八瀬姫始動開始-sidestory-
天霧からの手紙を読み終えた千姫が難しい表情を浮かばせた。
西国の鬼である風間が江戸にいる千鶴を迎えに行ったという内容と、もう一つ厄介な知らせを受けたのである。その文を君菊に手渡した千姫が怒りの溜め息を吐き出した。
「気に食わないわね……」
「姫さま、言葉使いにはご注意なさいませ。気に食わないではなく気に入らないでございますよ。ところで、何がお気に召さないのですか?」
文の中の天霧の文字を見つめながら、君菊が柔らかい笑みを浮かべる。天霧と君菊はどうやら両想いらしいと感じたのはあの日からである。そして、風間が江戸に向かう数か月前に、いきなりこの八瀬の里に姿を現した時の事を千姫は思い出した。何しに来たのかと問うと、今目の前で天霧からの文に目を通している君菊を天霧の嫁に欲しいと言い出したのだ。勿論、千姫も君菊の将来の事は案じていた上に、天霧ならば大切にしてくれると確信していた為、それについては悪い話ではないと考えていた。が――その後の風間の言い方に腹を立てたのだ。
天霧は風間家の家老の務めをしている為、君菊を西の里に嫁入りさせろという事であった。しかし、幼い頃から共に過ごしてきた君菊を手放すつもりもなかった千姫はそれを拒んだ。すると、風間が千姫に対して失礼な物言いをしてきたのであった。
「もう! あの時の事を思い出すだけでも腹が立つ!」
千姫の苛立ちの理由が天霧の文の中にある二つ目に対してではない事に気付いた君菊が、顔を顰めながら言葉を投げ掛けてきた。
「姫さま、今のお怒りは前者の方ですか、それとも後者の方?」
「前者に決まっているでしょ! 私の大切なお友達の千鶴ちゃんを奪った憎い男でもあるのよ。千鶴ちゃんったら、風間なんかの妻になるだなんて、絶対に無理矢理そうさせられたんだわ!」
「姫さま……」
「千鶴ちゃんは私のものよぉ!」
「姫さま、いい加減になさいませ!」
「あっ……」
君菊は怒鳴って大人しくなった千姫に怒りを鎮めながら問い掛けた。
「後者の方についてですが、いかが致しましょう?」
君菊に怒鳴られてから頭がようやく冷えた千姫もいつも通り、落ち着いて返事をする。
「そうね……それについて一番詳しいのは南雲薫でしょう。彼に任せるしかないわ」
「しかし、土佐の南雲家の当主が協力をするでしょうか?」
「するわよ。だって彼は千鶴ちゃんの実兄でしょう? 聞くところによれば、妹である千鶴ちゃんの事を憎いくらいに可愛いと思っているらしいし、それに南雲家の一族が憎くて全滅させたのよ。その一族の一人が未だ生き残っていると知ったら絶対に始末するはずよ。それに……ああ、何でもないわ」
千姫は最後に何かを言い掛けようとしたが、頭を振りながらそれを止めると、その場から立ち上がり、格子の取り付けられている窓の方に歩んでいった。
遠い昔からこの八瀬の里を本拠地とする八瀬姫には夢見の力があると言われている。しかし、時代の流れと共にその力も薄れていた。だから、千姫の夢見は完全なるものではない。薄らぼんやりとしか見る事のできないそれは、千姫自身が役に立たないものだとも思っていた。
「天霧の文によると、その女は南雲薫に協力をした男たちに褒美として与えられたそうですが、その男たち全員、山の中で息絶えていたと……千姫、千姫? 聞いておられますか?」
君菊に名を呼ばれて我に返った千姫が振り返る。
「何か言った……?」
「もう……何をぼんやりとされているのですか」
「ごめん、ごめん! で、これをどうするかって事で、一度この八瀬の里に南雲薫を呼びましょう」
「えっ、呼ぶのですか? 書面で伝えればいいでしょう」
「こういう事はちゃんと口で伝えなきゃ駄目よ。それに相手側がこの話を聞いてどのような反応を示すかも確認しなきゃ!」
千姫の言っている事は尤もなところもあるのかもしれないが、何となくだが怪しいと感じていた君菊。しかし、君菊も大人の女である。ここは知らぬ振りをして千姫の様子や行動を見張らなければならないと考えた。
「そうですね。書面だけではもしかすると行動に移さないかもしれませんし、一度会ってみてもいいのかもしれないですね」
「でしょ? ああ、楽しみ!」
千姫の最後の言葉を聞き逃さなかった君菊が両の瞳を細めた。
「何が、楽しみなんですか?」
「えっ、ひ、独り言よ。気にしないで」
風間が最後にこの八瀬の里を訪れてからかなりに月日が経つが、その時に天霧から南雲薫の話を聞いていた君菊は、内心、ははぁん――と納得をする。
南雲薫は雪村千鶴と双子であり、見間違えそうな程よく似ているとの内容であった。
南雲薫がどのような男であれ、生まれはあの雪村家である。血筋的には何ら問題はない。千鶴を溺愛する者同士、もしかすると意気投合をしてそのまま――。
ああ、ようやく千姫のお守りから解放される日が来るのかもしれないと、君菊は胸を高鳴らせながらも、表面上は落ち着いた女性を演じ続ける。
「あの薬は全て処分をしたはずなのですが、一体誰が持っていたのでしょう?」
「さあね……でも、網道はあれを自分以外には決して触らせずに厳重に保管していたと聞いているわ。新選組の方のものも、既にこの世を去った山南が全て処分したと言っているし……あれを新選組の仲間以外に使わないと思うの」
「そうですね……あれは極秘に進められていた研究ですからね。あれがもし、敵方に知れたとしたら大変な事になりますもの」
「でも、網道は幕府を裏切って攘夷派の方についたけどね。まっ、でもそれが功を成したと言うか……風間の手によって網道は制裁されて、その後に天霧によってあれも処分されたはずだから……」
千姫と君菊が目を合わせる。
鳥羽・伏見の戦後から江戸で風間に制裁されるまでの間、網道の行方が不明な時期があったのだ。
あの男には雪村家を再興させる野望があった。
「網道は、京から西へは足を運ばせてはおりません」
「そう……って事は、京から東の方に住む者に与えられたのね」
「この文に書いてある女が東の方へ移動したかもしれません」
しかし、千姫は君菊のその言葉に否定の仕草を起こした。
「それはないと思うわ」
「ないとは……それは確かなのですか?」
「ん……おぼろげではあるんだけど、何でだろう? ないという自信があるの」
「直観……ですか?」
「そうね、そうかもしれない。でも、今まで夢見なんてなかったらいいのにって思ってたけど、こういう時には役に立つからいいかもって思うわ。でもね、おかしいのよ……風間と千鶴ちゃんが夫婦になるなんて夢見はしなかったのよね……何でかしら?」
千姫の最後の言葉に、君菊がため息交じりの言葉を吐き出した。
「恐らく、風間の夢の中にも千姫が現れる事はありませんよ……」
今までの夢見は薄らぼんやりだったのに、一つの夢だけははっきりと見えた。
千鶴に見紛うほどに似ている容姿。しかし、表情は今までの苦労を滲み出したように厳しい。そして、可愛らしい千鶴に対して、妖艶という言葉がよく似合っていた。
仕事の速い君菊は、既に書簡を佐渡へ送っているだろう。だから、南雲薫に会うのもそう遠くない話である。
「一度だけ挨拶には来たけど、中身はどんな男(ひと)なのかなぁ?」
風間と千鶴が夫婦になる腹立ちもすっかりと薄れた千姫は、何故ここに南雲薫を呼ぶのかという理由も忘れて、想像の中で耽るのであった――。
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