東海道-藤沢宿→平塚宿



 戸塚宿からずっとだんまりの態度を続けたまま歩き始めた風間と千鶴は、所々に植わっている松並木の間を通り抜けて行った。すると、風間がいきなり立ち止まり、千鶴はその背中に顔をぶつけそうになる。


 一体どうしたのかと思って顔を風間の方に向けると、


「南湖の左富士が見えるぞ」


 千鶴との気まずい雰囲気を打ち消そうとしているのだろうか。風間は千鶴の方もは振り向きもせずに言葉を吐き出してきた。その言葉に風間の方に向けていた顔を少しずらした千鶴の蜜色の瞳には、遠くに見える美しい富士の山が飛び込んできた。


「綺麗……」


 その景色は、千鶴の悩みを一瞬だけ吹き飛ばしてくれるように、日光に照らされて美しく輝いている。しかし、その美しい光景を見た後に再び歩き始めた千鶴の心は再び暗い影を落としてしまっていた。


 どこかで風間と逸れた振りでもして江戸に戻ろうか――そう思っている間にもそれがなかなかできずにいる千鶴の目の前に馬入川が見えてきた。


 舟渡しの為に風間と共に並んでいると、千鶴の隣にいた船待ちの旅人が、共に旅をしているのだろう。その相手にこの川の事を話していた。


「馬入川って言ったら源頼朝の馬が急に暴れて川に入ってしまって、落馬したという曰くつきの川だってよ。何でもこの川には頼朝の悪霊が住み着いているって話だぜ」


 その話に旅相手がせせら笑う。


「そんな迷信を信じるわけがないだろう。そんなもん見た奴はよっぽど頭がおかしいんじゃねえか?」


 しかし、その話を持ち出した旅人が急に真面目な表情で語り始めた。


「いや、実際に何人もこの川で溺れているらしいぜ。その飛び込み方が、まるで川の中から何かに引きずり込まれるような感じで……」


 二人の会話の声があまりにも低く不気味に聞こえた千鶴は、その二人の旅人の話を聞くまいと思ったのだが、一度気になり始めた言葉はどんどん耳の奥まで入り込んできて記憶として残り続ける。


 この馬入川に浮かんでいる舟に乗る順番が回ってきた。風間が二人分の二十四文を船頭に渡して先に乗り、千鶴がその後に続いて舟に乗ろうとした時、寝不足の為か、それとも先程の男たちの話が事実だったのか、瞳の中に幻影らしき物が川の中から浮かび上がってきた。


『此方へ……来い……』


 心臓が大きな音を立て始め、心の中で動揺を起こした千鶴が目を擦った後に両耳を抑える。そして落ち着きを取り戻そうとしたが、その幻影と声は何度も千鶴に襲い掛かって来た。そしてこれが先ほど旅人が話していた源頼朝であり、事実であったのだと納得をした。


 舟に乗った千鶴の耳元に、次々と頼朝が話しかけてくる。


『お前はその男と共にたくはないのだろう? ならばこちらで我らと楽しく過ごそうではないか。共にいたくもない男とつまらん旅を続けてどうする? さあ……我が傍に来るが良い……大切にしてやるぞ』


 源の頼朝が身体も心も疲れ切った千鶴の脳裏に甘く、そして優しい声音で誘惑の言葉を囁いてくる。


 この川に入れば楽になれるのだろうか?


 これから先の事などは全く予想もできない。西に行くと決心はしたものの、足を踏み入れた事も無い土地でこれから過ごす千鶴にとっていくら鬼の一族であり同胞とは言われても実際に会った事もない。今まで人間として生きてきた千鶴にとっては、【鬼】という存在自体が未だに掴みきれていなかったのだ。


 千鶴にもどうなったのかは分からない。分かったのは、千鶴がその川に落ちる瞬間に風間が千鶴の名を呼ぶ声と落ちた時の水音――その後に千鶴の全身を纏う水の冷たさであり、その時に千鶴は源頼朝の誘いに応じてしまったのだと気付いた――。


『よくぞ来てくれた。一人では冷たくて寂しくてなぁ。お前のような心の死んだ者を探していたのだ……』


 川底の方から誰かの手によって千鶴の足が引きずり込まれていくような感覚が襲い掛かる。身に纏っている着物は水を吸い込んだ為に重みを増してきていた。


 水の冷たさに我に返った千鶴は、息苦しさのあまりにもがいた。


 苦しい、助けて――嫌だ! 私はまだ死にたくない――!


 そして水面の方に向かって泡を立てる。


 風間さん、助けて――!


 そう願った瞬間、大きな腕が千鶴を引っ張り上げてくれる。その腕と共に千鶴の身体はどんどん上昇をしていった。その時に水底から聞こえた言葉が、千鶴の心を抉るように突き刺さってきた。


『己の心の中を殺して相手に伝える事もできぬ女が死にたくないだと? お前の相手の男も不幸な奴よ……』


 私が風間さんを不幸にしてしまうってどういう事?


『夫婦というものは信じ合う者同士で成り立つのだ。それなのに少しの疑いがその関係を一気に崩す。お前がやっている事はそれだ!』


 私が素直に言わないから?


『さて、それはお前自身が考え、答えを出すべきだ。ただ、愛する男を信じられぬお前は心の狭い女だなと俺は言いたい』


 千鶴の問い掛けに水底からは皮肉な言葉が返ってくる。しかしその声は川の上方に移動するにつれて聞こえなくなり、舟の上に這い上がった千鶴の全身は、水の冷たさによる寒さで疲れ切って強張ってしまい、意識を失ってしまっていた――。




 寒い、寒い――


 意識がなくとも唇が小刻みな痙攣を起こしているのが分かる。何せ寒い。そう感じていた千鶴の身体はいきなり暖かい何かに包まれ始めていた。


 先ほどから寒さしか感じていなかった身体にぽかぽかと身体の芯まで温もるような感覚が襲い掛かってきて目を覚ますと、何やら甘い匂いが千鶴の鼻を擽ってきた。


 寝かされている薄い布団の横に、ふわふわと湯気の立っている茶瓶を乗せている火鉢がこの部屋を温かくしてくれている。


「あら、目が覚めましたか?」


 千鶴の様子を見に来た一人の年配の女性が襖を開いており、顔を覗かせていた。千鶴が目覚めていると知って部屋に入って来たその女は、最中と餅の乗った皿を持っていた。


 千鶴が慌てて上体を起こして女に頭を下げる。


「あなたが私を助けてくれたんですか? 有難うございます」


 少し前の水底から放たれた恐ろしい誘いの声が千鶴の脳裏にしっかりと焼き付けられており、それを思い出した途端に背筋がキュウッと縮こまる思いがした。


「急にあの川へ引きずり込まれるように入ってしまわれたと聞いて驚きましたよ。あの川が曰くつきだという噂をご存知でした?」


 最中と餅が乗った皿を千鶴の目の前に置いた女が目を細めて聞いてきた為、素直に頷きを見せる。


「舟に乗る前に旅人の話で知りました。あれって本当の話なんですか? 私、水底から揺れる何かの影を見て、声を、言葉を聞いたんです……。私を引きずり込もうとする男の影と声を……」


 千鶴が先ほどの自分のの経験した事を伝えた後に質問をすると、その女は苦笑しながら話し始めた。


「迷信だとは思うんですけれどね。でも何人もの方たちがあなたと同じ事を言っていますから何とも言えませんねぇ。ただ話を聞いている限り、大体引きずり込まれる人たちには似たようなところがあるんです。今のあなたのように何か悩み事でもあるのか、疲れ切ったような顔をしているんですよ」
「えっ?」
「あの川で溺れる人は、何か不安な事があったりして、それを気にし続けて疲れちゃった人に限られてるって事ですよ。そんな人は霊に好かれ易いとも言いますでしょ」


 そして、その女はにっこりと笑ってから千鶴の前に置いた最中と餅を食べるようにと勧めてきて、舌を火傷しそうな程の熱々のお茶を淹れてくれた。


「さっ! もう悩み事はここまでにして、この弘栄堂の名物【ちょんまげ最中】と【力餅】を食べて元気を出しなさい。細かい事でくよくよしていては駄目ですよ」


 そう言って千鶴の背中を何度か軽く叩くと、


「旦那さんを呼んできますね」


 と言い残して、襖を閉めて出て行ってしまった。


 何故だろうか。千鶴は先程の朗らかな女の言葉を聞いた後から、江戸に帰りたいという気持ちが消えうせてしまっていた。細かい事など気にせずに、もっとゆったりとした気持ちでいればいいのだと、そんな事を思い始めていたのである。


 布団の上で大きく伸びをした千鶴が最中を一つ手に取って微笑む。


「細かい事でくよくよしてちゃ駄目か……。私ってこんな性格だったのかな? 最近、風間さんのちょっとした行動の変化とかがすごく気になっちゃって……」


 千鶴はぼそっと呟いた瞬間に風間の姿を思い出すと、目を強く閉じながらふるふると頭を横に振った。


 これからの旅は風間を信じて、細かい事は気にしないでおこう――


 そう決意をした千鶴は、手に持っていた最中を一口、餅を二口。腹の虫が鳴き始めたすきっ腹の中に勢いよく放り込んでいった。


 暫くしてから千鶴がいる部屋に風間が入って来た。先ほど女からくよくよしては駄目だと言われ、自分でも納得をして決意をしたのに、風間の姿を見るとどうしてもそれができるかどうか不安になってしまい、顔を俯かせてしまう千鶴。


「落ち着いたか?」


 と風間に問い掛けられると、


「はい、すみませんでした」


 と、やはり素っ気なく返事をしてしまう。


「そうか……」


 風間も千鶴と同じく短い言葉を向けた後、千鶴の横の火鉢の前に座り、皿の上に残っていた最中と餅を一つずつゆっくりと味わって食していた。


「美味いな……」
「はい、とても美味しかったです」
「食べたのか?」
「三つほど……」
「そうか……」


 風間はそう言うと、火鉢の横から立ち上がって千鶴を見下ろしてきた。


「すぐに出立出来そうか?」
「はい、すぐに出立できます」


 千鶴が頷くと、風間は部屋の窓から見える外の景色を見た。


「雲行きが少し怪しい。これでは雪になるかもしれんから急ぐぞ」
「はい……風間さん、その着物はどうしたんですか?」


 風間の格好は舟に乗る前の着物ではなく、千鶴が江戸を出立する前に自分の着物と共に入れて持ち歩いていた風間の着物を身に纏っている。そして、千鶴は自分が身に纏っているものを見てみると、それも自分が持ち歩いていたもう一組の着物であった。


 千鶴自身は川に落ちたのだから、今身に纏っている着物に着替えているのは当たり前であるが、風間がどうして着替えているのかが不思議であった。しかし、水底から舟上に上げてくれた救いの手を思い出した千鶴は見開いた目を風間に向けた。


「もしかして風間さんがあの水底から私を助けてくれたんですか?」


 二人の間に暫しの沈黙が走った後、


「………行くぞ」


 風間は出立の号令は掛けてきたが、千鶴の驚きの問い掛けには答える事もなく立ち上がっていた――。



 そして二人は平塚宿に入って宿泊をしたのだが、風間は酒も食事もあまり進めずに風呂に入ると早々に布団の中に入って寝てしまっていた――。


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