東海道-神奈川宿→程ヶ谷宿



 川崎宿と神奈川宿での食への暴走、そして食べ過ぎによる腹痛騒動後、千鶴の食に関しての態度は一変した。【腹八分目】と言うような言葉があるが、千鶴はそれを実行していて、風間も終始ご機嫌な様子ではあったが、その騒動からまだ一日も経っていない上に、これからの道中には千鶴を誘惑する食べ物が山ほど待ち迎えている。それを考えると、少し気の緩んでいた風間の気持ちは、キュウッと引き締めを起こしていた。


 神奈川宿は幕末に横浜開港をして、この宿場横にある浜辺には外国商人の居留地が作られ、貿易が盛んになり始めていた。


 宿場近くにある寺社から数人の異国人を目にした千鶴が首を傾げていると、


「寺社は外国領事館として利用されているらしい」


 と、風間から説明を受け、納得した表情を確認した風間は、程ケ谷宿に向かって千鶴の前をずんずんと歩いて行った――。


 風間と千鶴が歩いていると、右隣に並ぶ茶屋で旅人たちの威勢のいい会話が筒抜けである。


「程ケ谷宿と戸塚宿の間には【権太坂】という坂がある。そこを歩く前に少しだけ休憩をするとしよう」


 と風間が提案をして、二人は一軒の茶屋に入って行く。そこでも両側の宿から歩いて来ていた威勢のいい若者と、少し年老いた男が会話をしていた。


「あんた、どこから歩いて来たんだい?」
「俺か? 俺は江戸からこの程ヶ谷宿まで歩いて来たんだぜ。ところであんたは?」
「儂か? 儂は今日はここで足止めだ」
「何でだい?」
「いやぁ、あの権太坂のしんどい事! 足腰ががくがくしちまってね」
「ああ、あの坂は年寄りには辛いよなぁ。普通の旅人なら戸塚宿で泊まってからそのまま江戸まで歩くんだけどねぇ」
「普通はそうらしいなぁ。しかし、このまま江戸まで歩きゃ、命がなくなりそうだよ」
「はははっ! そうだな、その様子じゃ、今日はここで足止めした方が良さそうだ。それに【お泊りは、よい程ヶ谷と留め女、戸塚前ては(捕っかまえては)離さざりけり】なーんていう戯れ句もあるからな」


 このような話を団子に齧(かぶ)り付きながら聞いていた千鶴が風間をジトリと見上げる。


「捕まらないで下さいね」
「何に捕まると言うのだ?」
「今言ってたでしょ。【留め女】にですよ」
「ふっ、もてる男は辛い」
「風間さん……」


 目の前の男たちの楽しい会話に比べて、風間と千鶴の間で紡がれる会話はドロドロとしている。


 早くこの程ケ谷宿から脱け出したい千鶴は、残りの団子を口の中に放り込んだ後、さっさと茶屋から出て行ってしまった。その会話を聞いていた目の前の威勢のいい若者が苦笑をしながら風間に詫びてくる。


「変な話を聞かせちまってすまねえな。まあ、仲良く旅してくれよ」


 そうだ、お前たちが余計な会話をするから悪いのだ――風間はそう思いながらも、目の前の男たちに軽く手を上げて挨拶をすると、千鶴を追うように茶屋の外に出て行った。


「千鶴、待たんか」
「道が分からないんだから待ってますよ」


 品川宿の風間の女騒動から、【女】に関する言葉を小耳に挟むと千鶴はすぐに機嫌が悪くなる。それが嫉妬だと風間が教えると、嫉妬ではないと言い張ってくる。


「お前のその態度は誰から見ても明らかに嫉妬ではないか」
「嫉妬ではありません!」
「嫉妬だ」
「違います!」
「では、何だ?」
「……」


 風間の逆の問いにいきなり黙り込む千鶴の顔は真っ赤である。そして返ってきた言葉は、


「分かりません……」


 であった。その返事に風間が呆れたような溜め息を放つ。


「どういう症状が身体の中に起こるのか説明をしてみろ」
「どういう症状って……気分が悪くなったり、むかむかしたり……苛々したり……」
「だから、それが嫉妬なのだ」
「ち、違います。私は今まで嫉妬なんかした事がありません」
「ほう、江戸で共に暮らしていた時もそういう症状はなかったというのか?」
「そ、それは……」


 千鶴がいきなりモジモジと身体を揺らし始める。今の問いに心当たりがあるのだなと風間は思いながらも、


「ん……?」


 説明をするように、短い問い掛けを放った。すると、千鶴がモジモジを続けながら話し始める。


「ありました……でも、よく分からないので……」
「嫉妬という感情が分からないと言うのか?」
「いえ、嫉妬という感情自体は分かります。でも、異性に対してのそれはよく分からなくって……」


 未だモジモジとしている千鶴を見つめていた風間は抱き締めたい衝動に駆られたが、ここは旅人が行き交う道のど真ん中。グッとその衝動を堪えた。


 もう嫉妬の説明などどうでもいい。早く歩かなければ――風間は千鶴に背を向けて片手を後ろに差し伸べた。


「……行くぞ」
「は、はい……」


 千鶴がその手を軽く握ると、風間は自分の掌の上に乗ったその手をギュッと強く握った。


 暫く歩いて行くと、程ケ谷宿の本陣があった。江戸時代三百年を通して軽部家がこの宿場を受け持っており、今でもここでの権力は強い。


「豪華なお屋敷ですねぇ」


 と、千鶴がいくつくらい部屋があるんだろうとか、掃除が大変そうだとか呟いていると、


「ふん、このようなちっぽけな屋敷など俺のに比べれば大した事はない」


 などと言ってくる。


「風間さんのお屋敷も大きいんですか?」
「ああ、これよりももっと大きいな。それに豪華だ」
「何となく分かる気がします……」


 千鶴は風間の着物を上から下まで眺めながら答えていた――。


 そして、そこから少しだけ歩いた左手に樹源寺がある。


「ここは鎌倉時代末期までは、東方山医王寺という真言宗の巨刹(おおでら)であったらしい。しかし、火事になって一時期廃寺になったらしいが、この程ケ谷宿の軽部家の妻が開山させたそうだ」
 
 ここは薬師如来が祀られており、病気治癒に一番のご利益があるのだそうだ。


「薬師とはお前のような医者と同じだからな。ああ、薬が嫌いなお前なら、この薬師如来に願い出て病気を治してもらったらどうだ?」


 大の薬嫌いである事が風間にばれてしまった千鶴が顔を真っ赤にさせながら背ける。


「い、今は病気じゃありませんから結構です!」


 そして二人は、長くきついと言われている【権太坂】に向かって歩いて行った。


「ところで風間さん」
「何だ?」
「さっきの茶屋で目の前の男の人たちの会話を聞いて思ったんですけど、普通なら何宿も飛ばして旅をするんですよね? それなのに、私たちは一宿ずつ、それか長く歩いても二宿くらいです。どうしてですか?」


 その問いに、風間がシラッと答える。


「その理由はお前が鈍いからだ。それに神奈川宿は止まらずに通り過ぎるつもりだった。しかし、お前があのような事になっただろう? あのまま歩き続けていれば、寒い外の中で野宿をするところだった。俺の勘が見事に当たったのだからな、感謝しろ」
「うっ……」


 旅の最初から色々とあり、まだ江戸を出てから数日しか経っていないのにかなり長い旅を続けているような気がする。もうこの話は止めよう――千鶴は口元を引き攣らせながら笑みを作り上げた。


「きょ、今日はどこに泊まるんですか?」


 話を変えてきた千鶴に対し、風間は勝利の笑みを浮かべた。


「お前は俺には勝てまい」
「か、勝てます……女の人の事に関しては自信があります!」
「既に関係が終わった事についてうだうだと執拗に繰り返すのが女の性だな」
「な、何ですって?」
「女は過去の事をねちねちと記憶に残している。そして喧嘩などをする時にはいつもそれをほじくり返してくるのだ」


 全く、嫉妬の強いのも困りものだと言う風間に対して、千鶴が叫んだ。


「し、嫉妬じゃありませんからねっ!」






 程ヶ谷宿と戸塚宿のちょうど境目あたりに、先ほど風間が話していた【権太坂】という長くきつい坂が待ち受けていた。この坂の名の由来は、昔旅人が土地の老人に坂の名を聞いたところ、自分の名を聞かれたと思って権太と答えたからなのだそうだ。


 普通の旅人ならば日本橋から戸塚宿まで一気に旅をするのだそうだ。しかし風間は鬼の会合も理由にしているが、千鶴の体調をも考えながら少しずつ進むようにしていた。


 今回も、鬼の会合が戸塚宿であるらしい。


「こ、この坂……すっごくしんどいですね」


 ぜいぜいと息を切らしながら必死に坂を登る千鶴に対し、風間の足は一向に疲れを感じていないようだ。


「しっかりと歩けよ。でないと、戸塚まで辿り着かんぞ」


 と言いながら風間の歩みは快調で、千鶴との距離が徐々に広がる。しかし、少し歩いては立ち止まって千鶴が自分の傍まで歩いて来るのを待ってくれている風間のさり気ない優しさに、口には出さないものの心の中で感じていた。しかし、何かおかしいと感じ始めたのは、【権太坂】の途中まで歩いていた時であった。


 坂を上り切った所で牡丹餅屋がある。千鶴の足は自然と止まり、その店で売られている牡丹餅を食い入るように見つめていると、風間が先を急がせるような言葉を背後から放ってきた。


「千鶴、早く歩け。でないと戸塚宿に辿り着かん。それに会合に遅れてしまうではないか」


 品川宿の時には会合が面倒臭いと言っていた風間が、今回の会合には異様に積極的な態度を示している。


 千鶴はその牡丹餅を名残惜しそうに見つめながらも、先を歩いて行く風間の背を追い掛けた。そして風間に追いついた時に問い掛けてみた。


「風間さん、何か浮き足立っていません? 戸塚宿の会合には何かあるんですか?」
「会合の他……特に何もない」
「そうですか……」


 怪しいと思いつつも長い道が真っ直ぐに続く中、千鶴は問い掛ける気力も徐々になくなり、最後にはだんまりのまま、風間の後ろをついて歩いていった。


 少し先を歩いていると【境木地蔵尊】がある。この地蔵はお金の集まる縁起の良い地蔵だそうで、他にも様々な言い伝えがあり東海道の名物ともなっていて、その近辺では多くの茶屋が軒を並べている。そこで休憩をしたいと風間に伝えた千鶴ではあったが、即座に却下されてしまった。




 戸塚宿に着いた時、千鶴の足は棒のようになってしまっていてこれ以上歩くのは無理だと言わんばかりになっていた。今夜泊まる宿の中に入り、風間がいきなり千鶴を抱き上げてきた。


「よく歩いたな。今日はここまでだ、それと……」


 二人の姿を見掛けた宿泊客が囃し立ててきて、風間は一向に気にはしていないようだが、かなり恥ずかしいと感じた千鶴が宿泊客の視線から逃れるように顔を背けた。


「それと、何ですか?」


 宿の女将に案内をされた部屋に入った風間が千鶴の耳元で囁く。


「先程も言っておいたが今宵も会合があるからな。宿で大人しくしておいてくれ」


 ここで【権太坂】での風間の態度に異変を感じていた事を思い出す。それに、日本中に鬼の一族は散らばっているとはいっても、こんなに頻繁に会合などあるのだろうか? それに、会合があるという事を一度聞けば分かる事なのに、今回は何故か何回も伝えてくる。しかし、品川宿で怖い思いをした千鶴は宿の外に出るつもりはなかった為、風間の態度に怪しいと感じながらも素直な返事を伝えた。


「分かりました。今日はかなり疲れているので先に休んでいます。気を付けて行って来てくださいね」
「分かっている……」


 千鶴は心の中のざわめきを押さえつつ普段通りの声音で返事をしていたが、何故か一つだけ聞いておかなければならないと思った事があった。


「ところで……」
「何だ?」
「今夜の会合はどこでするんですか? この前のようになっては嫌なので、一応教えて下さいませんか?」
「この前の事だと?」
「はい、品川宿では風間さんがどこにいるのかが分からなかったので……。今夜は出るつもりはありませんが、もしかしての時に……」


 風間からの返事がない。千鶴は益々怪しいと感じながらも笑顔を取り繕った。


「その場所の名前を教えて下さるだけでいいんです。名前が分かっていても場所は分かりませんし。それともその場所の名を言ってはいけない事になっているんですか?」
「いや、そのような事はない」


 風間は千鶴のいきなりの言葉にギクリとしながらも、渋々とその料亭の名前を言ってくれた。


「丁字屋だ………」


「丁子屋ですね。有難うございます」


 やはりおかしいと、千鶴は両目を細めながら風間の様子を垣間見る。いつもの風間ならば千鶴の瞳の奥を食い入るように見つめながら話をする。


 風間の緋色の両の瞳が千鶴の胸を高鳴らせ、頬を朱に染めさせ、そして全身を熱くさせる。それなのに今はずっと千鶴の視線を避けながら話をしている。


 やっぱり何か怪しい――



 女には男の怪しい行動に対して鋭い直感が働く場合が多いが、今まさに千鶴がそれで、蜜色の瞳が鈍い光を風間に向けて放っていた。そんな千鶴の疑いの視線を浴びながら、風間はゆっくりと――ゆっくりと目の前にある茶を啜っていた――。


- 29 -

*前次#


ページ: