天霧の苦労と風間からの礼-sidestory-
「天霧、今日は女の忍びがやって来るそうだから千鶴を頼んだぞ」
風間は千鶴よりも早くに目を覚ますと、天霧の部屋を訪れてこう言った。
「女の忍びはできるだけ控えるように伝えていたのですが」
既に布団から起き上がり身支度を済ませていた天霧が首を傾げる。
「ふん、恐らく千鶴が身ごもっているから、ちょっとした悪戯心を起こす者がいるのだろう」
風間はそう言うと、天霧の部屋から姿を消して行った。
千鶴を妻に娶ってからの風間が女遊びをしなくなったという噂は、日の本の鬼の仲間たちに知れ渡っていた。そしてもう一つ。西の里へ向かう道中、千鶴の風間に対する女への嫉妬深さもまた有名になっていたのである。
千鶴がまだ普通の身体の時は、風間が毎夜抱いていた為に欲求不満という感情は全く生じず、忍びの女を見ても心が揺らぐ事はなかったのだが、ついひと月前に千鶴が身ごもっているという事が分かり、それからは夜の艶事がなくなってしまった為に、風間の欲求不満は少しずつ上昇を始めていた。それを知った一部の鬼たちがお遊びみたいな感じで、忍びの女を送ってくるのである。
「今の千鶴は食べ悪阻の上に苛立ちが多いというのに、俺と他の女が会話をしているところを見られたらどうなる事か……」
風間は苛立ちを起こしながらも、千鶴が寝ている間に風間家の屋敷から出て行ったのであった。
「天霧さん、千景さんはどこに行ったんですか?」
朝の悪阻が特に酷い千鶴は昼ごろに起きてきた。そして風間がいない事に気付いて、目の前に姿を現した天霧に問い掛けてみた。すると、天霧の表情が変に強張っているのに気付いた千鶴がくりくりとした両目をスーッと細めていった。
「千景さんはどこに行ったんですか?」
「えっ、ああ、し、仕事ですよ。仕事です」
「千景さんが仕事の時は天霧さんも一緒に行くのに、今日はそうじゃないんですか?」
いつもはおっとりとしている千鶴なのだが、風間の子を身ごもってから勘が鋭くなっている。
天霧は言葉を選びながら千鶴にゆっくりとした口調で伝えた。
「風間にしかできない仕事でして。その為、体調の優れない千鶴さまのお世話をするようにと言われたので、私がここに残っているのです」
「ふーん……そうですかぁ」
天霧は注意に注意を重ねた上で言葉を紡いだつもりではあるのだが、千鶴の猜疑心は晴れないようで、ますます目を細めて天霧を睨み付けてくる。その視線があまりにも辛い天霧は、千鶴に食事を持って来ると言い残してその場を早々に立ち去った。
「怪しい……」
天霧の姿が消えるまでその背中を見つめていた千鶴は、小さな呟きを一言漏らしていた――。
「……という訳で、今度の会合は京の町のこの場所になります。それと、姫さまからの伝言で、千鶴さまにはお身体を大事にするようにとの事です」
君菊を目の前に、女の忍びだと聞いていた風間は気抜けをした。君菊ならば風間の屋敷に連れて行っても千鶴は嫉妬を起こさない。そして、この悪戯が千姫によるものだと知った風間の心境は穏やかでもなかった。
「天霧には会って行くのか?」
風間がそう問いかけると、君菊は残念そうな表情を浮かべて首を横に振った。
「そうしたいのは山々なのですが、この任務はいきなり下されたもので、今度の会合の準備もまだしておりませんからすぐに戻らなければなりませんの」
「そうか。ならば、この待ち合わせには天霧を寄越せば良かった。女の忍びが来るとまでは聞いてはいたが、まさか君菊とは知らなかったものでな」
風間が嫌味っぽく返事をすると、やはり千姫の悪戯であるらしく、君菊は少し気まずそうな笑みを零した。
しかし天霧もいい女を手に入れたものだと風間は心の中で唸りを上げた。千姫の屋敷では普通の着物を身に纏っているか、角屋では芸者の格好をしていたが、忍びの時には動きやすい衣服を身に纏う。身軽な服装をするのは分かっているのだが、忍びの女たちに共通するのは、何故か胸元が開いたものを好んで着るという事である。そして今の君菊の胸元もかなり開いており、胸の谷間がくっきりと見えていた。
駄目だ、こやつは天霧の女だ。抑えろ――
風間は君菊と情報の受け渡しを行いながらも、その個所が気になって自然と目が向いてしまう。そんな時、君菊が風間の背後の方に視線を向けていきなり微笑んだ。
「天霧があそこに……」
「えっ?」
君菊の言葉に風間が驚いて背後を振り向くと、苛立ちを露わにさせながら歩いている千鶴と、それを必死に追いかけている天霧の姿が視界に入った。
「千鶴を頼むと言ったのに、あのような所で何をしているのだ?」
風間が口元を歪めて怒りを放っていると、君菊が笑いながら返事をしてきた。
「風間は千鶴さまに愛されているのですよ。それも目を離せない程にね」
風間と君菊がいる場所は小高い丘であり、大きな木々が二人の姿を上手く消している。だから千鶴はこちらには気付かないだろうが、この小高い場所にまで千鶴と天霧の言い合っているのは聞こえてきた。
「天霧さんは嘘つきです!」
「う、嘘ではありませんよ! 風間は本当に……」
「仕事場にもいなかったじゃありませんか!」
「だから、仕事場にいるとは言ってはおりません!」
「もうっ! 皆で私に内緒ごとばかりして!」
「千鶴さま、落ち着いて下さい!」
千鶴を必死に止めている天霧に何故か憐れみを感じてしまう風間。このひと月の間にも千鶴を天霧に頼んだ事が何度かあったが、いつも風間がいない時にはこのようなやり取りがされていたのだろうか。
風間は君菊の方に振り向いて唇を揺らすと、それに君菊が頷いた。そして、風間はその場を去り、千鶴と天霧がやいやいとやっている方へ歩みを向けて行った。
「もう、離して下さいって!」
「いけません! 屋敷に戻って下さい!」
「嫌ですっ!」
腕を引っ張ってくる天霧の手を思い切り振り払った途端、千鶴の身体がぐらりと揺らいだ。
「千鶴さまっ!」
天霧の表情が強張りを見せて千鶴の腕を掴み直そうとするが既に遅く、千鶴の身体は地に打ち付けられようとしていたその時、
「全く、己の身体が今、どのような状態なのか知っての行いか?」
と、風間の逞しい両腕が地に打ち付けられようとしていた千鶴の身体を危機一髪で支えていた。
「ち、千景さん……」
「か、風間……」
千鶴の驚いた顔と、目の前で惨劇を見ずに済んだ天霧の安堵した表情が風間の視界に飛び込んでくる。
風間は支えていた千鶴を抱き上げると、
「天霧、今すぐにあの場所へ行け」
顎を小高い丘の場所へとしゃくり上げた。
天霧がその方に視線を向けて瞠目する。
「あれは……」
「ああ、すぐに戻らなければならないそうだが、お前の為に待ってもらっている」
風間がそう言うと、天霧にしては珍しい柔らかい笑みを浮かべてその場から駆け出して行った。
「何の事なんですか?」
千鶴が風間の顔を見上げた後に天霧の行く方に視線を向けようとしたが、それは風間の強い抱き締めによって制止された。
「お前は見なくていい」
「な、何でですか? もう、結局は皆で私に隠し事をするんだから! でも今日こそは白状してもらいますからね……千景さん、今までどこに行ってたんですか?」
「仕事だ……」
「何の仕事ですか?」
「お前は知らずともいい」
素っ気ない返事をしてくる風間に向かって千鶴が頬を膨らませながら目の前の着物の臭いを嗅ぎ始める。
「何か、女の匂いがします……」
「気のせいだ……」
「でも、この香り知ってる……」
千鶴が風間の胸元に顔を埋めて呟いた。
「君菊さんが来ていたんですね……」
その言葉に黙ったままの風間は小高い丘の方に少しだけ視線を流した後、
いつも感謝しているぞ――天霧――
心の中でそう呟くと、その場所から背を向けて千鶴を抱いたまま屋敷の方に戻って行った。
暫くの間、小高い丘の上では君菊と天霧との密やかな愛の囁きが行われていた――。
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