東海道-程ヶ谷宿→戸塚宿
夕刻になり、風間は再びその【丁字屋】という料亭で仲間たちと夕食ついでの会合をするからと言って出て行ってしまった。その為、千鶴は一人でゆっくりと夕食を頂戴していた。
「あら、旦那さまはお出掛けですか?」
夕食の用意は風間の分までしてくれていたようだ。そこの宿の女将は、あらあらどうしましょう――と言いながら風間の分を下げようとしたが、あの【権太坂】で体力を使い果たしていた千鶴はかなり腹が減っていた為、風間の分も頂くと女将に伝えると、喜んでそれを目の前に置いて下がって行った。そしてその後の千鶴は、風間の態度に関して妙な胸騒ぎを起こし、風呂を勧めてきた女将に風間の会合場所について尋ねてみることにした。
「あの、【丁字屋】っていう有名な料亭があるって旅の途中に聞いたんですけれど、そこの料理は美味しいんですか?」
千鶴の言葉に、女将は驚いたような顔を作り上げた。
「あらあら! そんな所はあなたの行くような所じゃありませんよ!」
「えっ、どういう事ですか? 普通の料亭だと聞いていたんですけど」
その後、女将から【丁字屋】という店の事を詳しく聞いた千鶴は、怒りと嫉妬に燃え上がりながら風呂へと向かって行った。
「あんなにそわそわしていたのには、やっぱり理由があったんだ」
千鶴は荒々しく着物を脱ぎ捨てると風呂に入り、全身が溶けてしまいそうな程にフラフラになるまで熱い湯の中へ潜り込んでいた。
熱い湯の中に長い時間いたせいか、それとも怒りのせいなのか、千鶴の頭の中の脳みそは燃え滾るように沸騰していた。先程の女将の話が脳裏からなかなか離れず、それが余計に千鶴を苛々とさせていた。
「何でこんなに苛々するんだろう」
千鶴の片手が水面を叩き付ける。
「別にいいじゃない。私はまだ風間さんとは祝言も挙げていないから、ああいう遊びに対して文句を言う権利もないし、それに口付け止まりだし、裸を見られたっていってもあれは仕方のない事だったし……ああ! でも、何だろう、本当に苛々する……!」
そして千鶴は、大きな水飛沫を起こしながら湯船から出た。
部屋へ入るとそこには二組の布団が用意されてあった。しかし、風間の布団は朝まで綺麗なままだろう。今夜は恐らく帰っては来ない。この部屋で千鶴は一人きりなのだ。
何故なら、風間の会合場所だと言っていた料亭――そこは飯盛女の身請所として名高い店だったのだ。
千鶴がその話を女将に聞いた時、あんな男が遊ぶ所をよく紹介した旅人がいたもんですねぇ――と、半ば呆れ果てていた。飯盛女の身請所としてかなり繁盛しているから有名なのだろうが、女たちにとっては嫌な場所である事に変わりはない。男の一人旅でそこへ行くならまだしも、千鶴という女が一緒なのにそんな所へ行くなんて――千鶴はこの道中の約束事の一つを嫌でも思い出してしまっていた。
風間だって男である。身体の中に鬱憤させる欲も起こるだろう。それを拒否しているのは千鶴自身である事も承知しているのだが、どういう訳か今頃になって、いや、先ほどの女将の話を聞いた瞬間から千鶴の心の中に後悔の気持ちが湧き起こっていた。
「私があれを約束事に入れなければ、風間さんがあのような場所に行く事もなかったのかもしれない……」
千鶴は布団の上に自身を投げ出すと、暫くの間天井を見つめ続けた。そして何気なく横を見ると、乱されていない風間の寝る為の布団が嫌でも視界に留まる。
千鶴は天井に向かって大きな溜め息を吐き出した。
「どうしよう。今更あの約束事を無しにしますなんて私の口からは絶対に言えないし……でもこれからの道中、こんな事が何回も繰り返されたら……」
きっと千鶴の心はこの苛立ちで溢れてしまい、いつか爆発してしまいそうな気がするのだ。
「風間さんが私以外の女性となんて何か嫌だ……」
今夜は眠れそうにもない。疲れている身体のはずなのに、千鶴の頭は妙に冴えていて、布団に潜り込んだ後も潤った蜜色の瞳は開いたまま時は過ぎていった。
少しうとうとと浅い眠りに入り始めていた時、静かに襖が開く音がした。先ほどの事を考えていた千鶴はすぐに目覚めてしまったが、起きている事を気付かれないように寝た振りをしていた。
今は何時頃だろうか。明け方ではないようで、自分も布団に潜り込んでからはそんなに時間が経っていないような気がする。風間が千鶴の枕元を通り過ぎた時、白粉の匂いがぷんぷんと漂ってきた。その匂いは風間があの【丁子屋】で女といたという確かな証拠になる。
やっぱり――
女が使う白粉の匂いはかなりきつく香る。特に芸者や遊女のそれの使用量はかなり多く、普通の町娘とはまた違うので分かりやすい。しかし、千鶴は自分の決めた約束事もあってか、何とかその場を切り抜けていかなければならないと決心をしていた。
だから、これからこのような事があったとしても見て見ぬ振りをしていくのだ。千鶴さえこの事を口にしなければ、我慢すれば事は済む話なのだからと思いながらも、胸の内は張り裂けそうな程に悲鳴を上げていた。
素直に話し合えれば事は最善な方向に運ぶのだろうが、千鶴も風間と同じくらいに強い自尊心があり、自然と強情になってしまっていた。
千鶴は心の中で溜め息を吐くと、そのまま静かに瞳を閉じていった――。
「千鶴、朝だぞ。起きろ。出立まで時間がない」
風間の声で気だるい身体をゆっくりと起こした後暫くの間、千鶴はボーッとしていた。昨夜の出来事は、まだ脳裏に焼き付いたままである。夜中の千鶴は、うとうとしては目が覚めるという繰り返しで、ぐっすりと眠る事ができなかった。
目の前にいる風間は昨日のそわそわとした態度とは違っていつも通りではあったが、千鶴の風間に対する見方は完全に変化していた。
しっかりと睡眠を取れなかったせいか、苛々する上に身体は重い。それを感じながらも、風間に急かされて用意を始めていると、様子がおかしい千鶴に気が付いた風間が怪訝な表情を浮かばせながら千鶴に問い掛けてきた。
「どこか体調でも悪いのか? 顔色が悪いようだが……」
「……いえ、大丈夫ですよ。風間さん、今日はどこまで歩くんですか?」
千鶴は不自然な笑みを浮かべていると、自分でも感じながらも風間にいつも通りに接しようと心がけた。
様子がおかしい事を感じていた風間だが、こういう時の千鶴は何を言っても口を割らない性格だと分かっていた為、しつこくは聞こうとはしなかった。だから、風間も普通通りに千鶴に言葉を掛ける。
「今日は平塚宿まで歩く」
「分かりました。平塚宿ですね。でも、また二宿目で泊まるって事は会合があるんですか?」
千鶴が風間と目を合わせずに返事と問い掛けをすると、
「いや、ない」
と、風間が短く伝えてきた。
「私、もう少しの距離なら歩けますよ。だから、先を急ぎましょう」
「いや、この先には箱根宿があるからな。平塚宿でいい」
「そうですか……」
風間はそう言った後、様子のおかしい千鶴を黙ったまま見つめていたが、千鶴は知らぬ振りをして出立までの時をぎこちなく過ごしていた。
千鶴はここまでのまだ短い道中が楽しいと思い始めていた。少しずつ旅にも慣れ、無茶な事もしてしまったが、訪れる宿で様々な事を知識として頭の中に包み込んで興味を持ってきていた自分が、今この時になって、楽しくないと感じ始めていた。
西に行くまではまだまだ先である。千鶴は雪村の家に戻った方が近い、このまま踵を返して帰ろうかという考えが脳裏を過り、続け様に千鶴の脳裏に現れた言葉はただ一つだった。
江戸に、雪村の家に帰りたい――
風間の女関係の事ばかりを考え続けて心が潰れそうになっていた千鶴は、昨日まで考えてもいなかった事を思い始めていた――。
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