東海道-平塚宿→大磯宿



 平塚宿は次の宿場である大磯宿との距離が東海道の宿間では二番目に短く、この宿場に旅人たちを泊まらせようと留女(とめおんな)たちがよく客引きをしている。昨日、風間と千鶴がこの平塚宿に到着した時もその女たちはすぐに駆け寄って来た。それも共に歩いていた千鶴を押し除けて風間に愛想を振りまいたのだ。


「ねえ、次の大磯宿まではあの高麗(こま)山を越えないと行けませんから、今日はここでお泊りになった方がよろしくてよ」


 しかし風間は自分の周りに屯う女たちなどに目もくれずに歩みを進める。この宿場に入る前から風間の様子に異変を感じていた千鶴が傍に歩み寄ろうとすると、


「ちょっと、これは私の客だよ。横取りしないでおくれ」


 などと、留女たちは千鶴の事を同業者のように思っていたようだ。しかし、様子のおかしい風間がいきなり周りに視線を彷徨わせ、千鶴の姿を目にした途端、


「早く来い」


 と言ったが為に、風間の周りにいた女たちが一斉に千鶴の方に向いてきた。


「は、はい……」


 千鶴が風間の隣に行こうとしている時、留女たちの間から囁き合う声が聞こえてきた。


「あんないい男が餓鬼のような女と一緒だって……変な組み合わせよねぇ」
「あの女、あの男にどうやって言い寄っていったのかしら?」
「まあ、あの顔でも身体が良かったんじゃない?」
「ええっ? 見た感じ、身体の方も満足するような形じゃないけどぉ」


 何とも下品な会話に、千鶴は思わず留女たちを睨み付けてしまう。それを見た女たちの間から、更に下品だと思われるような大きな笑い声が放たれた。


「あーはっはっは! こっちを睨んできたよ。おお、怖いっ!」
「自分に自信がないから睨みで返そうってのかい? こっちは本当の事を教えてやっただけなのにさ」


 留女たちに見えるように、周りからも自分は幼く見えるのだろうか? 千鶴を見てせせら笑っている女たちは仕事柄のせいか、やはり艶のある姿形をしている。それに品川宿で見た風間の遊び相手であった女も妖艶な雰囲気を持っていた。そんな女たちから嫌味な言葉を投げ付けられてもそれを返す事ができない千鶴が唇を強く噛み締めていると、隣りを歩いていた風間が千鶴にしか聞こえない声音で囁いてきた。


「あのような女たちは皆、不幸な生き方をしてきたのだと思って憐れんでおけ」
「憐れむって……皆さんは本当の事を言われてますから、別に……」
「お前はあの女たちが貶すほど餓鬼ではない。己に自信を持て」


 風間の言葉が千鶴の心の中に浸透する。


 自分に自信を持て――
 
 千鶴は風間の隣を歩きながら、今まで丸めていた背筋をピンッと伸ばしていた――。


 平塚宿で早々と寝てしまった風間は朝もなかなか目が覚めなかった為に千鶴は起こすのに苦労をしていた。そしてようやく起きたと思えば、布団の上で長い時間ぼんやりと座っている。いつもなら千鶴をからかっては面白がる風間なのに、昨日からそれが一度もない。心配になって手に触れようとすると、


「触るな……」


 と威嚇のような言葉を頂戴してしまい、起こす時にもできるだけ身体に触らないよう気を遣っていた。


「風間さん、どこか調子が悪いんですか?」
「いや、何故そのような事を聞く?」
「だって、朝食に殆ど手をつけてないですから……」


 千鶴の膳の上は見事に空。しかし、風間の膳の上は全ての料理が残されていた。


「あまり腹が減っていないのだ」


 風間は素っ気なく返事をすると、自分の目の前の膳を自分から静かに遠ざけていた。




 宿を出た二人は、大磯宿へ向かって歩いて行く。その途中、高麗山の左手の道を歩いていた千鶴が昨日の留女の言葉を思い出してぐちぐちと文句を連ねた。


「何が高麗山を越えて行かなければならないよ……。山の麓の道を通ればすぐじゃない」


 それを聞いていたのか、今まで黙り込んでいた風間が小さな声で話し掛けてきた。


「お前はあの女たちの言葉を信じたというのか?」
「信じるも何も、あの方たちはここの生まれでしょ? 道とかには詳しいでしょうから信じるに決まっているじゃありませんか」
「ふっ……全く騙されやすい女だ。平塚宿と大磯宿までの距離は二十七町(約3q)だ。宿場町は旅人たちの宿泊代や舟代などで成り立っているからな」
「区間が狭いという事は、そのまま泊まらずに次の宿場に行く旅人も多いですものね」
「そうだ。そしてあの留女たちは宿に旅人を引き込んで楽しくさせれば駄賃がもらえる。貧しい女たちにとってはいい小遣いになるわけだ」


 風間はそこまで言うと再び黙って先を歩き始める。


 昨日の留女たちの言葉には傷付いた千鶴であるが、それよりも風間の様子がおかしいのを心配していた。何となく頬が赤いような気がするのは気のせいだろうか? しかし、いつも軽快な歩みがどことなく重そうに感じる。


 千鶴は風間の隣に駆け寄ると、朝に聞いた問い掛けを再び繰り返してみた。


「風間さん、具合が悪いんですか?」
「いや……」
「何かおかしいです」
「何がおかしいというのだ?」
「どこか調子がおかしいのなら正直に言って下さい」
「別にどこも悪くはない」


 風間はそう言いながら空を見上げて舌打ちを起こした。


「一雨きそうだな……」
「えっ、雨……?」


 風間が呟いた通り、空を見上げた千鶴の額に冷たい粒が当たった。


 大磯といえば【大磯・虎ヶ雨】が有名で、そこの化粧坂に大きな松と榎の並木がある。この場所は【曽我十郎】の愛人であった【虎午前】の涙が雨になって降るという言い伝えがあるように、その場所に足を踏み入れてからぽつぽつと霙混じりの雨が降り出していた。


「大磯宿まではすぐだ。急ぐぞ」
「は、はい……」


 二人は、その霙雨に打たれながら化粧坂(けわいざか)と呼ばれる坂を歩いて行った。


 この化粧坂は狭いが傾斜は緩く、歩くのには楽な登り坂である。何故この坂が【化粧坂】と呼ばれるようになったかというと、鎌倉時代はこの辺りが大磯の中心であって、遊郭が軒を並べていたからとか、坂の上で商取引が盛んだったために【気和飛坂】と呼んでいたのが徐々に今の名に変わったとか様々な説があるのだが、この名前がついた地名は各地にもあり、多くは国府などの近辺であり、【境界の場の呼称】として【化粧坂】と通称されたのではないかとも言われていた。


 化粧坂を過ぎ、暫く歩いて行くと右手の方に地福(ぢふく)寺がある。この寺は真言宗の古刹(こさつ)で、あの徳川家康が利用したと言われている茶屋があるのだそうだ。その寺の前を通り過ぎようとした時、寺から出て来た旅人の会話が千鶴の耳に流れ込んできた。


「おい、ここの寺に安置されている虎石は美男なら持ち上げる事ができるらしいぜ」
「美男しか持ち上げられねぇのか? じゃあ、俺たちには無理だって事か?」


 そして笑いながら、風間と千鶴が来た方に向いて歩いて行った。


 千鶴が風間の横顔を見つめる。


 風間なら先ほどの旅人たちが言っていた虎石を持ち上げる事ができるのだろうか?


 しかし、風間は千鶴の視線にも全く気付かない様子で先を歩いて行く。こういう時、普段の風間は何らかの反応をしてくる。それがないという事は――


 やっぱりどこか体調が悪いんだ――


 緋色の両の瞳には覇気がなく、少し呼吸も荒いような気がする。それに時折だが身体を震わせているのにも気づいていた千鶴は、風間の身体の一部を触って熱があるのかないのかを確かめたいとも思っていた。しかし、そのような気配には鋭いようで、手を繋ごうとすると簡単に振り払われ、少し身体をくっ付けて歩こうとすれば、一歩前を歩いて行く。


 千鶴はそんな風間を見つめながら、小さく溜め息を吐き出していると、千鶴のすぐ目の前を歩いていた風間が急に立ち止まった。


「今日は小田原まで歩くぞ」
「あっ、はい……」


 千鶴にどこまで行くかを伝える為だけに立ち止まったのだろうか? いや、何となくだが休憩をしていたような気がする。


 千鶴は少しずつ歩く速度が遅くなっている風間の後ろを心配しながらついて行った――。


※この大磯宿は明治十八年、松本順(松本良潤)によって日本で初めての海水浴場が開設された所である。
海水浴がいかに身体によいかという事を学んだ松本良潤。最初は小田原の海に開設をするつもりだったが、町民たちの理解を得られずにこの大磯にしたのだそうだ。



※風間が千鶴を江戸に迎えに行ったのは明治初期の設定にしてあります。従って松本良潤が海水浴場を開設した年とはかなりかけ離れていたので書けませんでした。新選組とも関係ありますのにね……。


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