「さすがは風間さんですね。参りました」
千鶴は疲れ果てた顔で降参宣言をすると、そのまま目を閉じていってしまった。
「全く、以前から無茶な行動をする奴だったが、食にまでこのように無茶振りを発揮するとは思わなんだ。それに、俺の命令を聞かなかったというのに、仕置きもできんではないか……」
静かな寝息を立てだした千鶴を恨みがましく見つめていた風間がそっと布団に寝かそうとする。
「ん……?」
妙な違和感を覚え、その感がする方に視線を向けて見ると、千鶴の手が風間の寝間着をしっかりと握っていた。それを離そうと試みたのだがなかなかその手を解くことができない。
風間は枕元にある酒の入った銚子を見つめた。
「寝酒がそこにあるのに呑めんとは……。仕方あるまい、今宵は俺も寝るとするか。違う意味で疲れたような気がするからな」
風間は、小さな溜め息と欠伸を一つずつ吐き出し、千鶴を抱いたまま横たわると、胸の中に納まっている小さな身体を労わるように抱きしめながら眠りに就いた。
そして、この日を境に風間と千鶴の約束事の中にもう一つの約束事が追加されたが、千鶴がまたまた自分だけに約束事を科すのは狡いと抗議をした為、風間にも約束事を科し、約束の言葉が紙に書かれた。
「お前に迷惑をかけていない俺に、何故に約束事が二つも科せられるのだ?」
「私だって迷惑をかけられています!」
「俺が何をした?」
風間の問い掛けに千鶴が頬を膨らませて叫んだ。
「酒と女に決まっているじゃないですか!」
そして紙の上に書かれた文字を見て、千鶴は満足げな笑みを浮かべ、風間は何とも腑に落ちない表情を浮かべていた。
そこには――
暴飲暴食、女遊びは禁止とする――と記されてあった。
勿論暴飲と女遊びは風間、暴食は千鶴に科せられたものである。
そして朝食を終えた千鶴が四角い箱を持って風間に尋ねてきた。
「風間さん……」
「何だ?」
「朝ご飯が少し足りなかったので、これを食べていいですか?」
風間が見たものとは、川崎宿の【万年屋】で土産に貰った【奈良茶飯】。
風間が千鶴をジットリとした視線で見つめると、
「ははっ、やっぱり駄目ですよねぇ……」
と言いながらも、食べる機会をどこかで掴もうとしている様子がありありと見て取れた。
「これは俺の手によって捨ててやる」
「そんなぁ、捨てるなんて勿体ない!」
「阿呆! 今度は食い過ぎではなく、腐ったものを食べて腹を壊すぞ!」
そしてその食べ物は残念ながら手を付けられる事なく、風間の宣言通り、風間の手によって処分されたのであった――。
- 26 -
*前次#
ページ: