東海道-戸塚宿→藤沢宿



 昨夜の風間の着物から白粉の匂いが香り、宿に帰って来るまで女といたのだという信じられない事実も知ってしまった千鶴は、ここからはまだ近い江戸に戻りたいと思うようになり、宿を出てからの歩みは自然に遅くなった。そんな千鶴の鈍さが風間を苛々とさせる。


「千鶴、早く歩け。この速さだと目的の地まで辿り着かないだろう」


 しかし千鶴は風間の言葉に返事も返さずに、黙々とちんたらちんたらと歩き続けている。風間はそんな千鶴を暫く見つめていたが、とうとう呆れ果てたように顔を前に向けると、千鶴を置いて行くように少し速度を上げながら歩みを始めた。


 千鶴は少しずつ距離が離れていく風間の背中を見つめながら歩く。自分なりに気にせずにいようと思うのだが、忘れようと思えば思う程、昨夜の出来事が脳裏に引っ付いたままにして意地悪をしてくる。そして早く忘れてしまいたいと思えば思う程、千鶴の意地悪なその場所は男と女の艶事らしき光景を鮮明に映し出してくるのだ。


 見た事もした事もないのに、まるで自分が一度でも味わったようなその光景が千鶴を苦しめる。そして昨夜は殆ど眠れなかった為か寝不足の千鶴の苛立ちは徐々に深まり、心も不安定になってぐらぐらと揺れていた。


 やはり、風間にとって自分の存在価値は鬼の血を純粋に受け継いだ雪村家の生き残りだけなのだろうか。風間は自分を愛しているのではなく、ただ鬼の血を濃く受け継ぐ子供が――。


 気分が曇っている千鶴の考えがどんどん悪い方へと向かっていく。このような気持ちは嫉妬である事くらいは分かるのだが、そのような気持ちなどを今まで味わった事もなかった千鶴は、風間と江戸で同棲をしていた頃から自分の中に度々起こったこの苛々する気持ちへの対処法が分からずに辛さを感じていた。


 相模の国の最初の宿である戸塚宿は、東海道の旅人だけではなく、大山や鎌倉方面の参詣客も訪れる場所であり、とても賑やかな宿場である。そのせいか、この宿場には本陣が二、脇本陣が三、そして旅籠とはいうと七十五もあった。その中を藤沢宿に向かって歩き続ける風間と千鶴。


 途中、冨塚八幡宮に二人は立ち寄った。この神社の周りには古墳が多数あり、富塚郷と呼ばれているのだそうだ。そしてこの宿場の戸塚はこの古墳を意味する冨塚からきているらしいと、風間はだんまりを続ける千鶴に手短に説明をしていた。


 境内に向かって千鶴は手を合わせる。


 この優れない気分をすっきりとさせて欲しい。そして、風間の女関係の事でぐだぐだと悩みたくはないと、長々と願いというよりも愚痴のようなものを心の中で紡ぎ続けた。


「そろそろ行くぞ」


 目を閉じて手を合わせている千鶴に向かって風間が急かしてくる。少しだけ目を開けた千鶴が風間の方をチラリと見て、


「もう少しいいじゃありませんか」


 素っ気なく言うと、再び目を閉じた。それを見ていた風間は呆れたように、千鶴に聞こえるくらいの大きな溜め息を吐いていた。


 ようやく千鶴が目を開けた為、二人は冨塚八幡宮の鳥居を潜り抜けて、藤沢宿へと向かう道を歩き始める。少し先を歩くと【大坂】と呼ばれる長大な坂が二人を待ち受けていた。ここはあまりにも急な坂で知られている為、【佐野の馬 戸塚の坂で 二度ころび】などという川柳まで詠まれているほどである。


 佐野の馬とは、謡曲【鉢の木】の主人公である佐野原左衛門とその馬の事である。鎌倉に一大事が起こり、そこに駆け付ける途中、この大坂で貧乏の為に栄養失調に陥っていた佐野の馬が息切れしてしまったという内容のものであるが、それ程に急な坂であり、寝不足の千鶴もまた、その馬同様に坂を上り始めた頃から荒い息を吐き出し始めていた。


「ばてているようだが、どこか体調が悪いのか?」


 少し先を歩く風間が振り返り、心配そうに千鶴を見つめるが、


「大丈夫です……」


 千鶴はそれだけを言うと、顔を俯かせて道を見つめながら黙々と歩き続けた。


 ようやく【大坂】を抜け、平坦な道を歩き始めた二人の横に【浅間神社】という小さな神社が現れた。


 この神社は富士信仰をもとにした神社のひとつで、創建は永禄年間だと伝えられているらしい。富士信仰とは、富士山を神と見立てて信仰や崇拝の対象とする事であり、代表的なもので【浅間信仰】がある。


 冨士信仰の成立は登山の大衆化が大きな要素としてあるのだそうだ。その記録として古いものでは、役行者(えんのぎょうしゃ)の登山がある。役行者とは【役小角(えんのおづの)】と言われる飛鳥時代から奈良時代の呪術者であるのだそうだ。その名は平安時代に今の役行者と呼ばれるようになったらしい。富士山はしばしば噴火をしている為、山村付近に住む人間たちに被害を与えていた。その為、その噴火を抑えるのに、火の神、または水徳の神であるとされた木花咲耶姫を身体として勧請された浅間神社が多いのだと風間が説明をして、千鶴はそれをぼんやりとしながら耳に流し込んでいた。


 千鶴の様子がおかしいのは体調不良でも何でもなく、気分的なものだと気付いた風間は、その説明を終えた後に少しだけ怒りを見せて、


「言いたい事があるのなら言え」


 と言ってきたが、千鶴は首を横に振りながら、


「何でもありません。何も言いたい事はありません」


 と否定の言葉を投げ掛けて、再び歩き始めた。


 強情なところは風間と千鶴はよく似ている。しかし、二人の違うところは、風間は思った事を口から吐き出すが、千鶴は溜め込む性質である。この後にはいずれは爆発をするのだろう――風間はそう思いながら、怒りを抑えて自分の後ろを歩いている千鶴の速度を気にしながら歩き続けていた。


 そこから数十分ほど歩くと、諏訪神社がある。昔、この神社の辺りの池に大蛇が棲んでおり、旅人の影を呑んだという言い伝えから、ここら辺りの町は影取町となったのだそうだ。参拝者も少ない神社である。風間と千鶴はここで少しだけ休憩をした。


 この神社の階段の所に座った千鶴は、風間が差し出してきた茶の入った竹筒も受け取らずに下に顔を向けている。


 女という生き物は厄介だ――


 風間は空に向かって大きな溜め息を吐き出していた――。


 藤沢宿に近付き始めた頃。その途中で旅人が楽に進む事が出来る下り坂の【遊行寺坂】があり、昨夜からの寝不足と心の疲れが取れない千鶴にとっては、とても助かる道であった。


 藤沢宿に到着すると、休憩をする為に一軒の茶屋に入った風間と千鶴は、そこでもだんまりのままだった。


 この藤沢宿は本陣が一、旅籠が四十九軒で江ノ島道や鎌倉道へ行く旅人の宿としても賑わいを見せている。茶屋の目の前を通り過ぎる数多の旅人たちを見つめながら千鶴は小さな溜め息を吐いた。


 今朝からの風間の態度を見ていればいつもと同じであり、もしかしたら昨夜の店では女とも何もなかったのかもしれない。しかし、それを率直に聞けずに千鶴は唇を噛み締めた。


 たかが遊び相手の女に対して嫉妬の感情をむき出しするなどと、千鶴の中には女としての自尊心が邪魔をしてくる。


 素直でない自分が嫌い――


 まだ春は遠いのだろうか? 暖かいと感じていた風の中に、一瞬だけ氷のような冷たさの突風が男女の関係で悩み続けて悴んでいる千鶴の全身に吹き付けていった――。


 境川に架かる遊行寺橋を渡った風間と千鶴。



 江戸に帰りたいと思いつつも、結局は後戻りをする事ができない千鶴は、風間の背中に心の中の鬱憤をぶつけながら藤沢宿へと歩き続けていった――。


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